第七章:雪が降る 第四十七話「名もなき剣、永遠に」
冬が深まると、尾張の空はひたすらに白く沈む。雲の層は重く垂れこめ、陽の光を拒んだまま、風だけが冷えを連れて田畑を吹き渡る。
その冬も、静かに訪れていた。
谷を越え、丘を越えたその先に、誰の名も記されぬ一本の木がある。春には新芽を、夏には蝉を、秋には紅葉を、そして冬には雪を宿すその木は、長く人知れずそこに在った。
高山太一は、白く染まる道をゆっくりと登っていた。
かつて、若い頃に幾度となく通ったその道を、今は老いた身体で、一歩ずつ確かめるように歩いていく。足元は霜に凍み、雪の薄い層が履物にまとわりつくたび、彼の歩幅はわずかに狭まった。
風が吹く。木の枝が鳴り、遠くで鴉の声がする。
だが、音はそれだけだった。
――名もなき剣士。
――白装束の亡霊。
――誰にも知られず、本陣を斬り開いた影。
あの戦から幾十年が過ぎただろう。太一は指折って数えようとはしなかった。ただ、自らの記憶と足音だけを信じ、今日この日も、例の場所を目指していた。
そして、その丘の上へと辿り着いたとき――
そこに、まだ風はあった。
そして、廃寺は確かにそこにあった。
庭先の木の根元には、ひとつの白鞘が納められていた。
木箱に収められているわけでも、塚が築かれているわけでもない。ただ、幾度もの風雪に晒されながらも、不思議と朽ちずに佇むその白鞘は、まるでそこに“居るべきもの”のように、自然の景色の一部と化していた。
太一はその前に、静かに膝を折った。
名を刻むことを許されなかった剣。
軍記にも、口上にも、戦功にも記されなかった剣。
それでも、こうして自分の前に在る――ただ、それだけが、すべてを語っていた。
「……また、雪が降るな」
空を仰いだ矢野の頬に、一片の白が舞い降りる。風もなく、音もなく、ただそれは、空からそっと降ってきた。
雪だった。
静かで、重たくて、温かいものを覆い隠すような、冬の雪。
太一はしばらく何も言わず、手袋を外して白鞘に触れた。冷たく、そしてどこか穏やかな感触が、掌に伝わる。
はじめて、触れた。
その手を通して、太一の身体の中に、沖田静の魂が入り込んでくるかのような熱さを感じた。
「静よ。お前さん、あのほそっこい手で、こんな重いもん握ってたんだなぁ……」
言葉が生まれるままに、彼の心は剣に向けて語っていた。
かつて名を問われるたび、「ない」と答えた剣士。
自らの名が記されることを望まず、功を他人に譲った男。
その生き様は、英雄譚のどこにも記録されず、ただ“風聞”として、人の口から口へと伝えられるだけになった。
けれどそれでよかったのだと、太一は今、思っていた。
最後まで猛反発した。
「そんなんじゃ、静が浮かばれねぇ」と叫んだ。
でも――。
名がなければ、消えはしない。
名を持たなければ、伝える形に縛られない。
“その剣”は、誰かの記憶の中に、それぞれ異なる姿で残り続ける。
「……生きてるよ、お前は」
ぽつりと呟いた太一の声は、雪に吸われて消えていった。
※
その頃、尾張の北にある寒村では、ひとりの旅僧が火鉢を囲みながら、子供たちに話をしていた。
「……その白装束の剣士はな、人も斬れば、己も傷つける。それでもなお、生きねばならぬと――そう決めた男だったそうな」
子供のひとりが、目をまるくして訊いた。
「それ、本当にいたの?」
「いたとも。おらぁ、見たんだ。雪の夜、峠の道でな……真っ白な男が、誰にも気づかれずに、困ってる者を助けてすっといなくなった。風のように現れて、風のように消えた。まるで、この世の者じゃなかったなあ」
他の大人たちは笑ったり、頭を振ったりしていた。
だがそのとき、一人の老婆がふと、か細い声で呟いた。
「あの人……名は、なかったんだよ」
誰も、その言葉に返すことはできなかった。
名を持たぬ剣士――それは、尾張の冬にだけ、ひっそりと語られる昔話のように、そこに息づいていた。
矢野の名も、太一の名も出てこない。誰もがそれぞれに“その剣”を見たと語り、決して名前を尋ねようとはしなかった。
それが、“その剣”を語る作法だった。
白い影は、声なき祈りとともに、語る者の心の奥にだけ宿る。
あるいは、語ることで形を得る剣ではなく――
黙して受け取ることでのみ、伝えられる何か。
雪が降る夜にだけ、その影は風に溶けて、再び世界のどこかに立つ。
※
雪が止む気配は、なかった。
その夜、高山太一はひとり、庭に出ていた。老いた身にはこたえる寒さだったが、不思議と足が、ある一点を目指して動いていた。
懐には、小さな包みがあった。
数日前、遠くの地に住む江藤忠邦から手紙が届いた。彼は今や孫に囲まれて余生を過ごしているという。便箋の最後には、こんな言葉が添えられていた。
『この生涯を閉じる前に、息子たちとともに彼の人生を再び語ろうと思います』
『この世が彼の存在を忘れないように』
「まったく、忘れさせてくれねえ男だったな」
その文面を読みながら、太一はそっと笑った。
――忘れられない、のではない。
――忘れる必要が、なかったのだ。
庭の隅に佇む一本の柊の木。その根元に、彼は静かに包みを置いた。中には、かつて静が使っていた破れかけの布袋が入っていた。矢野が今際のときに太一に託したものだった。戦の夜に失くしたと思っていたが、いつのまにか荷の底に紛れ込んでいたらしい。
太一は静かに頭を垂れる。
「……また、雪が降るな」
それは、語りかけではなかった。ただ空に向かってこぼれた、独り言。
だが、不意に、耳元をかすめるような風が吹いた。
凛と佇み、ときに命を燃やし、若く散った静謐な気配。
友の記憶とともに生き、先に逝った懐かしい気配。
彼は目を閉じ、身を委ねた。
時が経ち、やがてその庭にも春が訪れるだろう。
花が咲き、風が吹き、また雪が降る。
その度に、誰かが思い出す。
名もなき剣士がいたことを。
その剣士とともに、若かりしを熱く過ごした兵士たちがいたことを。
雪のように現れて、風のように消えた――剣。
それはもう、“伝説”ではない。
生きて、戦って、そして去った一人の男の、“祈り”だった。
記録に残らずとも、名が残らずとも、
ただその剣は、永遠に――そこに在る。




