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名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り  作者: 妙原奇天


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第七章:雪が降る 第四十五話「その剣に雪が降る」

 寺の裏手に、小さな祠がひっそりと建っている。

 名のある仏像もなく、立派な灯籠もない。参道すら途切れがちで、草のあいだから石畳の欠片がかろうじて覗いているだけだった。けれど、誰かがときどき草を刈っているらしく、茂り放題にはなっていない。

 春には山桜の花が風に流れ、夏には蝉の声が降り注ぐ。秋には落葉が柔らかく地を覆い、冬になると静かに雪が積もる。

 祠のなかにあるのは、ただ一本の白鞘だった。

 木でできた、なめらかに磨かれた鞘。刀身は納められていない。柄も、鍔も、ない。ただの木の鞘。だがそれは、あまりにも静かで、あまりにも存在感があった。

 ある者はそれを「空の象徴」と呼び、ある者は「剣を捨てた者の記憶」と呼んだ。

 由来を問う者もいた。なぜここにあるのか。誰が置いたのか。どうして剣が抜かれていないのか――けれど、誰も答えを持たなかった。

 それでも、祠の前には絶えず手を合わせる者がいた。

 ごく自然に。まるでそこに祈るのが当然であるかのように。誰に命じられることもなく、人々は足を運んだ。


 ある日は、老いた男が来た。

 杖をつき、足をひきずりながら、小さな祠の前まで進むと、そっと腰を下ろした。白髪混じりの髷を風がなびかせ、男はしばらくのあいだ、無言で白鞘を見つめていた。

 やがて、ぽつりと口を開く。

「……あの夜、俺は死ぬはずだったんだ」

 誰に聞かせるでもない、独り言だった。

「仲間がみんな討たれてな。山を彷徨って、とうとう動けなくなった。気を失いかけたとき、白い影が前に立っていた。手には、鞘を納めた剣……」

 男の声は震えていた。だが、それは恐怖ではなかった。もっと、やわらかく、懐かしいものだった。

「斬られると思った。だが、その人は、火を貸してくれた。水をくれた。名を訊いても、答えなかった。ただ、俺の顔を、静かに見ていた」

 男は小さく笑う。涙が、皺深い頬を伝った。

「あの人に、命を拾われた。だから今、こうして……こうして、生きている」

 深く頭を垂れ、しばらく動かなくなったその男は、やがて、風に背を押されるように立ち去った。

 祠の前には、少しだけ乾いた手の跡と、落ち葉の上に残された膝の跡が残っていた。


 また別の日、旅の僧が訪れた。

 寒風に袈裟をなびかせながら、僧は祠の前に立ち、合掌し、まるで誰かと対話するように、静かに語り出した。

「……あの時、出会わなければ、私はこの道には入らなかったでしょうな」

 その声は深く、あたたかい。

「戦の末に迷い込んだ森の中で、私は生きる望みを絶っておりました。飢えと疲れに心折れ、刃で我が身を断とうとした、その刹那――」

 僧は、風に吹かれた白鞘を一瞥した。

「――あなたが現れた。白き装束に身を包み、静かに手を伸ばした。何も言わず、ただ私の手から刃を取って……そして、何も言わぬまま、行ってしまわれた」

 遠い記憶を辿るように、僧は言葉を継ぐ。

「その背を見送りながら、私は思いました。あれは、生を奪うための剣ではなかった。人を斬るためのものではなく、人を、生かすためにそこにあったのだと」

 祠の前で、僧はふたたび深く頭を垂れた。どこか祈りというよりも、友に語るような、長い旅の終わりのような仕草だった。

 風が吹き、僧の袈裟の裾がふわりと舞った。白鞘のまわりに、誰も見ていないはずの空気が、静かに波打った気がした。


 ――冬が深まる。

 その祠は、木立に囲まれた小高い丘の中腹にあり、普段は人通りもない。だが季節の節目には、ふと人が立ち寄る。不思議なほど、必ず誰かがそこへ来る。

 ある者は、名も語らず花を手向けていく。

 ある者は、遠くから手を合わせるだけで帰っていく。

 そしてまたある者は、何もせず、ただそこに立ち尽くし、長い時間を過ごしていく。

 祠の奥に納められている白鞘は、どれだけの年月を経ても、光を失うことがなかった。装飾もなく、銘も刻まれていないそれが、なぜか人々の足を止めさせる。

 ある日、ひとりの子どもが父親に尋ねていた。

「ねえ、あの剣は誰のもの?」

 父親は答えに迷ったように眉をひそめ、しかしやがて小さく笑って言った。

「……誰のものでもない。けどな、みんなの中に残ってる。そんな剣なんだよ」

 子はよくわからないという顔をしていたが、それでも真似るように、そっと手を合わせた。

 祠の前に、雪がまたひとひら、舞い落ちた。

 誰かが運んだ椿の花の上に、やわらかく降り積もる。

 花も、雪も、音ひとつ立てずに――。

 それはまるで、「静」という名が呼ばれぬ代わりに、世界がそっとその在処を覚えているかのようだった。


 太一がその祠を訪れたのは、久方ぶりのことだった。

 老いた足を引きずりながら、冬の田を横切り、林を抜け、あの場所にたどり着く。息を切らし、腰を伸ばすと、彼は変わらぬ祠と、その前に敷かれた雪を見下ろした。

 誰かが、最近来ていたのだろう。白い布に包まれた何かが供えられ、木の根元には小さな灯明が燃え尽きていた。

 太一は雪の上に膝をつき、懐から湯呑を取り出す。小さな徳利も。

 昔、焚火を囲んで静と交わした、あの酒の記憶。冷えた手で蓋を開けると、かすかに香る糠の匂いが立ちのぼった。

「……雪が、降るな」

 呟くように、風のなかへ言葉を落とす。

 積み石が、そこにあった。まるで何も語らず、ただ“在る”ということだけで、すべてを伝えていた。

「なあ、静」

 太一は笑った。声は少し掠れていた。

「お前、ほんとうに、ずるいよな。何も言わずに消えてよ。こうして雪のなか、俺に言葉を考えさせるなんてさ」

 だが、返事がないことに、もはや慣れていた。

 彼は積み石の前に一献を供え、風呂敷包みを開いて彼の”遺留品”を雪に埋める。

 しんしんと降る雪は、何も言わず、ただ音もなく積もってゆく。


 雪は、音を持たない。

 風が吹いても、それは囁くような気配だけを残し、枝に積もる白がふわりと揺れるだけだった。

 太一は、焚火を起こすこともせず、ただそこにいた。

 祠の前、積み石のそばで、まるで“彼”の帰りを待っていたあの日のように。

 だが、いまの彼は待ってはいなかった。

 訪れる誰かの足音を求めるのでもなく、雪の向こうに立つ白い影を探すのでもない。

 ただ――

 彼自身が、先に逝った盟友とともに“その剣の隣にいる”ということを、静かに受け入れていたのだ。

 やがて、小さな音がした。

 鳥が枝を揺らしたのか、それとも、風が落ち葉を転がしたのか。あるいは、雪がひとひら、木の幹を滑り落ちたのか。

 そのいずれとも知れぬ音に、太一は目を閉じた。

「……俺はもう、剣を振らんよ」

 独り言のように、祠へ向けて囁く。

「けど、お前の剣は……まだ生きとるな」

 それは、訪れる者たちの祈りのなかに。

 語り継がれた逸話のなかに。

 あるいは、何も語られずに、ただ心に残った沈黙のなかに。

 剣というものは、人を斬るだけのものではない。

 そのことを、静は誰よりも深く理解し、そして命をもって示していった。

 風が、ひとつ、祠を撫でるように吹き抜けた。

 積み石の上に積もった雪が、すこしだけ崩れ、そしてまた、静かに形を変えた。

 それはまるで、剣が深く、静かに呼吸しているかのようだった。


 日が傾きはじめ、空の色が鉛から薄墨へと変わっていく。

 太一は、祠の前に小さな白い花を一輪、そっと供えた。

 山道の途中で見つけたものだった。名も知らぬ、雪に咲く細い花。けれどそれは、この場所にこそふさわしく思えた。

 誰も咎めない。誰も気づかない。

 それでも彼は、毎年この日になるとここへ来て、花を置くのだった。矢野すらもそのことは知らなかっただろう。静かに、何も語らずに。

「……ありがとうな」

 太一はそう言い、祠に一礼した。

 まるでそれが合図であったかのように、またひとひら、雪が舞い落ちる。

 ――ありがとう。

 それは、剣に捧げられた祈りの声か。

 それとも、剣から贈られた最後のことばか。

 太一には分からなかった。ただ、心の奥で何かが確かに、そっと触れていった。

 手のひらほどの風が、草を揺らし、彼の背を押した。

 それは、“もう行け”という、優しい背中のぬくもりにも似ていた。

 太一は一歩、山を下りる方へ向かう。

 誰もいないはずの森の奥で、ふと、気配がした。

 雪のなかに立つ、白い影。

 それは幻か、記憶か――けれど彼は、もう振り返らなかった。

 今はただ、在りし日の思い出がそこに確かにあったことが、すべてだった。

     ※

 雪が降りしきる山のなか、誰もいないはずの道を、ひとつの足音が淡く刻まれていく。

 やがて、祠の前に一人の女が立つ。年の頃は若く、旅姿のまま、白く凍った石畳に膝をついた。

 その目は涙を浮かべながら、祠に納められた白鞘を見つめていた。

「――あなたのことを、聞きました」

 声はかすれていた。遠くの村で育ち、昔、父が語った「名もなき剣士」の話を覚えていたという。

 ある夜、父は酔った勢いでこう言ったのだ。

 ――昔、お前が生まれる前にな、風のような剣士がいたんだよ。

 名前も、顔も、何も知らない。けれど、ただ一つだけ忘れられないのは、その剣が、降参した彼女の父を斬らなかったってことだ。

 女はその話を、大人になっても手放さなかった。

 そして、ある日誰かに導かれるようにしてこの山へ来た。

 雪の中、白い鞘に手を合わせる。

「ありがとう、って言いにきました。知らない誰かのことなのに、なのにどうしてだろう、ずっと……」

 涙が音もなく頬を伝い、雪へと吸い込まれていく。

 白鞘は何も語らない。けれど、風がそっと女の髪を撫でた。

 その風の中に、誰かの影があった。

 剣を抜かず、ただそこに立っていた“彼”の面影。

 女は目を閉じた。そして、深く、静かに頭を下げた。

 遠く、どこかの村で雪が積もる。

 別の町では、ある老僧が「白装束の剣士」の話を子に語る。

 また別の場所では、剣術を教える者が、手本に一本の“音のない斬撃”を見せる。

 名はない。

 記録にも残らない。

 けれど、誰かが祈りをささげるたびに、あの剣はまた、そこに現れる。

 ――風のように、

 ――雪のように。

 その剣は、今日も、どこかで誰かの心にそっと降り積もっていた。


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