第七章:雪が降る 第四十四話「名を呼ぶ者」
朝の光が、ゆっくりと地を解かしていた。
凍った道にわずかな湿りが戻り、屋根に残った雪が一筋ずつ雫を垂らしていく。町の外れにある道場では、少年たちの竹刀が音を立てていた。まだ声変わりもしていない子らの気合が、春を告げるように空へ跳ねる。高山太一はその声を背に受けながら、静かに一人の少年の動きを見守っていた。――矢野蓮が病に倒れたあの日、彼から受け継いだ道場だった。
体格は細く、まだ力もない。だが踏み込みと打ち込みの間に、一拍の“迷い”がなかった。誰かに言われた型ではない、自分の中にある“理由”に従って動いている――太一はそう感じた。
「高山先生、今の、どうでしたか」
稽古を終えた少年が、竹刀を持ったままこちらを振り返る。まだ顔には汗が滲んでいて、目には真っ直ぐな光が宿っている。
太一はうなずいた。
「よかった。斬る理由が、お前の中にある」
「……理由?」
少年は小首をかしげる。
「剣は、斬るためのものじゃない。ただ、どうしても斬らなきゃならないときに、迷わず動くためのものだ」
そう言いながら、太一は腰の脇に手をやった。もう刀を帯びることもなくなったが、その場所には、未だ“重さ”が残っていた。重さとともに、言葉にならぬ名残が、ずっとそこに在り続けている。あの日からそこが居場所となった白い布――それはもう、綻び、汚れて元の色をなくしていたが、確かに彼が生きていたという証だった。
「先生」
少年が言った。
「“名もなき剣士”って……本当にいたんですか?」
その問いに、太一は息を飲んだ。
一瞬、周囲の音が遠ざかるような感覚があった。竹刀の音も、風の揺らぎも、遠くなり、静かな間だけが落ちた。
太一は目を伏せ、そして、ゆっくりと顔を上げた。少年の瞳は揺れていない。純粋な疑問としての問いだった。好奇心ではない。誰かの“剣の理由”を知りたいという、無垢な探求だった。
「……いた」
太一はそう言った。
「俺は、共に戦った」
声は震えていなかった。だが、言葉の奥には、幾十年もの沈黙が折り重なっていた。語れば伝説になる。黙れば風化する。その狭間で、彼はずっと言葉を選ばずに生きてきた。
だが、いま。
少年の問いに応えることで、太一は初めて“その名もなき剣士”を世に向けて語ろうと決めた。
それは記録のためでも、誰かに誇るためでもなかった。ただ――
「聞きたいか?」
少年はうなずいた。
「じゃあ、話してやるよ」
太一はそう言って、竹刀を片手に道場の縁に腰を下ろす。春の光が、土の匂いを温かく持ち上げていた。どこか遠い記憶の中と似た匂いだった。
「風のように現れて、雪のように消えた。ある男の話をな――」
※
語り始めたとき、太一の口は思いのほか滑らかだった。
かつての戦、桶狭間。雨の匂い、地の泥、血のぬめり。味覚のように蘇る感触が、ひとつずつ喉の奥から立ち上ってくる。
静という男のことを、彼は名で呼ばなかった。ただ「その剣士」と言い、「白装束」と言い、「ひとりで敵陣に向かっていった者」として語った。少年は時折目を丸くしながら、それでも一度も割って入ろうとせず、ただ太一の声に耳を傾けていた。
「……人は、剣を持つと、何かを“裁く”気になる。正しいか、間違っているかを、一太刀で分けようとする。だがな、そいつは違った」
太一の声に、乾いた響きが混ざった。
「誰も“裁かない”。ただ、そこに剣が必要だと判断したら、静かに、迷わず抜くだけだった。誰の命でもなく、誰の名でもなく……その場にある“理”だけを見ていた」
言葉を並べるたび、胸の奥に眠っていた感情が目を覚ましていく。怒りでも、悲しみでもない。名付けようのないもの。静が名を捨てたように、その感情もまた、名を持たずに佇んでいた。
「最後まで、その剣士は、誰の名も求めなかった。褒められようとせず、報いを受けようともせず、ただ、生きて、消えていった」
太一は語りながら、自分の声に耳を澄ませていた。
これまで誰にも言ったことのない言葉たちが、どこか遠くから戻ってくるように口をついて出る。そのたびに、記憶の奥に棲んでいた“あの気配”が、微かに温度を持って広がっていった。
「ねえ、先生」
沈黙の中で、少年が言った。
「その人の剣って……人を守るためのものだったんですか?」
太一は答えなかった。否、答えられなかった。
守る、という言葉が持つ意味を、彼は戦場で幾度も見失った。救おうとした命が砕け、守ろうとした背が倒れ、信じた正義が泥に塗れた。そんな場所で、それでもなお“剣を握る理由”を持ち続けた者の姿を、ただ静かに見ていた。
「わからない。ただ、その人が剣を抜くときは……何かが、救われていた気がした」
言い終えたあと、太一は自分の胸に手を当てた。
そこに、ひとつの鼓動があった。
かつて戦で死に損ね、名を失い、語ることをやめた男のなかに、確かに生きていたもの。その鼓動は、今もこうして、少年の問いに応えさせている。
そのとき、彼の父親が顔を出した。――矢野の一番弟子だった、あの江藤忠邦だった。
「高山先生、失礼します。正一、帰るぞ」
「はい、父上。先生、最後に。剣を振る意味って、何でしょうか?」
太一は一瞬考えたすえ、にかっと笑った。
「その答えには、お前さんがこれから時間をかけてたどり着けばいい。お前さんの人生はまだ長い。時間はたっぷりあるからな、正一」
※
その夜、太一は久しぶりに筆を取った。
墨を磨く音が、しんとした部屋に静かに響く。紙の上に置いた筆先が、思った以上に迷いなく滑ったのは、昼間の会話の余熱が胸にまだ残っていたからかもしれない。
彼はそこに、名を記さなかった。
ただ、「ある剣士」と書いた。
戦場の只中にあって、孤独に歩いた剣士。誰の命令も受けず、誰の報酬も求めず、ひとつの信念だけを道標に進んだ者。
その筆致には、祈りのようなものが込められていた。
かつては彼の名を遺すことに躍起になったこともあった。
しかし、今は違う。
今、太一が伝えたかったのは、名ではなかった。名は消えても構わない。だが、その生き方、その姿勢、その“選び方”――それは、言葉で残しておかなければ、誰にも伝わらない。
静という男は、たしかに斬った。だが、それ以上に「斬らずに済む道」を探し続けていた。その「道」は先月看取った彼の戦友が目指した道でもあった。
それがどれほど難しいことかを、太一は痛いほど知っていた。
刃を抜かぬことの難しさ。怒りに抗い、憎しみに逆らい、ただ自らの“筋”を信じて歩む孤独。
それは、戦場における敗北とも見なされかねない愚直さであり、ときに仲間にさえ理解されなかった在り方だった。
けれども――。
「名を持たないってのは、きっと……全部、誰かの中に残してくれってことなんだな」
ぽつりと呟いて、筆を置いた。
白装束の剣士。名を呼ばぬまま語るということ。それは、名前ではなく、思いを継ぐということだった。
少年が再び問う日が来るかもしれない。そのとき、太一はもう少し違う言葉で答えるだろう。
だが今日、今この瞬間の“語り”は、名を伏せたまま、剣の本懐だけを伝えるためのものだった。
火が落ちる。
墨の香が、ひとつ息を吐くように消えていく。
そして夜は、音もなく、静かに更けていった。
※
季節がまた一巡りし、雪が尾張に落ちた日。
高山太一は、道場の縁側に腰を下ろしていた。
庭の片隅に積もる雪は、誰の足跡もないまま、しんと静まりかえっている。
その白さに、ふと彼は目を細めた。
昨夜――静の姿が、庭に立っていたのを夢に見た気がした。
焚火の熱がまだ肌に残っていたのに、彼の頬だけが妙に冷たかった。
それが幻だったのか、現だったのか。
今となってはもう、どうでもいいことのように思える。
背後から、小さな足音が近づく。
「先生、雪……積もってきましたね」
江藤正二少年――江藤正一の弟だ――が、濡れた鼻をすすりながら言った。
「ああ」
太一は返し、手にした湯呑の縁を指でなぞった。
言葉の温度を探るように、ほんの少し間を置いてから、彼は口を開く。
「なあ、お前に、ひとつ話をしようと思う」
「はい?」
「ある、名もなき剣士の話だ。風のように現れて、雪のように消えた……そんな男がいた」
正二少年は目を丸くして、太一を見た。
それは、初めて太一が“物語”として、自ら語る静の姿だった。
名を明かさず、生き、斬り、そして……斬らなかった男。
何度も何度も太一のそばを通り過ぎて、そのたびに何かを残していった剣士。
「その人は……最後、どうなったんですか?」
少年の問いに、太一は黙って雪を見つめた。
白い雪は、音もなく降りしきり、過去と今とを分けるように、静かに世界を閉ざしていく。
太一は、唇をかすかに動かした。
その口から出たのは、ずっと呼ばずにいた名前。
「静……沖田静、という」
少年は、ただ静かにうなずいた。
名前が語られたその瞬間、何かが終わり、何かが始まる音が、遠くで風のように鳴った。
それは、もう二度と戻らぬはずの名が――
“生き直す”瞬間だった。
語り継がれるということは、名を形にすることではない。
記録でも碑文でもない。誰かの声で、命が再び息をするということだ。
太一は、目を閉じた。
雪は静かに降り続いていた。
ただその白さだけが、名もなき剣を静かに覆っていく。




