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名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り  作者: 妙原奇天


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第六章:語り継ぐ者たち 第四十一話「君を呼ぶ声」

 風の音が、眠りの底から呼び戻すように吹き抜けた。

 山あいの小屋に、夜の冷気がひそやかに入り込んでいる。戸は閉じられているはずだったが、木の隙間から、細い風が鳴いていた。藁布団の中、矢野蓮は額にじっとりと汗を滲ませながら、わずかに身体を震わせていた。

 ――夢を見ていた。

 戦ではない。血の匂いも、斬り合いの叫びもなかった。ただ静かな山道。しんしんと積もった落ち葉が、足元で小さな音を立てる。右に折れれば川があり、左には古びた祠があったはずだ。矢野は、その小道の真ん中にいた。

 前を歩く白装束の背――。

 見間違うはずもない。長い髪を一つに束ね、肩幅の狭い男の背が、黙って先を行く。何も言わず、何も振り返らず、ただ歩いていた。

「……待てよ」

 声をかけた。追いつけると思った。けれど、その背はほんの少し遠ざかるだけで、決してこちらを振り向こうとはしない。呼吸が乱れ、足元の石に躓きそうになったとき、ようやくその男は立ち止まった。

 風が、ざっと吹き抜けた。乾いた枝が擦れ合い、葉が一枚、地面に落ちる。

「あなたは、あなたの道を」

 男はそう言った。振り返らないまま。声だけが、矢野の耳に残った。

 そこで夢は、ふと途切れた。

     ※

 目覚めたとき、矢野の頬には涙の痕があった。熱ではなかった。冷えた夜気の中で、彼は身を起こし、火の落ちた囲炉裏の灰をじっと見つめていた。灰の中には、まだ小さな赤い光が残っていた。

 泣いた理由は、すぐにはわからなかった。ただ、胸の奥にぽつんと穴が空いたような感覚だけがあった。痛みではない。喪失とも違う。もっと深く、名前のつかない寂しさ。

 そのまま、朝まで座っていた。

 薄明の気配が差し込む頃、戸がぎいと軋んで開いた。太一が無造作に入ってくる。

 もう三十年余年の付き合いだ。

 太一にも、矢野にもそれぞれ子がおり、太一には昨春初孫も生まれていた。

 ふたりとも伴侶には先立たれて、男一人の暮らしだった。

「おい、起きてたのか。火、落ちてんじゃねぇか」

 そう言って勝手に薪をくべ、火を起こし始める。矢野は頷きもせずに、それを見ていた。

「……夢を見た」

 ぽつりと呟いたその声に、太一の手が止まる。

「夢?」

「ああ。静と……山を歩いてる夢だった。白い装束で、いつもの背中だった」

 火がぱち、と音を立てる。太一は笑った。

「まだお前、あいつに引っ張られてんのかよ。……もう、何十年経ったと思ってんだ」

 矢野はうなずかない。ただ黙って、再び灰に目を落とす。

「そうかもな。でも……今日、ようやく、離れた気がする」

「は?」

「俺はずっと、あいつの背を見てた。追っていたんだ。あいつが立っていた場所に、俺も立てるようになりたいって。でも……違ったんだな。俺は俺の場所に、立たなきゃならないんだ」

 太一は薪を押しやり、ようやく腰を下ろした。

「……じゃあ、あの夢が区切りってわけか」

「たぶん、そうだ」

 静の背は、もう追わない。それを認めたとき、矢野の心には奇妙な静けさが広がっていた。喪失ではない。むしろ、そこにようやく自分自身の「輪郭」が現れたような感覚だった。

 火がぱちぱちと鳴る。

     ※

 昼を過ぎた頃、矢野は白鞘を持って、小屋の裏手の坂を上った。かつて静と野営したあの丘の上に、ぽつんと生えている一本の木がある。彼が植えたものだ。誰にも理由を語らず、ただ風の吹く場所に、それが必要だと思った。

 草の匂いと土の匂いが混ざる場所で、矢野は腰を下ろす。手にした白鞘は、いつかと同じように冷たく、しかしどこかで微かに温もりを含んでいた。

「お前のこと、もう追わない」

 そう言って、鞘を膝の上に置く。

「俺は俺の剣を持って、俺の道を歩くよ。お前がそう言ってくれた気がしたから」

 空は青く、風だけが通り抜ける。白い花が咲いていた。誰が植えたものでもない。自然と、そこに咲いていた。

 矢野は小さく笑った。

「……きっと、お前の仕業だな」

     ※

 夜になっても、風は止まなかった。小屋に戻った矢野は、布団に入ってもすぐには眠れなかった。

 だが、不思議と、眠ることに怯えることはなかった。

 目を閉じれば、またあの山道が浮かぶかもしれない。今度は、追いかけなくていい。背を見送るだけでいい。

 矢野はふと、胸の内で声を呼んだ。

 ――静。

 しかし、返ってきたのは、名ではなく、

「あなたは、あなたの道を」

 という、あの夜と同じ声だった。

 それは命令ではなく、赦しだった。


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