第六章:語り継ぐ者たち 第三十九話「太一の記録」
火は静かに燃えていた。
黒ずんだ土間の上で、炭火を抱く鉄鍋の湯が、ことり、ことりと小さく音を立てる。夜の冷気が隙間風となって入り込み、太一は僅かに身をすくめた。
野戦病院の片隅、帳場とは名ばかりの粗末な空き部屋に、太一は膝を抱えて座っていた。灯りは控えめに、芯の短い蝋燭を一つ。明滅するその揺らぎが、壁際の荷棚や木箱の影を曖昧に映し出す。
膝の上に乗せていた帳面を、太一はそっと閉じた。
それは軍の命を受けて記す戦果の報告帳ではなかった。誰に見せるでも、届けるでもない。ただ、己の目で見たもの、耳にしたこと、心に残ってしまったものを、形にしておかなければならない気がしたのだ。
桶狭間の夜。血が降ったようなあの嵐の中で、太一は一人の“剣”を見た。
人を斬るために振るわれながら、人の生を思いながら震えていた白装束の剣士――沖田静。
誰も彼のことを覚えていない。記録にその名はない。
戦の書面には「影走組の一剣士、消息不明」と一行だけが残された。
――そうなることは、わかっていた。
自身が反対しようが、喚こうが、叫ぼうが、行きつく先はひとつだと。
けれど、記さなければならないことがあった。
たとえ、誰のためにもならなくとも。
太一のなかで、それは“残すこと”ではなく、“背負うこと”だった。
彼は帳面の端に差し込んであった筆を取り、炉の中に静かに差し入れた。
乾ききった竹の軸が、ぱちりと音を立てて割れた。墨の香りが微かに焦げる。
続けて、一枚、また一枚と、帳面の紙を破り、火にくべていく。
墨で黒く塗られたあの夜の記憶が、火に溶け、煙に変わる。
「……あいつは、書くための人間じゃなかった」
呟きは低く、己の耳に届くかどうかの温度だった。
記すということは、定めることだ。
定めるということは、閉じるということだ。
だが沖田静は、決して“閉じる”ことのない人だった。
彼がこの世にいた証。それは、誰かの中で曖昧に揺れ続けるものでしかなかった。
形にならないからこそ、誰のものにもならず、どこにも定着せずに、風のように漂っている。
「だから、俺が持ってる。それでいい」
燃え尽きた紙片が灰となり、炉の底に沈んでいく。
太一はひとつ、深く息をついた。
※
あの夜のことを、太一は思い出していた。
焚火の灯の向こうに、黙って座っていた静の横顔。
矢野にだけ見せた、あの短い微笑。
そして、戦が終わったら――と呟いた、どこか遠くを見つめる声。
名を残さないでください、と言ったその言葉が、太一の胸にずっと残っていた。
剣は、奪うためにあるのか。
救うためにあるのか。
あるいは、生きた証のためにあるのか。
その問いに、太一は答えを出せないままでいた。
だが、ただ一つ言えるのは――静の剣が、誰よりも“人を見ていた”ということだ。
命の光と影のあわいに立ち、見て、斬って、迷い、そして黙していた男。
人のために生き、人を超えてしまったような、その背中。
記録には書ききれなかった。
言葉には到底、できなかった。
※
朝が来る。
空が白んでゆく。
太一は、灰になった記録の破片を手のひらで掬い、布袋に包んだ。
燃え尽きたそれは、もう誰にも読めない。誰にも見せない。
だが太一の胸には、あの記録の行間に込めた沈黙が、確かに息づいていた。
彼はそっと立ち上がる。
振り返ることなく、朝靄のなかへと歩き出す。
その歩みに、名はない。
ただ、彼の心の中にだけ、永遠に生き続ける“剣”の記憶が、今も脈を打っていた。




