第一章:風の前触れ 第三話「矢野蓮という男」
戦場に咲く花は、ふたつある。
ひとつは、名を上げるために咲く花。
もうひとつは、誰にも気づかれずに、ただ静かに咲いて、散る花。
矢野蓮は、自分がどちらに咲く花なのかを、ずっと決めかねていた。
※
矢野蓮は、家も身分もない。
農の血筋か商の末か、それすら定かでない。
戦があれば徴兵され、なければ土を耕し、時に力仕事で日銭を得る――そんな若者だった。
剣を手にしたのは、十歳の時。
隣村の兵に殴られた養父が、帰ってからぽつりと言った。
「力がなければ、言葉も意味を持たん」
それが矢野の原点になった。
だが、力だけで何かが変わるとは思わなかった。
言葉に意味を持たせるには、信念が要る。
それを知ったのは、初めて戦場で“仲間”と呼べる者を得たときだった。
※
矢野が風走組に配属されたのは、静より半年ほど前のことだった。
最初は、自分と同じような、名も持たぬ若者たちが肩を並べていた。
斬ることに怯える者、喚き散らす者、泣きながら剣を振る者。
だが、数度の戦を越えるうちに、残ったのはほんのわずかだった。
その中で、矢野は“人の死”から目を逸らさなかった。
斬った者の顔も、斬られた者の顔も、なるべく覚えておこうとした。
それは贖罪ではない。
記憶という形でしか、“命”を抱えられない自分へのせめてもの誠意だった。
「お前、斬った後に祈るなんて……気でも狂ってんのか?」
そう言われたこともある。
だが矢野は、「狂ってんのは、祈れないやつの方だ」と返した。
※
静と矢野が同じ陣営に入ってから、まだ日は浅い。
だが、静の存在はあまりにも強烈だった。
斬り方、歩き方、佇まい――すべてが“人間離れ”していた。
最初に“あれは人ではない”という噂が流れたとき、矢野はそれを否定しなかった。
むしろ、そう思う自分を許した。
だが同時に、“人間に戻ろうとしていない”静に対して、苛立ちにも似た感情を抱いていた。
――お前はそれでいいのか。
そう、何度も心の中で問いかけた。
戦場では、斬ることが肯定される。
だが、矢野にとって“斬る”という行為は、最後の選択肢であるべきだった。
“守る剣”――それが理想だった。
誰かを護るために剣を抜く。
血ではなく、意志のために振るう剣。
だが現実は、理想を嘲笑うように矢野に“殺す剣”を強いた。
その中で矢野が目の当たりにした静の剣は、まるで“人間の輪郭を持たない剣”だった。
それが恐ろしかった。
同時に――羨ましかった。
※
「なあ、静」
その日、珍しく太一がいなかった。
軽い怪我で後衛に回されていたのだ。
火の灯る夜営地。
矢野は静の隣に腰を下ろした。
静は、焚火に背を向けるようにして座っていた。
火を避けているというより、光のない方を選んでいるように見えた。
「静。お前は……なんで“名”を捨てたんだ?」
問うと、しばしの沈黙があった。
そして、静がぽつりと答えた。
「拾ってほしくなかったからです」
「拾う?」
「僕は、誰にも呼ばれたくなかった。……だから、捨てたんです」
矢野は、静の言葉の裏にある感情を探ろうとした。
だが、その声音には怒りも嘆きもなかった。
まるで、そういう選択肢しかなかったというふうに、自然に受け入れた人間の声だった。
「……お前は、それでいいのか?」
再び問いかけた。
「誰にも呼ばれずに、生きて、死ぬ。それで、いいのか?」
静はわずかに首を傾げた。
「矢野さんは、僕に“なってほしい何か”があるんですか?」
その言葉は、矢野の胸に突き刺さった。
問いを投げていたつもりが、いつの間にか――試されていた。
沈黙が落ちる。
焚火の灯りが揺れ、影が地に滲む。
静は目を伏せたまま、続ける。
「僕は、“剣”でいたいと思っています。……“人”でいるのは、もう、やめたんです」
「でも、お前……」
「矛盾を抱えたままでは、生きられなかった」
矢野は言葉を失った。
“なってほしい誰か”。
“名を持つ者”としての静。
それを願っていた自分がいた。
だがそれは、静の望んだ姿ではなかったのかもしれない。
矢野は自問する。
――俺は、“名を持つ剣士”でありたいのか。
それとも、“誰かを守れる剣”になりたいのか。
そして――静という男は、“守るものがない剣”として、どこまで行こうとしているのか。
火が小さくなっていた。
誰も答えを出さないまま、夜は深く、風だけが吹いていた。
※
翌朝、矢野は隊列を組む前に、静の姿を探した。
砦の裏手、小さな湧き水の前で、静は白装束の袖を捲って、刀を磨いていた。
血と泥の滓を丁寧に流しながら、静はまるで何かを祓っているようだった。
「……それ、毎日やってるのか?」
問いかけると、静は顔を上げた。
「はい。血は……剣を濁らせますから」
「血で濁るのは、剣だけじゃないと思うがな」
静は小さく笑った。
それは、初めて見せた、どこか無垢な笑みだった。
「じゃあ、心も洗っておきます」
矢野は、言葉を返せなかった。
冗談のようで、冗談ではない。
静の剣は、“命を斬って”いながら、“自分を斬らないように”していた。
どこかで、限界まで自分を切り詰めながら、まだ人であることを――少しでも残そうとしているのかもしれない。
「なあ、静」
「はい」
「お前は、“人に戻るつもり”はあるのか?」
静は、刀を拭き終え、鞘に納めた。
その音は、小さく、しかし響いた。
「……たぶん、矢野さんが、僕を“人”として呼ぶ限りは、どこかで戻る道を忘れないでいられます」
その言葉は、朝の空気に溶けていった。
矢野は、ただそれを聞いていた。
静という男は、人ではない“剣”として生きていた。
だが、どこかで――誰かが“呼んでくれる”ことを、完全には捨てきれていない。
ならば、自分は。
矢野蓮という男は――彼の“名もなき剣”を、名もなきままで終わらせるつもりはなかった。