第六章:語り継ぐ者たち 第三十八話「斬らずに救った剣」
春の雨は、濡れるより先に、骨の芯へと沁みてくる。
風はあたたかくなっていたが、灰色の空の下では、火の気がなければ言葉すら冷えてしまいそうだった。
矢野蓮は、小さな山寺の軒下で雨宿りをしていた。
たまたま通りがかっただけだった。補給任務の帰路、道が崩れかけており、早めに宿を探していたところに見つけた寺だった。
門前に立つと、白髭の僧が快く迎え入れてくれた。
参詣者も客人も滅多に来ぬ場所らしく、蓮が名乗るより先に、茶が用意された。
土間の隅には薪が積まれ、奥からは柔らかな灯が洩れている。
「お疲れでしょう。……どうぞ、しばらくお休みなされ」
蓮は頭を下げ、言葉通り、軒の奥で湯を受け取った。
雨は止みそうにない。夜までここで身を休めるしかなかった。
僧が火を熾しながら、ぽつりと話し始めた。
「……もう何年ですかな、桶狭間」
蓮は茶碗のふちに目を落としたまま、僧の顔を見た。
「そのご戦に関わる方でしょうか?」
蓮は、即答を避けた。
そのかわりに、軽く頷く。
「直接ではない。後方の者です」
僧はそれ以上詮索せず、しばし火の面を見つめていた。
「――あの夜、ひとりの男がこの寺に現れました」
唐突に始まった言葉に、蓮は目を上げた。
僧は薪に火箸を入れ、火の形を整える。
「命を救われた、と言っておりました。敵兵だったそうです。味方は皆討たれ、ひとり山中に逃げ込み、道もわからず、飢えと寒さで死にかけていたと」
蓮は湯を含みながら、静かに聞いていた。
「そのとき、目の前に“白い影”が現れたそうです。……いや、“人”だったと、彼は言いました。白装束の剣士。無言で近づいてきて、何も言わずに、水を渡してきたそうです」
火の音が、雨音と混じって耳に残る。
「そして、薪をひと握り置き、火打石を貸して、何も斬らずに去っていったと」
蓮の胸が、少しだけ強く打った。
「その男、ここで出家されましてな。今は名を捨て、山に籠もっております。……口数の少ない方ですが、あの夜のことだけは、今でも人に語っております」
僧の声は、静かに続いた。
「“あの者は、鬼ではなかった。祈る者だった”と、言っております」
※
蓮は、雨が止むまでのあいだ、灯の下で白鞘を磨いていた。
布の手触り。木肌の温もり。手に残る感触は、いつもと同じだった。
けれど、あの僧の話を聞いたあとでは、白鞘の輪郭が、少し違って見えた。
斬らずに、救う。
それは、静がかつて自分にはできぬと語っていたことだった。
また、矢野がかつて目指したものでもあった。
あの夜、焚火のそばで、静は剣を見つめながら言った。
「僕は、刃を抜いたとき、誰かを救うことができるような剣士じゃない」
だが――彼は、そういう剣を残していった。
それは、“信じた剣”がどんなかたちをしていたのかを、静自身が知らぬまま、選びとっていた証だったのかもしれない。
語られずに消えることを望んだ者が、こうして“語られている”。
しかも、それは“誰かを救った話”として。
蓮は、鞘の上で手を止めた。
「お前……その境地にたどり着いていたんだな」
誰にも聞かれない声だった。
だが、たしかにそう呟いた。
※
翌朝、雨は止んでいた。
山の端に薄日が差し、木々の葉が濡れたまま光っている。
蓮は寺を出る前に、僧に礼を述べた。
そのとき、僧がひとつ訊ねてきた。
「……失礼ですが。貴方様は、あの“白き者”をご存じだったのでは?」
蓮はしばらく考えた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……ある時期、共に戦場にいた者がいます。その者は、名を欲しませんでした」
「なるほど」
僧は、それだけで納得したように微笑んだ。
「この寺にある言葉です。“名なくとも、灯は在る”。……どうか、貴方様の胸の灯も、消えませぬように」
蓮は深く礼を返し、白鞘を懐に戻した。
※
下山の途中、蓮はふと足を止めた。
山肌の向こうに、戦場だった平野が、春の霞に包まれている。
遠く、かすかに麦の穂が揺れていた。
剣を抜くこともなく、ただ水と火を渡した者がいた。
命を斬るのではなく、生を通す剣。
それは、記録にはならない。誰の武勲にもならない。
けれど――剣の本懐とは、もしかすると、そういうかたちをしているのかもしれなかった。
蓮は懐の白鞘に手を置いた。
その剣が、どれほどの命を奪い、どれほどの想いを背負ったかを、誰よりも知っていた。
けれど、同じように――その剣が、誰かを斬らずに済ませたことも、確かに今、聞いた。
それが、救いだった。
そして、祈りだった。




