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名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り  作者: 妙原奇天


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第五章:空白の記録 第三十六話「終わりの灯」

 夜の風が冷たいのは、月が澄みすぎているせいだった。

 秋。

 雲一つない空に、満ちた月が浮かんでいた。

 その光は地を照らすでもなく、ただ沈黙のように世界を包んでいる。

 矢野蓮は、一人で丘を登っていた。

 背に布袋、脇に白鞘。手に提げた松明の火は頼りなく、風が吹くたびに揺れた。

 この丘に来るのは、いつぶりだろうか。

 静と共に野営した夜の、あの時間――あれが最後だった。

 今となっては、地面のどこに腰を下ろしたのかさえ定かではない。だが、蓮の記憶の中では、すべてが焼き付いている。

 焚火の音。布に包んだ干し飯の匂い。

 誰かがくしゃみをした拍子に崩れた薪の火。

 そして、静の背中。火の明かりに半分だけ照らされ、輪郭が溶けていた。

 あのとき、すでに別れは決まっていたのだろう。

 言葉では告げられなかったその“別れ”が、背中のかたちに、声の抑揚に、確かに宿っていた。

 蓮は、丘の中腹に出る平地に足をとめた。

 風除けとなる岩のくぼみが残っている。かつて、そこに薪を組み、火を焚いたのだった。

 蓮は荷を下ろし、鞘を抱えたまま、手早く薪を並べ、火打石を取り出した。

 火は、三度の打音ののち、かすかに灯った。

 小さな命のように揺れるその焰を、蓮は黙って見守った。

   ※

 酒を一升、持ってきていた。

 決して高価なものではないが、蓮にとっては“話すための道具”だった。

 杯は、椀の底を使った。

 火を囲むように、蓮は向かいに空席をつくり、二本の白鞘を静かに置いた。

「……静」

 名前を呼んだのは、久しぶりだった。

 戦後、誰かに向けて呼ぶことはなかった。呼ぶことを許されていない気がしていた。

 だが、いまは違った。

 誰もいない場所で、名もなき剣の前にいるのなら――名前を口にしてもいい。

 酒を注ぎ、火にかざす。

 その湯気が焔と混じって上がっていく。

「……俺は、お前を記録に残さなかった」

 火がパチ、と小さく音を立てた。

「名も伝えなかった。お前が、そう望んだからだ。……けど、それで、本当によかったんだよな?」

 風が、枝を鳴らす。返事はなかった。

 だが、返事など、最初から求めてはいなかった。

「俺には……正しかったのかどうか、まだわからない」

 蓮は、白鞘に手を添える。

 温もりはなかった。だが、冷たすぎるということもなかった。

「皆は、お前を語りはじめている。名前のない剣士。白装束の影。鬼神。祈り。……それは、お前が望まなかったかもしれない“物語”だ」

 杯に少し残った酒を、静かに土にこぼした。

 音もなく、染みていった。

「でもな、静。俺にとっては、そうじゃなかった。……お前は、“物語”じゃない。“人”だったよ」

 空を見上げる。月は、ゆっくりと流れていた。

 風が少し止み、火がまっすぐ上に伸びる。

「斬ったあとのお前は、自分の剣を信じられないって顔で、黙って、空を見てた。……俺は、それをずっと、覚えてる」

 白鞘の先を、そっと火に近づけた。

 焰は触れない。けれど、光が鞘の面に淡く映った。

「記録に残さなかった。語られないことを選んだ。……だからこそ、こうして俺は語れるんだ」

 蓮は、鞘を膝に戻した。

「お前を“知ってる”って、俺の中にだけ残ってる。……それは、墓を立てるよりも、紙に名を書くよりも、ずっと確かだった」

 火がゆらいだ。焰が小さくなっていた。

 蓮は、最後の薪を火にくべなかった。

 燃え尽きるのを待つ。

 それが、この夜の終わり方だと思ったからだ。

   ※

 火が細くなり、光の輪が狭まっていく。

 月の明るさが、それを補うように地面を照らす。

 蓮は、白鞘をそっと前に置き、土に手をついた。

 冷たい地面の感触が、掌からじかに伝わる。

「ここに、残しておきたかった」

 小さく呟いた。

「語られない戦い。名もなき生。……お前が、生きていたということを」

 手の下にある土は、何も語らない。

 けれど、確かに“いた”という感覚だけが、指の奥に残っていく。

 目を閉じれば、静の背中が浮かんだ。

 火の明かりに照らされた顔ではなく、黙って風を見ていた横顔。

 斬ったあとの剣先を、手のひらでそっと拭っていた姿。

 あれが、“名を持たぬ者”の本当の顔だった。

   ※

 やがて火は、最後の灯を吐き、細い光の尾を残して消えた。

 焰がなくなっても、薪の赤い芯はしばらく光っていた。

 それも、数刻ののち、闇に溶けていく。

 蓮は立ち上がった。

 白鞘を拾い、袂にしまう。

 その重さは、初めて持ったときと変わらなかった。けれど、その意味は変わっていた。

 これは“持ち主に返すための剣”ではない。

 “この世に、確かに一度在った者を記憶する剣”だった。

 名がなくても、生きていた。

 記録に残らずとも、記憶に宿った。

 声に出されなくても、言葉を超えて、伝わるものがあった。

 蓮は丘を下りながら、風の音に耳を傾けた。

 誰もいない夜だった。

 けれど、白鞘の中に、そして蓮の胸の奥に、ひとつの灯が残っていた。

 それはもう燃えることはないかもしれない。

 だが――消えることもなかった。

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