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名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り  作者: 妙原奇天


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第五章:空白の記録 第三十四話「名もなき者たち」

 桶狭間の戦いから半年ほどが過ぎ、尾張は“勝者の国”として熱を帯びていた。

 戦で名を挙げた将の名が、まるで詩のように町人たちの口にのぼる。

「今川義元の首を挙げたのは、服部小平太だ」「信長公を救ったのは、前田犬千代だ」――そんな語りが、町を往く風のようにあちこちで囁かれていた。

 戦の話は、語られるたびに形を変える。

 事実より鮮やかに、記憶より都合よく。そうして「物語」は広がっていく。

 だがそのなかで、ひときわ異質な噂があった。

 ――「白装束の剣士」がいたという。

 姿を見たという者は多かった。だが、皆が口にするそれぞれの“姿”は、どれも異なっていた。

「顔を隠した鬼のようだった」

「仏のような面持ちで、剣を振るっていた」

「白衣のまま、血に染まらず斬り続けた」

「まるで、影そのものだった」

 誰も名前を知らなかった。

 誰も所属を知らなかった。

 ただ、“そういう者がいた”ということだけが、静かに、確かに広がっていた。

 それは、戦の勝者たちとは異なる“もう一つの語り”だった。

   ※

 矢野蓮は、その噂を最初に耳にしたのは、城下の水場だった。

 休養を命じられた日の午後、桶を持って水を汲みに出た帰り道。

 子どもたちが水桶の縁に腰をかけ、遊びながら語っていた。

「なあ、知ってるか。あの戦にさ、“白い剣士”がいたんだって」

「お前、それまた作り話かよ」

「ほんとだって。兵の兄ちゃんが言ってたんだ。“一太刀で五人斬った”って」

「それ、人間じゃねえじゃん!」

 笑い声とともに、水がはねた。

 蓮は、足を止めて子どもたちの方を見た。

 誰も気づかないまま、話は続く。

「でもな、どこにも名前が残ってねぇんだってさ。不思議だよな」

「え、それ、死んだの?」

「わかんない。でも、すげえ強かったってさ」

 子どもたちの声は、空気に吸われて消えていく。

 蓮は、水桶を持ち直し、歩き出した。

 胸の奥に、何とも言えない重さを抱えながら。

     ※

「……名もなきままで、あいつは“物語”になったんだな」

 それを口にしたのは、太一だった。

 野営所の一隅、昼を過ぎて風が緩んだ頃。

 二人でぼんやりと腰を下ろし、戦後の雑務の合間を縫っていた。

 太一は足元の土をいじりながら、ぽつりと呟いた。

「面白いよな。誰も名前知らねぇのに、どこ行っても噂になってる。“風走組の鬼神”とか、“白装束の影”とか――」

「“白い鬼”とも聞いた」

「“白い祈り”ってのもあったな」

 蓮は、焚火跡の煤を指でなぞった。

「どれも、本人を見てねぇ連中の想像に過ぎない」

「でも、誰かが“そう思いたい”って形にしたんだろ。だから、そう語られるんだ」

 太一は顔を上げた。

「なあ、矢野。お前はさ、どう思ってる?」

「何を」

「あいつの“名”について」

 蓮はしばらく黙っていた。

 風が通り、焚火の残り香を攫っていく。

 やがて彼は、低く答えた。

「……俺にとっては、名はあった」

「うん」

「静、という名を、俺は知ってる。呼んだ。返された。話した。覚えている」

「うん」

「だけど、“語られる”静は、もはや“静”じゃない」

 蓮の言葉には、にごりがなかった。

 そこにあるのは、静かだが確かな確信だった。

「俺にとっては、人だった。刀を振るい、苦しみ、笑って、黙った。そして去った、一人の人間だった」

「だから、名もないままでよかったんだな」

「ああ。名がなければ、嘘がつかれずに済む」

 太一は笑った。

「けど、皮肉なもんだよな。名を残さないって決めたのに、こうして“声”になってあちこちに残っちまってる」

「それが、“物語”ってものだ」

「なら――それも、あいつの生き方の延長なのかもな」

 太一の視線が、空を見ていた。

 雲の切れ間から、斜めに射す陽が、地面を淡く照らす。

   ※

 尾張の北の宿場町では、絵描きが市を開いていた。

 墨で描かれた戦の情景、兵の姿、名将の顔。

 だがそのなかに、ひときわ人目を引く一枚があった。

 白装束の男が、月夜のなか、剣を構えて立つ。

 顔は隠されており、脚も輪郭もぼやけていたが、なぜか“静かに燃える”ような迫力があった。

「これ、誰?」

 町の若者が問う。

「白の鬼だよ。桶狭間の影って呼ばれてる」

「へえ。……なんか、怖いけど、きれいだな」

「な。俺も、どっかで見た気がするんだよな、あの姿」

 誰も確かには知らない。

 けれど皆が、“いた”と信じている。

 それは、ただの噂ではなかった。

 記録にも名前にもならなかった存在が、“人々の声”という名を得て、かたちを変えて残っていく。

    ※

 夜。蓮は白鞘を磨いていた。

 火の傍で、静かに鞘をなでる指先が、どこか儀式のようだった。

 その傍らに太一が来て、黙って腰を下ろす。

「なあ、蓮」

「……何だ」

「お前、このまま、あいつが“語られていく”の、見てられるか」

「見ているしかない」

「でも、もし、全部間違ってたら?」

 蓮は白鞘を置いた。

「間違っていてもいい。ただ、俺が忘れなければ」

 太一は目を細めた。

「……それで、足りるか?」

「足りる」

 太一は、それきり何も言わず、火に薪をくべた。

 火は高くなり、白鞘を照らす。

 そこに映るのは、名もなき剣。

 だがそれは、確かに“在った者”の痕跡だった。

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