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名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り  作者: 妙原奇天


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第五章:空白の記録 第三十三話「剣の在処」

 廃寺の朝は、音もなく明けていた。

 太陽が山の端をなぞるように昇る気配だけが、薄い光として境内に滲みはじめている。

 鳥の声も、虫のざわめきも、まだ聞こえない。夜と朝のあいだにある一瞬の空白。世界が息を潜めているような、静謐な時間だった。

 矢野蓮は、白鞘を手に、堂の縁から境内を見下ろしていた。

 昨夜、あの場所で焚火を囲み、太一と肩を並べて言葉を交わした余韻が、まだ風のなかに漂っているような気がした。

 そして、その中心にあったのは、間違いなく――彼だった。

 沖田静という男の“所在”は、もうどこにもない。

 だがその“存在”は、この廃寺の隅々に、音のように残っていた。

 蓮は、ゆっくりと立ち上がり、堂の柱に手を添える。

 節の荒れた木肌に、わずかに残る擦れ跡。何度も手を掛けたような、同じ箇所のすり減り。

 思えば、あの夜。

 静は何度か、この柱にもたれながら、夜の空を眺めていた。

 何を考えていたのか、そのときはわからなかった。ただ、沈黙が妙に深かったのを覚えている。

 蓮は、白鞘二本を左脇に抱え直し、寺のなかを歩きはじめた。

 足を踏み出すごとに、床板がわずかに軋む。

 だがその軋みすら、音として耳に馴染んでいた。

 壁の内側に、何か細い痕があった。

 蓮は立ち止まり、そっと指を伸ばす。

 線だった。

 指の先でなぞると、それはまるで“形のない文字”のようだった。

 言葉でも、記号でもない。ただの線。

 だがそこには、確かに“誰かの手”があったことの痕があった。

 蓮はしばらく、その線を眺めていた。

 ――静、お前はこれを、何のつもりで残した?

 問いかけは風のなかに散っていく。

 答えはない。けれど、残されているという事実だけが、返事のように蓮の胸に染み込んでくる。

   ※

 堂の外へ出て、縁側の下をのぞき込んだ瞬間だった。

 そこに、乾いた小石が三つ、並べて置かれていた。

 蓮は無言のまま膝を折り、石に手を伸ばす。

 まるで誰かが、指で“考えて”配置したような距離感。

 無造作に見えて、しかし整然としていた。

 一つずつ拾い、手のひらに乗せる。

 石には名前も意味もない。ただの、どこにでも転がっていそうな、小さな白っぽい石だった。

 けれど、その“どこにでもあるはずの石”が、なぜこの廃寺の縁の下に、三つだけ並んでいたのか――

 それが、問いである必要はなかった。

 蓮は、しばらくそれを見つめてから、袴の懐にそっとしまった。

 まるで、声を発する代わりに、それらが“何か”を託されたような気がして。

 そうして立ち上がると、廊下の奥から足音が近づいてきた。

「おーい。何してんだよ、こんな朝っぱらから」

 太一だった。寝ぐせのついた髪を指で掻きながら、あくび混じりに近づいてくる。

「散歩だ」

「相変わらずだな……ったく」

 そう言いながらも、太一は蓮の視線の先を見る。そして、蓮が抱えている白鞘に目をやる。

「……それ、ほんとに持ってくんだな」

「ああ」

「本当に返さなくて、いいのか? 上に」

「“返す”先が、どこにもない」

 太一は小さく鼻を鳴らして笑った。

「……ま、そうだよな。名前もねぇ、所属もねぇ、記録にも残んねぇ剣士の刀なんて、軍には渡せねぇか」

「これは、俺が預かる。静の遺したものとして」

「遺品、か」

「……違う」

 蓮はすぐに首を振った。

「遺品なんかじゃない。これは、“途中で置かれたもの”だ。まだ終わっていないものだ」

 太一は目を細め、少しだけ真面目な声音になった。

「……でも、置かれてから、もう戻ってきてねぇ」

「ああ」

「矢野。お前もそろそろ向き合え。あいつは――沖田静はもういない」

「……それは、わかってる」

「じゃあ」

「ただ、記憶の中でくらいは生きててほしいって。忘れたくねぇんだ。それだけだよ」

 太一はそれ以上、何も言わなかった。

 代わりに、視線を落とし、白鞘をしばらく眺めていた。

「……俺、遺品とか信じねぇけどよ」

「知ってる」

「でも、あれだけは――捨てられねぇな」

 それは、蓮が言葉にしようとしてできなかった想いを、太一なりのかたちで表現してくれたようだった。

 太一の弓矢。あの後、軍部から返されたそれらは太一が保管していた。それはふたりと静の絆の象徴であり、同時に、彼らが“彼を失った”という事実の代わりでもあった。

 名を持たずに消えた者は、もはや記録に残らない。

 けれど、記録にならなかったからこそ、“誰かの手に残る”ことができたのかもしれない。

   ※

 その日、二人は日が落ちるまで廃寺にいた。

 蓮は静の痕跡をさらに探した。

 燃え残りの炭、床板の傷跡、壁に掛けられた布切れ。どれもが“意図された置き土産”ではない。それでも、“彼がそこにいた”という証だけは確かだった。

 太一は一度だけ言った。

「なあ、これって、墓みてぇなもんかもな」

 だが蓮は、すぐに首を振った。

「違う。墓なら、死を前提にする。ここは、“まだ戻れる場所”だ」

「……まだ言うか」

「身体は滅びても、魂くらい繋ぎとめても罰はあたらねぇだろう……」

 蓮は、白鞘を抱いたまま、廃寺の門に背を向けていた。

 それは、もう去ろうとしていたのではない。

 “まだここにある”という想いが、彼を動かしていた。

   ※

 日が暮れるころ、二人はようやく廃寺をあとにした。

 蓮の懐には、白鞘二本と三つの小石。太一の腰には、新たに巻かれた白布が結ばれていた。

「……変なもん、身につけちまったな」

 太一が笑う。

「でも、あいつの匂いがする。剣の匂いでも、血の匂いでもない、“風”の匂い」

 蓮は黙って頷いた。

 “彼が確かにいた”という事実は、姿のないまま、剣や石や布となって彼らに残された。

 そのこと自体が、“剣の在処”だったのかもしれない。


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