第五章:空白の記録 第三十一話「戦が終わった日」
戦が終わった――そう耳にしたのは、朝靄がまだ尾張の地を包んでいた頃だった。
熱もなく、誇りもなく、その言葉は淡々と運ばれた。
だが、言葉と実感のあいだには、深く濃い隔たりがあった。
戦が終わった、というのなら、なぜまだあちこちから呻き声が聞こえてくるのか。
なぜまだ、焼け焦げた土の匂いが鼻腔にこびりついて離れないのか。
なぜ、目を閉じれば、剣を振るうあの背中が瞼の裏に焼きついて、血よりも濃い記憶を引き戻すのか。
矢野蓮は、ぼんやりと空を仰いだ。
仰いだはずの空は、曇っていた。雲の切れ間からわずかに陽が覗く。だが、その光すら、まだ何も温めてはくれなかった。
桶狭間の戦いから、二か月が経っていた。
蓮は長いこと包帯で巻かれていた右腕を天に掲げた。戦場で受けた斬撃が浅くも長く続いていたが、日に日に痛みが薄れていく。それが、蓮の喪失感をあおっていた。
兵の簡易治療所のようなところで、太一と並んで座っていた。
太一の肩には矢傷があった。矢はもう抜かれていたが、癒えぬ痛みはそこに確かに残った。もう矢は打てない。そう悟った太一は治療所で手伝いをはじめていた。
二人の傷は日に日に薄れていく。記憶もまた、色あせていくようで、焦燥感だけが募っていた。
二人とも傷よりもずっと深く、言葉にならぬ“何か”を抱えてこの二か月間を過ごしていた。
「……なんか、戦ってたのが嘘みてぇだな」
太一が、ぽつりと呟いた。
蓮は何も答えなかった。
周囲では兵たちが忙しなく動いていた。後始末、戦果の確認、負傷者の治療――どれもが、この“終わった”戦の一部だった。
だが、そのなかに、沖田静の名はなかった。
誰かが尋ねることもなければ、記録に探す者もいない。
噂だけが、空気のように自然と染み込んでいた。
「白装束の剣士は討死したらしい」
「鬼神のように斬って、あっけなく斃れたんだと」
「姿も見えなかったって話だぜ。あんなもんは、最初から“そういう役目”だったんじゃねぇのか」
誰かが言った。誰かが笑った。誰かが信じた。
蓮は、それを否定した。だが、誰も聞こうとしなかった。
太一が、蓮の横顔を見た。
「……お前、そんな顔すんなよ」
「どんな顔をしている」
「死んだって言われて、死んでないって信じて、それでも誰も信じちゃくれない。その顔だよ」
蓮は、小さく息をついた。
否定も肯定もなく、ただ、少しだけ視線を落とした。
太一は、肩に巻かれた包帯を持ち上げて、苦笑した。
「……最初は俺も反対だった。けど、今はわかる気がするんだよな」
「何がだ」
「――あいつが、“記録に残すな”って言った理由」
蓮は、横目で太一を見た。
太一は視線を空に向けたまま、続けた。
「名を残したら、“物語”になる。誰かに都合よく語られて、斬った意味も、斃れた重さも、誰かの口で変わっていく。あいつはそれを、何よりも嫌がった」
「……」
「だったら、いっそ消えた方がいいって、そう思ったんじゃねぇか。“語られる伝説”より、“消える真実”を選んだってことだ」
その言葉に、蓮は目を閉じた。
“静の不在”とは、つまりそういうことだった。
死ではない。“生きたまま忘れられること”。
それは残酷なようでいて――それでも、ある意味では“救い”だったのかもしれない。
剣を手にする者にとって、名を残すということは、過去の血を刻むことでもある。
静はそれを望まなかった。自らの剣に、意味を与えられることを拒んだ。
そして――確かに、それは“生き延びた者”にはできぬ選択だった。
生き残ってしまった蓮と太一には、その意味が、皮肉なほどに深く突き刺さった。
※
それから数日後、矢野と太一は、補給隊の雑務に加わるよう命じられた。
動ける者は手を貸せ――戦のあとではそれが鉄則である。
二人は荷車を押し、野営地を何度も往復した。
それは、あまりに無意味で、無味乾燥な労働だったが、かえってその方が心を保てた。
荷車を押しながら、太一がぽつりと言った。
「……俺さ、まだ、ちゃんと向き合えてねぇや」
「急ぐ必要はない」
「でも、見ねぇふりするわけにもいかねぇしな」
蓮は、荷車の前で足を止めた。
「太一。お前は、まだ“終わった”と思ってるのか」
「……戦が? 静が?」
「どちらでも、ある」
太一はしばらく黙っていたが、やがて荷車の縁に腰を下ろした。
蓮も隣に並んだ。陽は少しずつ傾き、野に長い影を落としていた。
「終わったのかもしれないし、終わってねぇのかもしれない」
太一が呟いた。
「ただ、どっちにしても、あいつのことを“終わらせない”って決めてる奴が、目の前にいる。それだけで、俺は、十分だ」
蓮は、わずかに目を細めた。
太一は、それきり何も言わず、空を見上げた。
空は、夕焼けに染まりつつあった。
茜の色は、あの日、静が去った背中を照らしていた夕とも、どこか似ていた。
※
その夜、蓮は白鞘を取り出し、磨いていた。
それは、静が置いていった唯一の“形ある痕跡”だった。
何も語らぬ白の鞘。中に剣はあるが、それが誰を斬ったのか、どこで抜かれたのか――もう知る者は、蓮と太一しかいない。
それでいいと思った。
記録に残さないということは、誰にも預けないということだ。
白鞘に映る焰のゆらぎのなかに、蓮はふと、声を聞いたような気がした。
――“僕が帰ってこなかったら、名は残さないでください”――
そう願った男が、どれほどの想いでその言葉を口にしたのか。
蓮は、その背中を、いまも追い続けていた。
戦が終わった日とは、誰かの記憶が“始まる日”でもあるのだ。
それは誰の言葉にもならず、記録にもならず、ただ静かに、心の中で燃え続ける焰となる。
蓮は白鞘を膝の上に置き、そっと手を添えた。
「……もうすぐ、また”あの場所”に行こうと思ってる」
誰に語るでもなく、独り言のように口にした。
太一はその言葉を聞きながら、火にもうひとつ薪をくべた。
「行こうぜ。あいつが、確かにいた場所だ」
火が高くなった。焰の先に、誰の姿もないのに――
なぜか、静の気配が、そこにあるような気がした。




