第五章:空白の記録 第三十話「一夜の答え」
「ふざけんなよ……それで、ほんとにいいと思ってんのかよ」
軍議の翌朝、太一は顔をしかめて、蓮に詰め寄った。
二人がいたのは、野営地の外れ、倒れた柿の木の傍だった。枝にはいくつか葉が残っていたが、すでに赤く、崩れるように落ちかけている。
「戦で何百人、もしかしたら千人以上を斬ったんだ、あいつは……それが名も残らないって、どういうことだよ」
「何度も言わすな。静が、そう望んだ。お前も知っているだろうが」
蓮は淡々と答えた。太一はその声音に怒りを深めた。
「お前、本当にそれで納得してるのか。そりゃあ、本人がそう言った。でもよ、戦に生きた人間が、死んでまで名前を捨てるなんて……それじゃ、まるで」
言いかけて、太一は口を噤んだ。
蓮は静かに答える。
「“まるで”、なんだ?」
「……まるで、自分がこの世にいたこと自体、否定してるみたいじゃねぇかよ」
その言葉に、蓮は少しだけ目を伏せた。
確かに、静の願いには、そうした一面があったかもしれない。だが、それだけではなかった。
あの日、最後に別れたときの、静の背中。
「僕が帰ってこなかったら、名は残さないでください」――あの言葉の裏には、戦の真実を“物語”に変えてしまうことへの恐れがあった。
静にとって、それは“穢し”だった。
誰かのために斬った剣が、“誰かを殺した剣”として語られるのを、静は望んでいなかった。
そのことを、蓮は太一に話した。
太一は黙って聞いていた。そして、長く息を吐いたあと、小さく呟いた。
「……俺は納得してねぇからな」
それきり、太一は何も言わなかった。
風が吹き抜け、落ちかけていた葉が一枚、ふわりと舞って地に落ちた。
※
夜。
蓮は一人、焚火の前に座っていた。
そばには、白鞘の刀があった。静が使っていた、名もなき剣。
鞘の表面には、小さな傷が無数に刻まれていた。
焼け焦げの跡、血に染まったような痕跡、そして、使い込まれた痕。
だが、それでもなお、剣はそこにある――何も語らぬままに。
蓮は膝の上で、静かにその白鞘を布で拭いた。
炭火の光が、刀身ではなく鞘を照らし、赤く反射する。
「……記録に残さない代わりに」
ぽつりと、蓮は呟いた。
「俺が語る。お前のことを、知ってる人間として。あの戦を、お前と共に駆けた者として――俺は、忘れない」
風が吹き、火が揺れた。
その焰の向こうに、あの男の姿が、かすかに浮かんだような気がした。
白装束に身を包み、風のように現れ、風のように去った男。
その存在を、たとえこの世の誰も語らずとも――
俺は、覚えている。
蓮は、拭き終えた白鞘を両手で包むようにして、膝の上に置いた。
火は静かに燃えていた。
そして夜の深さのなかで、名もなき剣は、言葉なきまま、確かに“そこに在る”ことを主張していた。




