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名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り  作者: 妙原奇天


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第四章:影、裂く 第二十九話「剣の名を問う」

 織田軍が勝利の旗を掲げてから、半月が経った。

 尾張の陣に戻った兵たちは、それぞれに戦後の空気を吸い込みながら、疲労と余韻に沈んでいた。武功を誇る者、命の重さに黙する者。戦場に在った者たちのどこかに、同じ風が吹いていた。だが、その風の中で、矢野蓮だけが、ひとり時を外れたように感じていた。

 その日、彼は、改めて軍議の場に呼ばれた。

 柵で囲われた屋敷の中。太陽はすでに高く、だが薄曇りの空に差し込む光は鈍い金を帯びている。中庭を横切ると、彼を待っていたのは数人の上官だった。板敷きの間に据えられた卓を囲んで、話が始まった。

「矢野――例の白装束の剣士の件だがな」

 重々しい声だった。誰の口とも定かでなかった。だがそれは、否応なく矢野の胸を撃った。

「本来であれば、討ち死にとされる者の名は記録に残らん。だが、あれは……あれは、別格だ」

「本陣に切り込んだのは事実だ。鵜殿を討ったのも、井伊、松井、そして――義元までもがその剣に斬られた可能性が高い。功績としては、抜きん出ている」

 矢野は何も言わずに座ったまま、手を膝に置いて目を伏せた。

「信長公も了承されておる。名を残すべきだと」

「おぬしは、あやつと共にあったな。だからこそ、軍記録に名を記すべきか、否か――その意志を聞いておきたい」

 問いは、そこまでだった。

 室内は静まり返った。蝋燭が一本、畳に落ちた光を揺らしている。誰も咳一つしない。矢野が答えを口にするまでの間が、重く、長く、堆積していく。

 やがて、彼は息を吸った。

 彼は小さく一礼したあと、皆の視線を正面から受け止める。

「記録には――記さないでください」

 その言葉が落ちると、場がわずかにざわめいた。

 信盛が眉をひそめた。

「本当に、よいのだな。あの者の働きがなければ、我が軍が義元の首に辿り着けなかったこと、もはや誰の目にも明らかだ」

「はい」矢野は、静かにうなずく。「ですが、“あの人”は、名を望んでいませんでした」

「名を遺さず、功を拒む。……奇特な者だな」

 誰かが呟いたが、矢野はそれに答えなかった。ただ、続けた。

「あの人は、ただ斬ったんです。誰かのためでも、何かのためでもなく。ただ……剣であった。それだけです」

 記録係が筆を置き、一礼する。

「承知しました。“白装束の剣士”、記録抹消。軍功記載なし、“戦死疑い”にて処理」

 その言葉が読み上げられたとき、矢野の胸に、かすかな痛みが走った。誰の名にもならない、剣の記憶。だが、それでいいのだと、彼は自らに言い聞かせる。

 その夜、再び廃寺を訪れることはなかった。ただ、炎の残り香のように、風が吹いていた。

 人々が語らぬようなもののなかにこそ、あの人は、いた。

 その名がなくとも、その剣のことを、俺は一生忘れない。


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