第一章:風の前触れ 第二話「若き軍神、戦場に立つ」
尾張の空は、五月になってもなお、重たく湿っていた。
前線にある砦では、朝から緊張した空気が漂っていた。遠巻きに煙が上がり、敵陣の動きがいつにも増して活発であると、斥候たちは口を揃えた。だが、信長の命は「動くな」だった。大軍の動きを見極めるまでは、無用な接触を避けろという判断だった。
だが、若い兵たちにとっては、“何もしない”ことほど苛立たしいものはない。
特に、初陣を控えた者たちにとっては。
※
「なあ、矢野。やっぱり緊張してんのか?」
そう訊いたのは、太一だった。
やや長身で筋骨たくましく、髪を後ろでざっくりと束ねた男だ。笑い皺が常に目の端に残っているような性格で、三歳年上の太一は、戦場での兄貴分として自然と矢野の傍にいた。
「……まあ、するな」
矢野蓮は、剣を磨きながらそう答えた。
布で刃をなでる手つきは落ち着いていたが、指先はどこか固かった。
「俺なんて、初陣のとき、味方の背中斬りかけたからな。焦って。あんときは真っ青だったぜ」
「笑えないな、それ」
「笑えって言ってんだよ」
そう言って太一は笑い、矢野も小さく笑った。
二人が話すその少し奥、静は白装束のまま黙々と矢場の土を踏んでいた。
何度目かの素振り。
同じ速さ、同じ角度、同じ重み。
全てが機械のように正確で、すでに汗も見せない。
「……なあ、矢野。あいつさ、本当に人間か?」
「……お前も言うのか、それ」
「だってよ、朝も昼も、ずっと“剣の中”にいるみたいなんだよ。飯も食うけど、味なんか感じてなさそうだし」
矢野は答えなかった。
だが、わかっていた。
静のあの沈黙は、何かを“隠すため”のものではない。
――何も“持っていない”沈黙だった。
※
その日の午後、砦の西――小山のふもとで敵の斥候が確認された。
五、六名ほど。拠点に入り込もうとしている気配がある。
「風走組、出ろ。若手中心で構わん」
その指示により、矢野・太一・静を含む十数名が選抜された。初陣となる者も多い。
太一は「ようやく身体が温まるぜ」と軽く笑い、矢野は静かに剣の柄を確かめた。
静は、ただ前を見ていた。
小競り合いではあるが、命のやりとりに変わりはない。
矢野は、これが“初めての殺陣”となる仲間も多いことを思い、静かに呼吸を整えた。
太一が、ふと口にする。
「……静は、こないだのときから初陣の顔してなかったな」
矢野は小さくうなずいた。
「あいつには“最初”って感覚がないんだ。たぶん、“いつも通り”に斬るだけなんだろう」
太一は静の背を見る。
「あれ、“戦”に見えねえよな。“祈り”みたいなんだよ。怖くもなく、怒ってもなく、ただ……何かを、清めてるような」
その言葉は、まっすぐに矢野の胸に突き刺さった。
太一は、時々とんでもないことを口にする。
だがその直感は、静の本質にふれていた。
“祈るように斬る”。
それは、斬られる者にとっては地獄であり、斬る者にとっては――救いなのかもしれなかった。
※
小山のふもと、木々がまばらになった場所に差し掛かる。
敵の気配はある。
草の揺れ方、鳥の羽音、風の流れ――静は立ち止まり、目を細めた。
次の瞬間。
「右、三」
その声と同時に、静は地を蹴った。
他の兵が状況を認識するよりも早く、白装束が木立の中を閃光のように走る。
草が揺れ、鉄が鳴った。
矢野がようやく視界に捉えた時には、すでに敵三人が斬り伏せられていた。
一太刀――いや、連なる一閃。
空気さえ切り裂かれたような沈黙の中、静は何の音も立てずに動きを止めていた。
残る二人の敵兵が混乱し、逃げようとする。
その動きも、静の視界の中に収まっていた。
――一歩。
静は、迷わなかった。
振り返りもせず、地を滑るように踏み込み、
次の瞬間には、両断された肉が泥へ沈んでいた。
兵たちは誰も、言葉を失っていた。
矢野も、太一も、ただ立ち尽くすしかなかった。
その斬撃は、あまりにも静かで――あまりにも清らかだった。
「……これが、“剣”なのかよ……」
ぽつりと誰かが呟く。
太一が息を呑んだまま、静の背を見つめる。
「……祈り、だ」
矢野が思わずそちらを向くと、太一は確かに、呟いていた。
「あれは“祈り”だよ。敵でも味方でもない、誰にも属してない剣……あれは、誰にも向いてない。だけど、全部に届いてる」
誰にも属していない剣。
それは“自分”というものをどこかに置いてきた者の剣だった。
※
敵の首を五つ、槍にかけて帰陣した風走組は、砦の者たちから喝采を受けた。
だが、静はその中でただ一人、顔を曇らせることも、誇ることもなく、隅で刀を拭っていた。
白装束の袖には、泥と血が重なっている。
それすらも“祭器”のように美しかった。
その夜、矢野は焚火の傍に座っていた静の隣に腰を下ろした。
何も言わず、何も聞かず。
ただ、火の灯りを見ていた。
しばらくの沈黙のあと、矢野がぽつりと言う。
「お前さ。……あれ、なんだよ」
静は、少しだけ視線を動かした。
「“あれ”とは」
「今日の剣だよ。あれは、戦ってなかった。なんというか……“選んでた”。生かすか殺すか、じゃなくて……“生きること”そのものを、選んでたみたいだった」
静は、返事をしなかった。
矢野は焚火の赤に照らされた静の横顔を見つめる。
その頬にはかすかに土が付いていた。
だが、どこか“人間らしい”温度は、そこにはなかった。
「人を斬るとき……何か、想うのか?」
静は火の音に混じるように、小さく答えた。
「想う、というより……確かめてるのかもしれません」
「何を?」
「……僕が、まだ“ここにいる”ということを」
矢野はその言葉に、何も言い返せなかった。
静の剣は、誰かの命を奪うためのものではなかった。
それは、自分が生きていることを確かめる――唯一の手段だった。
「敵がいなければ、生きていけないのか?」
そう問うと、静はわずかに首を傾けた。
「……わかりません」
そう言って、静は焚火の向こうを見た。
風が、草を揺らしていた。
淡く、淡く。
その揺れの中で、静の声もまた、かき消されていった。
※
夜が更けていく。
火は小さくなり、兵たちは順に眠りについた。
矢野は仰向けに寝転び、夜空を見上げる。
月はなかった。星もなかった。
だが――ひとつ、確かなものがあった。
“あの剣”は、誰かのためではなく、何かを護るためでもなく。
ただ、自分が“まだ人間である”と信じるために振るわれていた。
それが、悲しかった。
それが、美しかった。