第四章:影、裂く 第二十七話「討たれし者、討ち果たされし者」
戦が終わった――そう言い切るには、まだ早かった。
焼けた布と肉のにおいが、風に乗って丘を越え、山の根をなぞるように広がっていた。五月の空は低く、雲の裏に陽が隠れているせいか、まだ昼であるはずなのに、どこか黄昏のような気配を帯びていた。
地に転がる屍たちは、最初こそそれぞれの戦いの形をしていた。剣を抜いたまま倒れた者、矢を腹に受け膝をついたまま崩れぬ者、仲間を庇うように肩を伸ばして逝った者。しかし、時間が経つにつれて、それらは同じ色をしていく。土の色、血の色、死の色。いずれにせよ、生の気配だけが、そこにはなかった。
そのなかを、矢野蓮は歩いていた。
膝に小さく力を込め、あえて靴音を立てぬように、しかし確かな足取りで歩いていた。肩口に擦り傷、袴には泥と血が染みていたが、意識ははっきりとしていた。脳裏にはただひとつの名前が、霞のように立ち上っては、また風に流されるように掴めずにいた。
――静。
その名を、心の中で呼ぶだけで、風景が遠のくような気がした。
太一はどうにか無事だった。肩口に深い矢傷を負ってはいたが、命に別状はなかった。まだ息の荒さが残る顔で、彼は問うた。
「……静は?」
その問いに、蓮は答えなかった。ただ、遠くを見ていた。今川の幔幕が張られていた方向。かつてそこに、何百という命令が飛び交い、無数の動きがあったはずの場所。その中心が、いまは静まり返っている。
「何も……ないのか?」
太一の声は、ふだんのそれよりも幾分、細かった。蓮は無言で頷いた。
幔幕の中央には、すでに織田方の兵が踏み込み、義元の遺体が運び出されたあとだった。黒漆の甲冑、金の威しの一部が破れ、首には無残な切断の痕があったという。それを確認した兵のひとりが、「首実検を急げ」と言ったのを、蓮は耳にしていた。
だが、そこに――静の姿は、なかった。
幔幕の奥。いくつもの死体が累々と折り重なっていたその場所で、蓮が見つけたのは、白い鞘に納められた刀と、黒ずんだ血の痕だけだった。
誰もそれを触れてはいなかった。まるで、その場にあること自体が、なにかの“証”のように、誰もがそこに手を出せなかったのだ。
「これは……静の?」
太一がそっと声を落とすようにして問うた。
蓮は、無言で頷いた。
壊れた幔幕の支柱に挟まっていた白い布切れ。その色は、いつだったか静が「この色は目立つんです。誰よりも。敵の的になりやすいし、味方の目印にもなる」と、笑ったときのものだ。だが、今はもう、血で赤黒く染まっていた。
「死体は……?」
「ない」
蓮は短く答えた。
「幔幕の中にも、近くの林にも、崖下にも、誰の報告にも――沖田静の姿は、ない」
太一は、眉根を寄せたまま動かなかった。彼にしては珍しく、息を止めるようにして、何かを考えているようだった。
戦が終わったのだ。
それは、確かな事実だ。
敵の総大将は討ち取られ、兵は逃げ、残った者は降伏し、地に膝をついた。誰もがその瞬間を、勝利と呼ぶことをためらわなかった。
だが――静は。
蓮の胸のうちに、得体の知れない風が吹いた。
白装束の鬼神、と誰かが呼んだ。
風のなかに、剣の音が混じると噂された。
塹壕の影から、白い人影が抜けていったと叫ぶ兵がいた。
どれも真実かもしれず、どれも虚構かもしれない。
だが、蓮は思う。
――沖田静は、そこにいた。
幔幕の奥。あの屍の山を、あの白鞘の刀を、そして血の残滓を残して、静は、確かに“存在していた”。
そして、どこかへ消えたのだ。
人の名を持たぬ者として。
剣として。
蓮はゆっくりと、地面に膝をついた。
そして、その白鞘の刀を、両手で丁重に拾い上げた。
静のぬくもりは、もう残っていなかった。
だが、柄の奥に微かに残る体温の名残――それは、確かに“生きていた者”の証だった。
蓮はそっと目を閉じた。
静。
お前は、剣になったのか。
それとも、人のまま、どこかへ消えたのか――。
※
空が割れたような歓声が、野に満ちていた。
勝ったのだ。誰もが信じられないという面持ちで、敵将・今川義元の首が掲げられたその瞬間、戦場にいた者のすべてが、自分たちの呼吸が現実のものであることを確認し直すように、喉から音を漏らした。
だが、勝者の顔には、無垢な喜びはなかった。
あまりに唐突な終幕だった。あまりに大きな犠牲を伴った。
草は踏み荒らされ、槍が折れ、幟が血に濡れて斜めに揺れる。
甲冑に血を乾かせた者も、胴巻きを失いながらも立っている者も、その視線は皆、遠くの幔幕へと吸い寄せられていた。
その中に、矢野蓮もいた。
――静が、どこかで待っているかもしれない。
言葉にしてしまえば、その言葉はあまりに幼すぎて、呼びかけのようでもあった。
だが、戦場という現実のなかで、人はときにそういう“無知のかたち”でしか、祈ることができない。
矢野の足元には、敵兵の亡骸が折り重なり、片腕を伸ばしたまま動かなくなった仲間がいた。
彼はその手に布を巻かれていた。まるで、応急手当をされたように。それは、静の白装束の一端だった。
矢野の喉が、詰まる。
布には、亡骸の血に混じってそれ以外――白装束の持ち主のものと思われる血も滲んでいた。乾いていない。手当した誰かが“たった今までそこにいた”痕跡だった。
「……静」
呟いた声は、風にかき消された。
戦場の風は容赦なく吹き、土を舞わせ、記憶の名残すらあっさりと覆い隠す。
ただひとつだけ、矢野の目に映るものがあった。
――白鞘の刀。
幔幕の端近く、数多の血と、斬り合いの名残を残した地に、それは、ぽつりと落ちていた。屍に埋もれ、血に染まり、黒ずんだそれは、目を凝らさなければ刀ともわからなかっただろう。
まるで、誰かが自分の“役目”を置いていったかのように。
いや――。
置かれたのではない。
“置いていかれた”のだ。
矢野は一歩、そしてもう一歩とその刀に近づいた。
血の跡が点々と続いていた。
土に埋もれかけた足跡と、交互に残される細く長い引き摺り傷――。
傷を負いながら歩いた者の歩幅だ。
静は、生きて、ここを離れた?
――いや、違う。
矢野は首を振る。浮かんだ悪い予感を打ち消す。
静とは約束したはずだ。それに、あいつは誰より強い。いつも余裕を浮かべて、舞うようにして剣を振り、そして戻ってきた。
だから、今日だって――
矢野は眼の奥がツンとするのを拳で乱暴にごまかす。
そんな期待は、戦場には似合わない。
斬られ、傷を負い、なお歩いたのならば、彼はどこかで――。
「わあああああァァァ――!」
矢野は咆哮した。次々と浮かんでくる、最悪な景色をはじき返すように。
近くにいた友軍の兵たちが、気でも触れたかと、白い目をして去っていった。
後ろから足音がする。
太一だった。右腕に包帯を巻き、左の頬に浅い切り傷があった。目は赤く、血に濡れていた。
「……あいつ、ここにいたのか」
声に濁りはなかった。ただ、遠くを見るようなまなざしで太一は言った。
「ここで誰かが斬っていった。鵜殿の首が飛んだって話も、宗信と直盛がやられたってのも――全部、あいつの仕業だろうよ」
「……ああ」
「でも、もういねえ。白装束の影もない」
そう言って、太一は、かがみ込んで白鞘を拾い上げた。
鞘には斬り合いでついたと思われる傷が、幾重にも走っていた。
誰かが打ち直したような跡。削れた角。握り跡。
――それは、まさに“生きていた剣”だった。
「矢野」
「……ああ」
「生きてると思うか」
主語はない。なくとも通じた。
矢野は答えなかった。
太一は続けた。
「俺は……」
その声は、少しだけ震えていた。
「俺は、あいつの目だったら、すぐにお前を見つけると思う」
「……」
「あいつは心配されるのが大嫌いな奴だった。いつも平気そうな顔していた。大丈夫じゃねぇときだってだ。そんな奴だ。そうだろ?」
「……ああ」
「静が無事だったら、お前を心配させるような真似はしねぇさ」
「太一……もう、やめろ」
矢野の背が震える。太一はそれが目に入らないかのように続けた。
「静がここにいない。それが答え……」
「やめてくれ――!」
矢野が顔を上げる。
太一の顔を見て、目を見開いた。
矢野が涙を流しているように、太一の顔も涙でぐしゃぐしゃだった。
白鞘の刀を、太一は矢野に指し示した。
矢野はそれを両手で抱え込む。重みが、確かにあった。血と、風と、命の重みだった。
「お前が語れば、あいつは生きる」
そうだろ、と太一は言った。
矢野は、剣を胸に抱え、目を閉じた。
静の声が、耳の奥に残っている気がした。
――僕が帰ってこなかったら、名は残さないでください。
――僕が帰ってきたら、その時は――名を捨てさせてください。
静は、すでにどこにもいない。
ただ、白鞘の刀と、血と、影だけを残して。
それでも。
――そのとき、風が吹いた。
静の白装束が、舞い上がるように見えたのだ。それが幻でないのならば。
彼は、生きていた。
確かに、そこに、生きていた。
※
日が落ち、戦場が薄紅に傾く頃、矢野と太一は丘の縁に腰を下ろしていた。
光はもう、地を照らし続けず、空の奥へと沈んでいく。
残されたのは、瓦礫。血と土が混じった泥と、折れた木。
そんな景色の中で、矢野が手に抱えた白鞘の刀だけが、静けさを帯びて際立っていた。
太一がぽつりと言った。
「名を残さず、か……」
その言葉は深く沈み、しかし誰かに掴まれるのを待っていた。
矢野はそれを受け止めるように、鞘に指を添えた。
互いの共通点は、静への「問い」だった。
彼の選んだ道に何があったのか、自分たちはどこまで共感できるのか。
※
幕兵が野営地を築き、傷ついた者たちが介抱される。
だが、群衆には「静」の名前はなかった。
それは彼が名を遺さないと選んだからでもあり、彼が“名前を名乗らない剣”だったからでもあった。
誰かがこぼす。
「白装束、見たか?」
返答は、誰もが首を振るだけだった。
あれが姿だったか、魂だったか、もはや誰にもわからなかった。
それでも、言葉は残る。
「見た」「聞いた」「斬った」――それだけで、人は伝説を語り始める。
※
夜。丘の上にひとつ火を起こすと、矢野は手早く斥候日誌を開いた。
記録には義元討伐の経緯と共に、一行の注記があった。
「白装束の剣士、幔幕突破。戦音以前に斬首をなし、幔幕内部消失。所在不明。」
文字は冷たく、ではあったが、そこから滲むものがあった。
意図的に置かれた、“消滅”そのものの記録――
それは、静が求めたものと重なっていた。
一方、田中兵長が「白い影が三河の谷を吹き抜けた」という言葉を書き残していた。
その空白と余韻こそが、静の剣が奏でた“物語”だった。
太一が覗き込んで言う。
「ここにも、“名”はないよな。ただ、影が書かれてる。――非道い話だ」
矢野はゆっくりうなずいた。ただ、その真意は闇に隠されたように見えなかった。
※
夜が深まると、群衆が静まる。
斥候兵が申請を忘れた証に、白い鞘の刀が正式記録から「不明」とされそうになっていた。
だが、矢野はその申請に赤ペンで「見つからず」「所在不明」と書き記した。
それが、彼なりの“祈り”だった。
やがて朝が来た。
戦勝の旗が掲げられ、鐘が鳴る。その音に町の人々が集まり、弔いや勝利を祝う声が混じる。
だが、矢野と太一の耳には、それらの音が、どこか遠いものに聞こえた。
白い影が去ったあと、そこに残されたのは、息を呑んだ瞬間と、血と、風と、そして――
記録されない記憶だった。
「行こう」
太一が言った。
もう少し歩くのだと。静の残した刀を、彼らの手で扱い、次の道へ向かうのだと。
矢野は頷いた。
“名を語らない”という選択を、悲しむのではなく、尊ぶために。
彼らはゆっくり立ち上がり、互いの背を確認するようにして、泥の道へ足を踏み出した。
白装束の男は、もはやその姿を見せなかった。
だが、その影は、確かに、ずっと――そこに、残っていた。
※
日が明けた。
谷あいに漂う靄は、夜の名残をまだ幾許か残していたが、戦の余韻は、確かに昨日のものとなっていた。喧騒と怒号が支配していたあの一日が、まるで何年も昔の幻であったかのように、静寂が野を支配している。
織田の陣営では、戦功の確認と死者の名簿作成がはじまっていた。
矢野は、白鞘の刀を自分の脇に置いたまま、軍吏の帳面を無言で見つめていた。隣では太一が、医師に矢傷の手当てを受けながら、時折呻くように息を漏らす。
「……名前がねえと、こうやって、ただの“誰か”になるんだな」
太一のその呟きに、矢野は顔を上げる。
帳面に綴られていく名の群れ。そのどれもが、死と直結する現実を孕んでいた。
けれど、その中にも――静の名は、なかった。
※
書記の若者が訊ねてくる。
「白装束の斥候……名は?」
矢野は答えなかった。
ただ、視線を腕の中の白鞘の刀へと落とす。
その刀に刻まれた名は、なかった。
鍔元にも、銘の一文字すら残されてはいなかった。
あるのは、乾きかけた血の色と、鞘にこびりついた泥の線。
「……“無名”として記してくれ」
矢野がようやく絞り出したその声に、若い書記官は筆を止め、少し困ったように眉をひそめた。
「“無名”では記録に残せません。最低でも仮称を……」
「なら、“影走り”でいい」
言い切った矢野の声に、思わず場が静まった。
太一すら、矢野を見た。
影走り――
かつて、誰かがその名で彼を呼んだ。
そして、その名は、彼の“意志”の表れでもあった。
記録者は、しばらくの沈黙ののち、筆を動かしはじめる。
「影走り、所在不明」と。
※
その夜、野営地の片隅で、矢野は火を見つめていた。
太一は背中を壁に預け、静かに傷を気にしている。
「なあ矢野。……お前は、静の名を本当に遺さないつもりか?」
唐突な太一の問いに、矢野はすぐには答えられなかった。
彼が生きて死んだというには、あまりに静かすぎた。あまりに、“痕跡”がなさすぎた。
普通の人間ならば、死の瞬間には絶叫があり、苦悶があり、呻きがある。
けれど――
静には、そういった“終わりの演出”が、まるで似つかわしくないように思えた。
「……それが、あいつの望みだったんだ。尊重すべきだろう」
「それがまかり通るとでも思ってんのか?」
「通るか通らないかじゃない。通すんだよ。……それがあいつの遺志だ」
「あいつのことを思うんなら、せめてあいつの生きた証を残すべきだろう! 誰よりも多くを斬り、多くを喪ったのはあいつだ。沖田静だ」
「知ってるさ!」
「あいつ……まだ、十六だぞ……? その短い人生を全て剣に捧げたんだ。遺してやらねぇとやるせねぇよ! 俺は!」
「それはお前の自己満足だろう? 俺だって……俺だって……でも、静は……静はそれを望んじゃいねぇ……」
それは、理屈ではなかった。
矢野のなかにある、感情。いや、もっと深い、肌で知ってしまった何か。
静という存在がこの戦において担っていたものは、戦果や名誉ではない。
“語られざる者たちの祈り”を、その刃で代弁することだった。
そして、静はそれを果たし、名を残さず、ただ影のように立ち去ったのだ。
※
戦の終結から三日後。
本陣の片隅に、名もなき墓標が立てられた。
誰の指示でもなかった。
ただ、石を積み上げた者がいて、それを囲むようにまた石が置かれ、周囲に誰かが花を手向けた。
真っ白な石片が、中央に置かれていた。
名前のない者の、唯一の証。
矢野はそれを見て、しばらくその場に立ち尽くしていた。
誰も、何も語らなかった。
語れば壊れてしまうような、そんな空気が、そこにはあった。
※
太一と矢野は、翌朝の隊列に加わり、尾張への帰路に着いた。
振り返ったとき、あの無名の墓標は、まるで風の形に溶け込んでいた。
「なあ、矢野」
「……ん?」
「いつか、あの墓、誰かが掘り返して、“あいつの名”を刻むことがあると思うか?」
矢野は、少しだけ微笑んで答えた。
「いや。そうはならないだろう。そうなってほしくねぇ。なにより、あいつがそれを望むはずがない」
「……そっか」
二人の影が長く伸びる。
風が吹いた。
誰かの名ではなく、剣の記憶だけが、地に残る。
それで、よかったのだ。
それが、“静”の生だった。




