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名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り  作者: 斎宮 たまき/斎宮 環


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第四章:影、裂く 第二十六話「義元の影」

 風が止まった。

 誰もが耳を澄ませば、それとわかる沈黙だった。つい先ほどまで、空は怒号と悲鳴を吸い上げていたはずだったのに、いまはただ、土と血のにおいが、音のないまま喉を満たしていく。

 今川本陣――。

 桶狭間の谷を見下ろす高台に設営されたそれは、もはや「戦の中枢」としての体を成していなかった。

 旗印は傾ぎ、幔幕は半ば裂け、馬は繋がれたまま逃げ場を失っている。砲声に似た咆哮の後、すべてが壊れ始めたのだ。

 幔幕の外周に残った兵たちは、既に“覚悟”という言葉の意味を口にできなくなっていた。彼らはまだ刀を抜いている。槍を構えている。だがそれは、「戦うため」ではなかった。――ただ「まだ死んでいない」ことを、形にしているだけの姿だった。

 そこへ、音もなく忍び寄るものがいた。

 白装束の男だった。

 血に濡れ、左肩からは裂け目のように赤黒いものが滴り、だが足取りは変わらない。すでに剣は鞘から抜かれていた。

 それが、最初に気づかれたのは、幔幕の右手を守っていた足軽のひとりによってだった。男はわずかに眉をしかめるように首を傾け、まるで幻を見たように――そうして、斬られた。

 一太刀で、首が斜めに落ちた。

「ッ……!」

 その音に、周囲の兵たちが振り向く。

 悲鳴を上げた者はいない。けれど次の瞬間、四人が同時に飛びかかった。

 だが――届かない。

 彼の動きは、斬り込むよりも“滑り込む”に近かった。刃はもはや武器ではなく、音さえも裂く“線”だった。肉を裂いたときの音が、まるで紙を破るように乾いている。誰も彼の動きを見切れない。いや、見えていても、体が反応しない。

 五人目が、膝をついて倒れるとき、もう誰も彼に近づこうとはしなかった。

 彼は歩く。

 静かに、しかし一歩一歩が確かに、死を連れていた。

 そのときだった。

「……まさか、あれが……」

 低い声が、幔幕の内から漏れた。

 それを聞いた者の顔色が変わる。中にいたのは、井伊直盛。今川家の重臣であり、義元の側近中の側近。その傍にいた松井宗信と目を合わせ、声を潜めるようにして言った。

「伝えられていた……“白装束の鬼神”……!」

 静は、立ち止まった。

 その名を聞いて、何かを思い出すように、ゆっくりと目を細めた。

 ――鬼神。

 そう呼ばれるたびに、背に冷たいものが流れる。それが誰の声だったか、もう覚えていない。けれど、名を持たぬ剣でいることが、ここまで“存在の異物”にされていくとは思わなかった。

 だが、もう遅い。

 彼は進む。幔幕を守る二人の重臣、井伊と松井へ向かって。

「――そこまでだ!」

 先に動いたのは井伊直盛だった。

 槍を抜き、構えながら踏み出す動きに、長年の武勲の重みが宿る。老いてなお、その姿に怯む者は少なくない。だが静は、ほんの一瞬、視線を横に逸らしただけだった。

 距離、八歩。

 地面は斜めに傾き、濡れてぬかるみ、戦の名残で小石と破片が散っていた。だが、彼にとっては、どこも同じ“道”だった。

「――はッ!」

 井伊の咆哮とともに、槍が閃く。

 長い刃先が月を裂くように迫る。だが、静はそれを横へ跳ぶでもなく、下がるでもなく、ただ一歩、懐に“沈む”。

 槍の間合いが、死角に変わる。

 反応した井伊が即座に槍尻で打とうとするが、既に遅い。

 静の刃は、槍を裂くのではない。

 その“間”を見て、先にそこへ到達している。

 井伊直盛の脇腹に、斜めの切っ先が沈んだ。

「……ぐ、ぉ……」

 呻きが、血にまみれて空気を汚す。

 だが、直盛は倒れなかった。

 かろうじて後退し、地面に膝をつきながらも、槍を手放さず、血を吐きながら静を睨みつけていた。

「……この……野郎……」

 言い終える前に、次の気配が割って入る。

「――ッ」

 松井宗信。刀を抜いたのは、直盛が倒れるのとほぼ同時だった。年は五十を過ぎていたが、戦場の気配においては若者よりも鋭く、躊躇もなかった。

 静もその気配に応じる。

 が――、動きがわずかに鈍る。

 右肩。矢傷。左肩。裂傷が痛む。

 鵜殿とやりあったときの一撃が、思ったよりも深かったのだ。袖が血に貼り付き、筋肉が痙攣している。右足は辛うじて無傷だったが、振るうたびに、左に引きずられる。

「……なるほど、そういうことか……!」

 松井が叫ぶ。「あの血痕、まやかしではない……貴様、既に死にかけているのだろう!」と。

 静は応えない。

 ただ一瞬、足元を見た。

 そこには、井伊の落とした血があった。

 地面に広がるその濃紅は、他でもない、静自身の血と混じり合っている。

 ――斬ることは、生きることではない。

 その言葉を、かつて誰かが言ったような気がした。

 いや、そんな言葉すらも、もう届かない場所に、自分は立っていたのだ。

 ――静は、踏み込んだ。

 痛みが腕を貫いた瞬間、目の前にあるのはただ、命の“芯”だけだった。

 宗信の剣は鋭かった。初太刀は受けず、刃を滑らせて外へ流す。静は逆に、回避せず受けて、軸をずらして身体を斜めに捻る。

 背を返す。

 その動きに連動して、右手の刃が腰から肩へ走る。

 松井宗信の喉が裂けた。

 時間にして三合。

 だが、その三合が終わるころ、静は深く膝を折っていた。左腕が重い。視界がぶれる。鼓動のリズムが、一定ではない。

 それでも――立ち上がる。

 目の前には、幔幕の中心。

 そして、まだそこに残っていた男がひとり。

 ーー今川義元。

    ※

 血の匂いが、夜の残滓を追い払うように広がっていた。

 幔幕――白布に今川の紋が染め抜かれたそれは、すでに周囲の守りを崩され、風の通り道のように戦場の裂け目を晒していた。草履の裏が土を捉えるたび、かすかに湿った音がする。朝方の霧がまだ地を這い、湿気を帯びた空気が白装束の端を重くする。

 静は、黙って歩いていた。

 走らない。いや、走れない。肩口から腹にかけての裂傷は深く、左腕の自由はすでに奪われていた。右肩の矢傷もとうに開ききっており、布で縛った傷口から、じわじわと赤が滲んでくる。あばらと鎖骨もおそらく折れている。にもかかわらず、顔には焦燥も、恐れもなかった。あるのは、ただ歩を進める意志。

「……あと、少しだ」

 そう口の中で転がした声は、誰に向けたものでもなかった。ただ、生の終点に佇む者だけが発する種類の、冷たい確信だった。

 今川義元――。

 義元は仁王のごとくこちらを見据えていた。

 ふたりの視線が空中で火花を散らす。

 静は上段に、義元は平青眼に構える。

 時が止まった。風ひとつ吹かないその地に、魂と魂のぶつかり合う音がした。

 先に動いたのは静だった。義元の影をとらえる。

 静の剣が義元の肩口を裂くのと同時に、義元の剣が、静の胸を貫いた。

「……ッ」

 何も言えなかった。

 胸から吹き出した血が喉を塞ぎ、息を呑むように咳き込み、倒れかけた静の体を支えるものは、もう何もなかった。

 ただ、目だけは義元を捉えていた。

 濁らないまま、まっすぐに。

 そして、かすかに唇が動いた。

「……俺は、生きるよ。死ぬのはあんただ……」

 その言葉に、義元の眉がぴくりと動く。

 何かを言い返そうとしたその瞬間。

 ――突風が吹いた。

 義元の目の前で、消えかけた命。

 静の長い髪が逆巻く。

 目の前のその男はまるで修羅のように見えた。

 そして――、

「我が名は沖田静。その首、頂戴いたす」

 朱に染まった唇の片端を持ち上げ、静がゆらりと立ち上がる。

 血の涙を流し、逆巻く風を背に受けた、剣の申し子。鬼神。

 それが義元が見た今生最後の景色だった。

     ※

 幔幕が裂ける。別働隊が雪崩れ込む音。


「敵将破れたり――!」

「今川義元の首、取ったり――!」

 友軍の兵士たちの歓声。

 矢野の声。太一の叫び。名もなき兵たちの怒号。

 静の姿は、そこにはなかった。


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