第四章:影、裂く 第二十五話「鬼神、乱れる」
白装束に深紅の筋が混じっていた。
それは敵兵の血であると同時に、静の左肩から流れ出たものでもあった。風のように駆け抜けた刃の軌跡を、誰も見ていない。だが、幔幕の奥深くで倒れていた副将の首がないこと、地を這って逃れようとした兵士の背に斜めの切り口が入っていること、それらが一つの事実を物語っていた。
この陣に“鬼神”が現れたのだと。
静は、幔幕の裂け目から出た風に身を溶け込ませ、再び闇へ消えた。背を向けて走ると、左肩に走った痛みが呼吸を邪魔する。剣を振るうたびに筋肉が裂け、血が脈打つたびに視界が揺らぐ。けれど、足を止める理由にはならなかった。
――まだ、終わっていない。
東の空がようやく明るみを帯び始めた。
それは奇襲の成功を意味しない。むしろ、これからが“戦”である。静の奇襲が本陣を撹乱し、今川軍の指揮に混乱が生じたとしても、それが戦況全体に波及するには、時間も、別方向からの圧力も必要だった。
信長本隊の突撃。――そのための、風だった。
静が斬ったのは、敵のごく一部だった。
斬っても斬っても尽きることのない数に、無力さを覚えなかったわけではない。けれど、この命が一つ風になるのならば、嵐に続く“前触れ”であるならば――その意味だけで、剣を振るう価値はあった。
「風になれ。斬らずとも、通れ」
そう言ったのは誰だったか。
記憶の底に、遠く、あまりに遠くに霞んだ声があった。矢野だったか、太一だったか、それとももっと昔の、誰か――あるいは、まだ誰にもなっていなかった頃の、己自身の声かもしれなかった。
山の稜線をなぞるようにして走る。
敵軍の混乱はまだ本格化していない。斬った幔幕の中心部から幾人もの武将が命を落としたはずだが、それがどこまで伝わっているか。静の狙いは、敵の“情報”の流れを断ち、“恐怖”だけを置いて去ることだった。だからこそ、生き残りの兵をあえて逃がした。
――喋れ。喚け。恐れろ。
白装束の“影”を。
人ならざる者が、闇から現れては、首を刈り、声なく消える。それだけで兵士たちの手足を奪う。剣よりも早く、心が凍る。誰も戦場で“何が起きたか”を知ることができず、誰も“誰が討たれたか”を叫べない。
「……燃やせ、もっと、もっとだ」
誰にともなく呟きながら、静は山道の影に身を沈めた。
刃が、乾いている。
血を浴びながら、どこか現実感のないその感覚に、静はまた苦笑する。ひと息つく暇もない。追手がくる前に、次の動きへと移らねばならない。
信長の軍が突撃を開始すれば、いずれこちら側にも戦火が及ぶ。静はそのとき、再び刃を抜くべきか――あるいは、もう誰も斬らなくて済むのか。
どちらにしても、もう戻る道はなかった。
「さて……敵将はどちらへ」
風が、揺れた。
※
風が騒ぎ、馬の嘶きが響いた。
桶狭間の谷を抜ける一筋の道。その中央を、織田軍本隊の先鋒が駆け抜けていた。木々の梢がざわめき、土煙が立ち上がる。太一はその最前列にいた。
胸を貫くような緊張があった。が、それは恐れではなかった。
「矢野、突っ込むぞ!」
馬上で叫ぶ太一に、矢野は短く頷く。既に盾となるべき先陣が切られている。静が放った“風”は確かに届いた。それを追い風とするか、嵐とするかは、己ら次第だ。
「――行く!」
矢野は蹴鞠のように馬腹を蹴った。
泥濘の中で、馬の脚が斜めに滑る。そのまま矢野は身体を低くし、前方から放たれた弓矢を避けた。頬をかすめた矢が耳元で風を切り、背後の兵士がひとり、馬から落ちた。
だが、止まらない。
太一もまた、左肩を狙われながらも身を翻し、槍を振り払った。敵兵の隊列が一瞬だけ乱れた。その隙を、隊の若い兵たちが突き崩す。
「静がつくった風が、ここまで届いたぞ!」
太一の叫びが、土煙を破って響く。
矢野は横目でそれを見て、思わず笑った。そうだった。この男は、どんな局面でも“その先”を見ていた。静が刻んだ風を、ただの血としてではなく、“突破の道”として受け取ることのできる眼差し。
(……俺は、そういう奴らに囲まれていたんだ)
静も、太一も、そして――自分も。
叫ぶこともなく、ただ剣を抜く。無言のまま、斬って、走る。それが、“静”の戦だった。矢野はそれを“冷たい”とすら思ったこともある。
だが違った。
静の剣は、熱かった。誰よりも熱く、激しく、だがそのすべてを押し殺すように、静かに沈めていた。
「だから、俺たちが叫ぶんだ」
矢野は叫んだ。前へ。突撃だと。命がけの突破だと。
太一が再び身を屈めた瞬間、矢がその肩を貫いた。
「太一!」
矢野が駆け寄るより早く、太一は歯を食いしばって剣を振った。前方の敵兵が一瞬たじろぐ。太一はよろめきながらも踏みとどまり、肩に刺さった矢を引き抜き、血が吹き出すのも構わずに叫んだ。
「まだだ……まだ、前に出る!」
その姿は、鬼神じみていた。
だが、違った。あれは、“人”だった。
誰かの後を追うように、どこまでも届かぬ風をつかもうとする、“人間”だった。
白い影が斬った――という噂は、すでに兵たちの間に広がり始めていた。
「あれは……あれは、誰だ!」
「白い、何かが……斬ったんだ!」
「影が……刃を持っていた!」
血と怒声の中、噂が火の粉のように舞い上がっていた。
矢野はその声を聞いていた。
名もなき“鬼神”が、斬り拓いたこの戦場。その“風”を、自分たちがどう繋げるかが、次の一手だった。
そして思った。
(お前の剣は、ちゃんとここまで届いているぞ、静)
※
戦場は、音で満ちていた。
土を蹴る音、馬の嘶き、叫び、矢の風を裂く音、剣と剣が噛み合う音――そして、命が断たれる音。
その全てのただなかで、沖田静は、誰にも知られぬ道を行く。
刃を収めることもなく、振り抜くこともなく、ただ歩いていた。左肩の傷口からは、静かに血が流れつづけている。だが痛みを口にすることはない。
「……まだ、もう少しだけ」
独りごちるように、小さく息を吐く。
すでに今川本陣の幔幕を突き、鵜殿長持の首を斬ったあとだった。
それを成した直後、静は躊躇いなく、戦場から一度姿を消していた。
「死ぬべきは、今ではない」
そう思った。
いや、違う。
「僕は、どこで死ぬべきかを、もう知っている」
その場で果てることはできた。だが、そうはしない。その想いの陰には友の姿があった。
だから彼は、生きていた。
誰も知らぬ小径を選び、裏道を這い、斜面を下り、味方陣からも敵陣からも消えるようにして、影を纏った。
とある森の縁にたどり着いたとき、足元に斃れた兵がいた。
十七、八か――若い。静自身とそう変わらない年頃だろう。まだ少年に近い顔立ちだった。
服の紋章は、織田軍。
新兵か。剣の握り方から見て、戦い慣れてはいない。
その者は目を見開いたまま、空を見ていた。
静はしゃがみこみ、血のついた手でそっとその目を閉じる。
「……痛かったね」
誰に聞かせるわけでもなく、そう呟いた。
冷たい指先に、命の残滓はなかった。だが、爪のあいだから、土が削られているのを見て取れた。
生きようとしていた。
戦いたくてここに来たのではない。
ただ、誰かを守りたくて、誰かの命令に応じて、そして――誰かのために、死んだ。
何も言わず、静は立ち上がる。
白装束は既に土と血にまみれ、もはや白とは呼べぬ色をしていた。だがそれでも、風にたなびくその影は、見る者に“異形”の印象を刻み込むに足るものだった。
――風はまだ止まぬ。
静は歩いた。
ゆっくりと、だが確実に、桶狭間の風の中へと戻っていく。
自らが立ち去るそのあとに、血の花が咲いていようとも。
誰にも気づかれぬままに、彼は“死の果て”へと向かっていた。
※
谷を抜けた風が、川面を撫でていく。
戦場は、瞬きのたびに色を変える。
赤、黒、灰、そして――白。
白装束の剣士が姿を消したという噂は、敵味方の双方に広がっていた。
「……本当に、いたのか?」
「人じゃねえ。影の化け物だ」
「いや、見た。目の前で斬られた奴がいた。音もなく首が――」
斬られた兵の亡骸を横目にした敵方の捕虜たちが、口々にそう言い合っていた。
誰もその姿を見たとはっきり断言できない。だが、斬られた者はいる。幔幕が倒れ、本陣が崩れたのは事実。指揮官が討たれたことも。
それを成したのは、白い影だったと。
戦場において語られる言葉は、それだけで現実になる。
「……静の、剣か」
太一が、口の端をゆがめて言った。
彼の左肩には一本の矢が深く刺さっていた。抜くと出血が止まらなくなることを知っていたため、そのままにしていた。
だが、意識はまだはっきりとしていた。
彼は、まっすぐに前を見ていた。
「信長様の御前までは、行けるな」
「行くさ」
矢野が隣で言う。彼の刀も、すでに何人目を斬ったか分からないほど、血に染まっていた。
彼の視線もまた、揺らぎがなかった。
「静が“風”を吹かせた。ならば――俺たちは、“楔”になる番だ」
太一が低く笑う。
「……いい響きだな。お前、詩人にでもなれよ」
「言ってろ」
二人は笑いながら駆けた。雨が止んだばかりの泥濘のなか、足をとられそうになりながらも、己の意思で地を蹴った。
――そのとき、丘の上に炎が上がった。
今川軍の後衛の一角。幌が焼かれ、火矢が走り、煙が昇っていた。
「また動いたな」
矢野が言い、太一が頷く。
信長本隊の突撃が、ついに動いた。
先陣を切る騎馬兵が、陣形を崩さぬままに矢の雨をかいくぐり、敵の横腹を穿つ。
全軍を揺るがす咆哮が、風を裂いて響いた。
その中心に、赤い羽織を纏った一人の男――織田信長の姿があった。
狂気とも呼べるほどに先陣に立つ彼の剣は、戦場の鼓動そのものであり、信じる者すら震わせる“光”だった。
「行くぞ、矢野!」
「……ああ!」
太一と矢野は声を合わせた。
静の剣が切り開いた“裂け目”に、彼らが突っ込む。
その行為自体が、希望を示すための“祈り”だった。
誰かの命を救うためではない。
誰かの犠牲を無駄にしないためでもない。
――ただ、“意味”を与えるために。
命のやりとりを、戦いという行為に、そして、あの名もなき剣士の願いに。
矢野は、泥を蹴り、盾をはじき、太一と並んで駆けた。
「あの風は、まだ……止んじゃいねえ!」
太一の叫びが、戦場を切り裂いた。
矢野は頷いた。
「まだ、俺たちが吹かせる番だ!」
そのとき、風が再び――吹いたような気がした。
※
雨は上がっていた。だが、空はまだ完全に晴れ切らぬまま、幾筋もの雲が空を斜めに切っていた。砕けた木の枝が泥の上に散り、折れた槍、ちぎれた幟、転がる兜が風に鳴った。空気は重く、湿っていた。だがそのなかに、確かに「風」が通り抜けていた。
矢野蓮の耳に、それは届いていた。風音ではない。喧噪の中に、確かに誰かが叫んでいた。
――白い影がいた、と。
――あの者が、幔幕を斬った、と。
――今川の幕に、風が吹いたのだ、と。
その言葉が、戦場に伝播していく。誰もが見たわけではない。だが誰もが「知っている」のだった。鬼神の風が走った、と。
矢野は泥濘に足を取られながらも、太一の後を追っていた。もう何人を斬ったか、記憶にはない。ただ、目の前にある敵を振り払い、太一の背に食らいつくようにして進む。
「静だ! 静がやったんだ!」
太一が吼えた。だがその声も、甲高い馬の嘶きと、兵たちの絶叫にかき消されていく。何本もの矢が飛ぶ。一本が太一の肩をかすめ、もう一本が脇腹を削いだ。太一は呻き、だが足を止めなかった。右手の太刀が血飛沫を巻き上げる。
「太一、下がれ!」
「下がれるかよ……! 静が切り拓いたこの道だぞ!」
泥に滑って転びそうになる太一の腕を、矢野が咄嗟に掴んだ。二人の身体がぶつかる。その瞬間、目の前の敵兵が倒れた。太一が咄嗟に払い込んだ太刀が、敵の首元に走っていたのだ。
「……やっぱ、俺たち、もう戻れねえな」
「今さら何を」
矢野は低く応じた。頬に血が飛び、視界が滲んでいた。敵軍の一角が、今まさに崩れようとしている。
静が突いた背後。その風が、この戦況を変えようとしている。
そのときだった。
敵兵の間から、異様な動きの者が一人、現れた。武具は身に着けているものの、明らかに「敵」とは異なる動きをしていた。矢野の目が、その男を捉える。
――静?
そう思った瞬間、その男は斬られた。味方の放った太刀が、斜めに肩口を断ち切ったのだ。転がったその者は、敵兵ではなかった。従者のような身なりの者で、斥候を真似て敵中に紛れていたのかもしれない。
違う、と矢野は思った。それは静ではない。
あの背は、もっと冷たく、気高く、凛としていた。
あれほどの風を残して――彼が、ただ消えるはずがない。
血の匂いに満ちた中、矢野は太一の肩を押して叫んだ。
「進め!」
そしてふたりは、なおも切り込み続ける。
※
静の剣は、すでに再び鞘に収められていた。
彼が今いるのは、幔幕のさらに奥、今川軍の副将格が布陣していたと思われる小陣地の裏手。そこはすでに人の気配が薄く、幔幕は倒れ、火薬の焦げた臭いが充満している。
左肩から、血が流れていた。先ほど、副将格と斬り結んだとき、防ぎきれず、深く切られた。
だが静の目は、曇っていなかった。痛みはある。だが、身体のどこかが叫ぶたびに、静はそれを「まだ、生きている証拠」として受け取っていた。
その足が、ふと止まる。
――音。
僅かに、布の揺れる気配。静は剣に手をかけ、気配の方向へ身を沈めた。
ひとりの兵がいた。おそらく、この混乱の中で逃げ遅れた者。目が合う。
「おまえ……っ」
言葉よりも早く、その兵は剣を抜いた。だが、次の瞬間には静の刃がその手から武器を弾き、逆の手で頬を殴っていた。
倒れた兵は、恐怖に身体を震わせる。
「逃げなさい」
静は短く言った。自分が斬る必要のない者を、斬りたくはなかった。
※
別の戦線では、信長の本隊が、いよいよ幔幕へと迫っていた。森の端を抜け、湿った草の上を駆けるその足音の中に、矢野と太一の声が混じっていた。
「矢野、もう少しだ!」
「ああ――静の風が、ここまで引っ張ってきてくれた」
それは祈りのようで、誓いのようでもあった。
白装束の鬼神は、もう誰の目にも見えない。
だが、その剣の痕跡だけが、戦場の全てに刻まれていた。




