第四章:影、裂く 第二十二話「奇襲、始まる」
永禄三年、五月十九日。午後一時。
雨は止んでいたが、空には未だ晴れ間はなかった。
濡れた雲が山稜の上に低く垂れ込め、地面には朝の名残を引きずるような泥がぬかるみをつくっていた。
その泥を蹴って、兵たちが走る。走って、滑って、また走る。
「急げ、合図が出る前に――!」
声を張り上げる先鋒の一人が泥に足を取られ、転倒する。だが後続の兵はそれを避けるでもなく、踏み越えるようにして山道を駆けた。
いまこの瞬間、織田信長の軍は“すべてを懸けて”動いていた。
本隊の数は、およそ二千。
対する今川義元は、一説に二万。
まともにぶつかれば、勝機などない。
それでも、勝つつもりで動いている――信長の姿がその軍勢の先頭にいた。
槍を構え、馬を蹴り、泥道を裂いていく姿に、誰もが口を噤んだ。
「総大将が先頭にいる」という事実だけが、兵たちの背中を押していた。
そしてその列の後方に、風走組と呼ばれる、精鋭斥候部隊がいた。
そこに、矢野蓮と太一の姿があった。
「……風が止んでる」
太一がぽつりと言った。
「風は、吹く前に黙るんだ」
矢野が答えた。
ふたりの視線の先、さらに後方に、もうひとつの影があった。
白装束の男――沖田静。
その姿は、霧の中に浮かぶように輪郭が淡く、風景と区別がつかなくなるほど“音”を持っていなかった。
彼がそこにいるのか、
それとも、“まだここにしかいない”のか、誰にも判断がつかなかった。
「“影走り”の命を預ける」――その言葉を、蓮は前夜に信長から直接聞いた。
「本陣の背後に、風を一つ。おまえらは正面から動け。だが、風は背を刺す」
それが意味するところは、明白だった。
戦場の前と後ろを、同時に崩す。
奇襲の本命が信長であるならば、静の役目は“本命以外のどこかに”揺さぶりを入れる、ただの風でなければならなかった。
「成功すれば、敵は分断する」
「失敗すれば、戻ってこない」
「――構わん。どのみち、戻る場所などないだろう」
信長はそう言った。
静は、うなずいただけだった。
ただ、ほんの一瞬だけ――矢野を見た。
その目は、笑っていなかった。
けれど、どこか“笑うという行為が、もう必要でなくなった”という納得に満ちていた。
※
静はひとり、木立の陰に立っていた。
泥に沈む山道からは離れ、斜面を削るように伸びた獣道に足を止めている。そこは奇襲の動線からも外れ、味方の誰とも視線が交差しない位置だった。
自ら選んだ道だった。
誰もいないところで、誰にも気づかれず、ただ“風”として過ぎる。
それが、彼に託された“影走り”という役目だった。
「……矢野さん」
かすれた声で名を呼んだ。
だが、そこに矢野の姿はない。すでに隊は進軍し、彼らは前線に加わっている。
静は目を伏せた。
白装束の裾に泥が滲み始めていた。肩に羽織る襟の折り目には雨粒が残り、そこに映る空は淡く、灰色だった。
少しだけ、深呼吸をする。
冷たい。
山の空気が、喉奥に刺さるようだった。
その痛みすら、心地よかった。
(これでいい)
そう思った。
戦の只中に身を置きながら、
人を斬るために剣を抜くのではなく、
ただ、剣の形をした風として存在する。
己の在りようを、そう定義することができるのならば。
これが“終わり”になるかもしれない。
そう思った瞬間、ぞくりと血が凍る気配がした。
静は小さくかぶりを振る。
(死を恐れるな。恐れは弱さ――死に直結する)
強く自分に言い聞かせる声が震えるのを、静は押し殺した。
いつから自分は変わってしまったのだろう。
生きたいと思ってしまった。
帰る場所を見つけてしまった。
死にたくないと思ってしまった。
(もともとそのつもりだっただろう?)
誰にも見られず、誰にも知られず、
敵の背を斬り、混乱を生み、そして……名も残さず、死んでいく。
そういう最期であれば、やっと自分の“剣”に意味が宿る気がしていた。
だのに、今の自分はどうだ。
孤高の”剣”ではなく、ただの一人の”人”として、明日を紡いでいきたいと願っている。
(進むことを怖がるな。負ければすなわち”明日”は来ない)
自身にのしかかる何か。迫りくる大きな何かは確実に静の明日を蝕みつつある。
それは予感ではなかった。
風だった。
山を抜ける風が、静の髪を揺らし、白装束の裾を撫でていった。
「……この風が」
静が呟いた。
「“ただの風”でありますように」
それは、祈りの言葉だった。
もう、誰も殺さずに済むように。
誰の名も奪わずに済むように。
自分という存在が、ただ“風”であることで、何かを動かすことができたなら。
「矢野さん」
静はまぶしそうに目を細めた。
「……明日を勝ち取ります。この手で」
どれほど、言葉を飲み込んだかわからない。
本当は叫びたかった。本当は、止めたかった。
だが。
静の背には、“死に向かう者”の風が吹いていた。
それは、もう二度と誰にも止められないものだった。
そして彼は、樹々の間へと消えていった。
まるで――はじめから、風しかそこになかったかのように。
※
風が吹いていた。
それは谷を渡り、雨の余韻を抱いて、山中にさざめきを遺していく。
誰もが耳をふさぐような轟音ではない。ただ、かすかな木々の震えと、濡れた葉の軋みが連なって、森そのものがささやき始めるような風だった。
静は、走っていた。
姿勢は低く、音を立てぬよう呼吸も細めに。足裏に伝わるのは湿った土と小石の感触で、まるで地面が生きているかのようだった。
雨はすでに上がっている。だが、空気にはまだ水気が残り、鼻孔の奥まで湿っていた。
その湿りは、死の匂いとよく似ていた。
(風走組とは別の経路を取る)
出発前にそう伝えられていた。
静の任務は、信長本隊とは別に、敵本陣の背後へ回りこみ、ひとりで“風を起こす”ことだった。
奇襲を仕掛けるという意味では同じだ。だが、彼の“刃”が担うのは戦線の突破でも突撃でもない。
敵の注意を反らすこと。指揮の中枢に迷いを刻むこと。
最小限の動きで、最大の攪乱を生むために――静は、ただの風にならなければならなかった。
(斬るのは、命ではない。斬るのは、均衡だ)
その言葉を、心のなかで反芻する。
斬ることを肯定するためではない。ただ、自らが“生きている間だけの剣”であることを保つために。
――矢野さん。
思わず、その名が脳裏を掠める。
先刻の別れ際の顔が、今も焼きついて離れなかった。
ただ、そこに多くの言葉はなかった。
静も、多くは語らなかった。
だからこそ、あの短い対話だけが、今の自分を支えている気がしていた。
(帰る場所がある)
風が吹けば、すべては過去になる。
剣が揺らげば、すべては影になる。
そのようにして、名もなく、顔もなく、ただ“あった”という記憶だけを残すもの――
それが、“影走り”の仕事だった。
※
森が開ける。
緩やかな斜面の先に、細い獣道が一本、うねるように伸びていた。
その脇に、転がる影があった。
ひとりの男――味方の斥候だった。
既に事切れている。首の角度が不自然で、喉元には細い斬撃の痕。
斥候である以上、敵の動きを先んじて見張っていたはずだ。だが、その死体に剣戟の匂いはなく、静かすぎる死だった。
静は膝を折り、そっとその目を閉じる。
まぶたをなぞる指先に、わずかな体温が残っていた。
(死ぬことを、知っていた目だ)
そう感じた。
恐怖ではない。未練でもない。ただ、覚悟だけが宿っていた。
見張るという役目を果たすために、斥候はそこで立ち、死んだのだろう。
(僕も――)
静は立ち上がった。
生きて帰ると誓った。
だが、“戻ってこないかもしれない”とは自覚している。
もう、誰もそれを止めない。
この先には、敵の本陣がある。
そこにたどり着いたとき、自分は何人を斬るだろう。
あるいは、斬れずに、殺されるかもしれない。
だが、そのすべてを受け容れたうえで、静は歩を進めた。
(風は、まだ吹いている)
耳元で、木々が揺れていた。
さきほどからずっと、風は途切れず、自分の背を押してくれているようだった。
もしかしたら、この風のなかに――
矢野の祈りが混じっているのかもしれない。
(“ただの風”でありますように)
呟くように、胸のなかで唱える。
それはもはや希望でも願望でもなく、自らを保つための呪文だった。
風が裂ける。
そのとき、自分という存在もまた、影のように裂け、誰にも触れられないまま、ひとつの形を残すだけになる。
そうであってほしい。
そうでなければならない。
自分がこれまで斬ってきたすべての命の重みに、ただ潰されてしまわぬように。
白装束が揺れる。
森が、開ける。
戦場は、もうすぐそこだ。
空が、割れていた。
晴れていたわけではない。
雲が消えたわけでもない。
ただ、さきほどまで霧のように低く垂れていた雲の隙間がわずかに開き、陽光とは名ばかりの淡い光が、山肌に斜めの線を描いていた。
その線を裂くようにして、織田信長本隊の先鋒が走っていた。
永禄三年、五月十九日――午後一時すぎ。
奇襲は、始まっていた。
信長は自ら先頭に立っていた。
誰もが、彼の狂気を疑った。
だが、今はそれに異を唱える者はいない。
すでに馬の脚が土を鳴らし、兵たちの足音が山道を満たし始めていた。
もはや、止まるという選択肢は存在しない。
その中に、矢野蓮と太一の姿もあった。
「――静はどこにいるんだろうな」
走りながら、太一が声をかけた。
馬上ではない。風走組は徒歩での機動戦力であり、地形を活かした突撃に長けていたからだ。
「……ああ。もう見えない。けど、どこかにいるはずだ」
矢野は答える。
それ以上の言葉はなかった。
だが、その一言に込められた意味は、太一にも伝わっていた。
静は、裏手から本陣を突く。
そのために、別行動をとっている。
「……一人で、か」
「ああ」
「馬鹿だよな。あいつ」
太一が呟く。だが、その声には怒りも否定もない。
むしろ、それは敬意に似た諦念だった。
「だけど、あいつじゃなきゃ、できない」
矢野がそう言うと、太一は肩を竦めた。
そして、短く笑った。
「わかってる。……わかってるさ。だから俺らが、表から突くんだろ?」
「ああ」
「静が、裏から揺らすなら、俺らは正面でぶち抜く。道理だな」
ふたりの視線が交差した。
ほんの一瞬。
だが、そこには長い旅路のような重みがあった。
誰もが、自分の役割を理解していた。
信長は正面を裂く。
静は、影から背を貫く。
矢野と太一は、その風のなかを突き進む。
※
雨は上がっていた。
だが、地面にはまだ水が滲んでおり、草の匂いと土の匂いが混じっていた。
濡れた足音が、泥を踏むたびに響く。
鳥は飛び去り、虫すら気配を潜める。
戦場は、もうそこまで迫っていた。
「――いいか、矢野」
と、太一がふいに呼びかける。
「ん?」
「俺らも生きて戻るぞ。あいつに、ちゃんと“戻った”って、言わなきゃな」
その言葉に、矢野は一瞬、息を飲んだ。
静の背が、脳裏をよぎる。
斜めの光の中、ただ一人、森に消えていったあの白い影。
振り返ることもなく、声をかけることもなく。
だが、確かにそこに“いた”という痕跡だけを残して――
「……ああ」
矢野は短く答えた。
それが、“祈り”という名の決意だった。
※
静は、そのときもう、森の奥にいた。
誰もいない道を、音もなく駆けていた。
背後に声も音もない。
それでも、彼の耳には風の中に微かな“気配”があった。
誰かが、自分の無事を願っている。
誰かが、戦を終わらせようとしている。
誰かが、“ただの風”であることを許してくれている。
それだけで、走れた。
刃はまだ抜かれていない。
だが、その内にはすでに“裂くべき境界”が芽生えていた。
静の姿は、木々に溶ける。
音は、風に紛れる。
彼がどこにいるのか、誰にもわからない。
だが、それは確かに“そこにいる”という存在の証明だった。
――影は、道を選ばない。
ただ、風とともに、裂け目を走る。




