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名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り  作者: 斎宮 たまき/斎宮 環


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第三章:桶狭間前夜 第二十話「終焉の約束」

 曇天の幕が、空に張られていた。

 夜明けはとうに過ぎたが、山の稜線を照らす光は濁っていて、風も、鳥も、音を失くしていた。空気の底に、ひとすじ、刃のような緊張だけが流れていた。

 野営地のなかでも、その静けさは異様だった。

 いつもなら兵たちの声や馬の鼻息が交じり、草を踏む足音が絶えず響いているはずだった。

 けれどその朝は、誰もが必要以上の言葉を持たなかった。いや、言葉にすれば、なにか大切なものが崩れてしまうような、予感めいたものが、空気に漂っていた。

 焚火は、もう燃えていなかった。

 火の名残のように赤い灰のなかに、まだ微かな温もりが残っている。

 太一はその傍に座り込み、短く削った矢の羽根を撫でていた。

 矢野蓮は、静の横にいた。

 静は横たわってはいなかった。布を巻いた上衣を背に当て、上体を起こしていた。顔色はまだ蒼白で、唇は色を失っていたが、それでも目ははっきりと開いていた。

「風が止みましたね」

 静が、ぽつりと言った。

 矢野は、その声の意味を理解できずにいた。

「……戦の前は、たいてい吹くもんじゃないのか」

「でも、今日は違う。――風が、静かに待っている」

「……何を」

「命が、吹かれるのを」

 静は、少しだけ笑った。

 矢野はその表情に、はじめて“死者の貌”を見た気がした。

 生をあきらめた顔ではない。死を受け入れた者の表情でもない。

 ただ、自分が“人間ではない場所”へ歩いていくのを、静かに肯定する者の――その顔だった。

「戦が終わったら、もう一度……ここで会いましょう」

 その言葉は、唐突だった。

 矢野の喉が、かすかに震えた。

「……本当に、会えるんだよな?」

「矢野さん。僕は――」

 言葉を止めて、静は目を閉じた。

 何かを断ち切るように、言葉を選び直す。

「僕は、戻ってきます」

「静……」

「帰りますよ、矢野さんのもとに」

 静の返答は、あまりにも静かだった。

 その静けさが、矢野のなかの燻りを、何もかも打ち砕いていった。

「それでももし――僕が帰らなかったら、名は残さないでください。僕が、帰ってきたら――その時は、名を捨てさせてくれませんか?」

「……剣を捨てるのか」

「捨てはしません。でも、……そうですね。少し、距離を置いてみるのもいいですね。もう、僕は奪い、奪われすぎました」

 困ったように眉尻を下げる静に、蓮の心は引き裂かれるようだった。

「そんときは……俺がなんとでもしてやる。戸籍も名もなくとも、”人”としての人生を取り戻すことはできるさ」

 矢野は力強く言い切った。

 静はこくりと頷く。

 そして、太一の方を向いた。

「太一さん、弓を……貸していただけませんか」

 太一は黙っていた。

 けれど、すぐにその荷から予備の弓を手に取ると、そっと静の膝に置いた。

「ありがとうございます」

「しかし静、お前さん、弓使いじゃねぇだろう」

「時が来たら……わかります」

 静がそう言ったとき、その声は、少しだけ震えていた。

 だがそれは、恐れではなかった。

 迷いでもなかった。

 “ありがとう”――その言葉のなかに、ほんのわずか、“人間としての名残”があった。

 太一は、何も言わなかった。

 矢野も、それ以上の言葉を持たなかった。

 ただ、その時、風がふたたび、吹いた。

 夜が終わり、戦が始まる前の、ほんの一瞬。

 この世のすべてが静止したような、薄明のなかで――

 静は、立ち上がった。

     ※

 出陣を告げる太鼓の音が、山の斜面を震わせた。

 響きは湿り気を帯びていたが、確かに全軍を貫く緊張をはらんでいた。

「……いくのか」

 矢野の声に、静はうなずいた。

 既に彼の顔に迷いはなかった。

 白装束は草の露を吸ってわずかに重たく、傷を包んだ帯もその動きに同調して沈む。

 太一がひとつ大きく息を吐いた。

「静、お前の後ろには俺が、俺たちがいる。忘れるな」

「……ええ」

 静が小さく笑った。

「頼りにしています」

 矢野は何も言えずに、ただその背中を見ていた。

「太一さん」

「なんだ」

「……あなたの矢を、三本ください」

「三本でいいのか」

「三本あれば、十分です」

「何に使うつもりだ?」

「これも、時がくれば。――“届く場所”がある気がして」

 太一は言葉を失っていた。

 それでも、静かに矢を一本、手渡した。

 静はその羽根を確かめるように指で撫でたあと、静かに弓の懐へとしまった。

「戦が終わったら、ここに帰ってくるんだろう?」

 太一が問うと、静は少しだけ考えて――そして、ゆっくりと首を縦に振った。

 矢野が顔をあげた。

「では、ご武運を」

 静の声は、もう迷いのない響きだった。

 その言葉に矢野は思わず息を呑んだ。

 太一は目を伏せ、拳を握った。

 言葉の余韻が消えるより早く、別の鼓が二度、打たれた。

 それは、進軍の合図だった。

    ※

 見上げた空には、灰色の雲が折り重なっていた。

 朝なのに、夜の終わりと区別がつかないほど光が差し込まない。

 出陣する者たちが次々と駆けていく。

 鎧を鳴らし、槍を携え、言葉少なに道を急ぐ。

 だがそのなかで、白装束の者の姿は、異物のように際立っていた。

 矢野と太一は、その背中を見送っていた。

 静は、振り返らなかった。

「なあ、矢野」

 太一がぽつりと声をかけた。

「お前、“死ぬな”って……言わなくてよかったのか?」

 矢野は何も答えなかった。

 その代わりに、ふいに駆け出した。

 小走りで、静の背に追いつく。

「静!」

 ほんの数歩先で、静は立ち止まった。

「……矢野さん?」

「……死ぬな」

 矢野は、真正面からそう言った。

「――振り返らなくていい。声も返さなくていい。けど、“死ぬな”。俺は、それだけを言いにきた」

 静は、うっすらと微笑んだ。

「“生きろ”って言われるよりも、重いですね」

「お前にとっては、そうだろうな」

 矢野は、そのまま背を向けた。

 彼にとって、それが最後の背中になる予感はあった。

 けれど、“言うべきこと”は、すべて言えたと思えた。

 白い背中を遠くに見送った蓮に、太一が、弓の弦を軽く張り直しながら訊ねた。

「……お前、あいつに何を見たんだ?」

 矢野は、静の遠ざかっていく背を見ながら答えた。

「“人をやめてまで、人であろうとする奴”だ」

「……皮肉だな」

「皮肉だけど、きっと“あいつなりの祈り”なんだ」

 そして、白装束の剣士は森に入った。

 その歩みは、まるで風が止まる前の静けさのようだった。

 誰も、その剣が最初に振るわれる瞬間を、見届けることはできなかった。

 ただ、その存在が、やがて“伝説”になっていくことだけは、

 この日、風が知っていた。

     ※

 尾根を越える。

 それだけの行為が、これほど遠く感じたのは、いつ以来だっただろう。

 静の脚は、痛みを忘れていた。

 いや、痛みがあることを忘れてしまうほど、周囲の気配が“死”に近づいていたのかもしれない。

 戦の前の、異様な静けさ。

 空気はわずかに濡れている。

 けれど、風は止んだままだった。

 葉は揺れず、鳥の声もない。

 湿った土を踏む音だけが、静かに響いた。

 それはまるで、死者が歩いている音のようだった。

 ――自分は、“あちら側”に渡る。

 静は、その事実を誰よりも早く自覚していた。

 矢野にも、太一にも言わなかったが、自分の中で確かに“終わる音”が聞こえていた。

 脇腹の傷が、少しずつ広がっているのが分かる。

 熱も、引いてはいない。

 けれど、思考は冴えていた。

 手は震えず、視界は澄んでいた。

「――まだ、生きている」

 ぽつりと呟いたその声は、森の奥に吸い込まれていった。

 そのとき、背後から風がひとすじ、追いついてくる。

 森の端を越えた先、斜面が急に開けていた。

 遠くには、敵の陣の気配がある。

 何本もののぼりが、雨に濡れ、灰色の空の下でかすかに揺れていた。

 あの場所まで、あとどれほどの距離があるだろうか。

 戦の本陣には、きっと届かない。

 それでも、自分の剣が“名もなき一閃”として、戦の流れのどこかに混じっていけば、それでいい。

 ――それで、いい。

 静は、一歩踏み出した。

 白装束が風に揺れる。

 そこに、声が届いた。

「死ぬな!!」

 矢野の声だった。

 届くはずがない。気のせいだろう。

 静は振り返らなかった。

 ただ、歩を止めることもなく、声を背に受けたまま、歩き続けた。

 彼は知っていた。

 “振り返らない”ということが、どれほど大きな意味を持つかを。

 それが、“この世界から去る”ということの合図になると知っていた。

 だからこそ、振り返らなかった。

 矢野がどんな顔でいるのかも、知らないままでいることを選んだ。

 ただ、心の中で小さく言った。

 ――ありがとう。

     ※

 道なき山道を抜け、静はひとり、戦場の裏側にたどり着いた。

 足場は悪く、地面はぬかるみ、靴の底から水が染みてくる。

 だが、不思議と足音は響かなかった。

 どこかから、鬨の声が上がった。

 戦が始まった。

 矢野や太一がいる隊も、すでに動き出しているはずだった。

 静は、目を閉じる。

 この身体でどこまで動けるかは、分からない。

 斬れるのは、あと五人か。

 それとも、三人か。

 いや――ひとり、かもしれない。

 それでも、進む。

 この剣が守ろうとしているのは、誰かの“名”ではない。

 命でもない。

 ましてや正義でも、勝利でもない。

 ただ、“人間でありたい”という祈りだけだ。

 その祈りが、たとえ誰にも届かず、記録にも残らず、褒められることも、顕彰されることもなくとも。

 ――「僕が帰ってこなかったら、名は残さないでください。僕が帰ってきたら、その時は――名を捨てさせてください」

 その言葉を、もう一度心の中で繰り返す。

 それが、静の“終焉の約束”だった。

 剣を、抜いた。

 空は、まだ曇天。

 けれど、その刃は、どこまでも白く、静かに、まっすぐだった。

 その瞬間――

 風が、動いた。

 戦場を駆け抜ける、最初の一閃として。

 そして誰よりも早く、誰にも気づかれず、“伝説”となるために。

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