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第一章 :風の前触れ 第一話「名もなき剣、影より来たる」

 雨が降っていた。

 小雨といえば聞こえは穏やかだが、実際には空を覆う鉛色の雲が、粘つくような水を絶え間なく落とし続けていた。合羽の上からでも皮膚がじっとりと湿るほどの雨。甲冑をつけた兵士たちは、鉄と布が重くなるごとに口数を減らし、誰もが“その時”が近いことを肌で感じ取っていた。

 永禄三年、五月。尾張の空は、戦の匂いを孕んでいた。

 雨の中、ただ一人、傘もささずに歩いてくる者がいた。

 白い。

 異様なほど白い装束。血と泥にまみれることを恐れぬような、その潔癖とも言える布は、雨を吸い込んで、身体の輪郭にぴたりと張り付いている。髪を一つ束ね、首筋には何の飾りもなく、腰には白鞘の長巻が一本だけ。面頬はしておらず、顔も隠してはいないのに、不思議と誰もその目を見ることができなかった。

 彼は何も語らず、何も問わず、ただ織田軍の陣に入り、指揮官にひとことだけ告げた。

「配属は、風走組と聞いています」

 それが、白装束の剣士・沖田静の最初の言葉だった。

    ※

「……あれが、新しく入ったっていう兵か?」

「いやいや、あんなの、兵っていうより……なんだろうな、“剣”って感じだろ」

「人間じゃねえよな。顔に表情がねえ。生きてんのか、あれ」

「斬ることだけが目的みてえな目してやがった」

 風走組は、織田信長の直轄部隊である。数は少ないが、戦ごとにその名を高めている精鋭の集まりだ。武勲があれば褒賞も厚いが、命の値も軽い。任務の多くが危険であり、実質的には“先に死ぬための兵”とすら言われている。

 その中でも異質だったのが、今朝方突如として送り込まれてきた“白い剣士”だった。

 名を訊かれても、「静」とだけ答えた。

 姓も家も過去も語らない。

 武芸を見せろと命じられれば、無表情で木刀を取り、師範格を二人沈めた。

 そのすべてが、無駄なく、静かだった。

「お前、どこの出だ」と訊かれても、「遠くから来ました」とだけ答えた。

 笑いもしない。怒りもしない。

 刀を持つことに、特別な感情を抱いている様子もない。

 まるで“斬る”という行為を、日々の呼吸と同じくして受け入れている――そんな空気をまとう男だった。

 その夜、静は風走組の中でひときわ離れた位置に寝床を作っていた。雨はなおも続いていたが、彼の周囲にはなぜか誰も近づかなかった。彼自身が距離を取ったわけではない。ただ、誰も彼に寄り添うことができなかったのだ。

 同じ風走組の若手兵、矢野蓮は、遠くからその様子を見ていた。

(人が人に見えない瞬間があるんだな)

 そう思った。

 静の背中は、あまりに無音だった。

 声も、気配も、まるで“ただの影”のようだった。

 だがその視線が一度だけ、矢野の方を向いた。

 雨の帳の向こう、静は矢野と目が合った。

 ただそれだけで、矢野は胸の奥を何かで射抜かれたような感覚を覚えた。

(この男――人を斬るとき、何を想ってる?)

 矢野にはわかった。

 あの瞳は、斬ることに快楽を覚える者のものではない。

 怒りや悲しみ、憎しみや使命感――そういったものでもない。

 そこには、ただ、溶けきらない“哀しみ”の影があった。

 ――なぜ、お前は、斬るんだ。

 問いが喉元まで出かかったが、矢野は口を閉じた。

 この男には、簡単な言葉では何も届かない気がした。

    ※

 風走組の陣営は、他の兵たちからも一段隔てられていた。斥候、奇襲、暗殺、隠密、夜襲――正攻法では語れぬ仕事を請け負う彼らの任務は、表立って賞賛されることはなかった。だが彼らが動かなければ、戦は勝てない。

 そんな矛盾の中で、皆が黙って剣を研ぎ、酒を飲み、死者を悼んだ。

「なあ、矢野。あの“静”ってやつ、あんたの隣に寝てるらしいな」

 酒を回しながら、ひとりの兵が笑う。

「気まずくねえの? 何しゃべっても返ってこなさそうだしさ」

「話しかけてねえよ」

 矢野は答える。

「……でもな、目だけは、こっち見てくるんだよ。じっと。……あれは、人間の目だ」

「目? あんな無表情な奴に、目なんてあったか?」

「ある。……目だけが、逆に正直だった」

 兵たちは顔を見合わせ、酒を煽りながら口々に言う。

「ま、どこぞの斬り上手なんだろうさ。どうせ使い捨て」

「そいつが死ぬ時は、敵味方関係なく誰か巻き添えだな」

「死なねえかもよ? あいつ、生きてるって感覚なさそうだったもん」

 それは、褒め言葉ではなかった。だが、軽んじた評価でもなかった。

 静は、“死ぬことを恐れない者”として、ではなく、“生きていると実感しない者”として、そこにいた。

 そしてそれこそが、戦場で最も恐ろしい種類の兵であることを、矢野はうっすらと知っていた。

    ※

 翌朝、雨は止んでいた。

 空は灰色の雲が流れ、太陽の気配は感じられない。それでも地面はぬかるみ、兵たちの足音が鈍く響いていた。風走組に、緊急の出撃命令が下る。

 敵斥候が山道に潜伏し、補給路を狙っているという。信長本隊の動きに連動するため、先にそれを潰しておく必要があった。

 斥候、掃討、制圧――静が初めて実戦に出る場面であった。

「静」

 指揮を執る中隊長が、手にしていた木簡を見ずに言った。

「後衛の支援ではなく、前衛に出ろ。道を拓け」

 静は何の表情もなくうなずいた。

「承知しました」

「死ぬなよ」

「……できる限りは」

 そう言って、静は風走組の最前に立った。


 山道は細く、足元はぬかるみ、草木が繁って視界が利かない。だが静の動きに迷いはなかった。足音はほとんど立たず、風のように先へ進んでいく。

 そして――それは突然だった。

 静が足を止めた一瞬後、矢野の耳に聞こえたのは、鋭く切り裂かれる“音”だった。敵の斥候が草陰から斬りかかってきたのだ。咄嗟に反応できる者はおらず、叫び声が上がる前に、二つの肉が地に落ちた。

 静が斬ったのだ。

 それは、殺意も怒気も感じさせぬ一太刀だった。

 まるで儀式のように、無駄なく、迷いなく。

 そして――あまりにも“静か”だった。

「敵、三……いや、四。左の尾根、回り込まれてる」

 静の言葉に反応して矢野たちが身を翻す。その言葉通り、別方向からも敵が現れた。だが既に静が一歩踏み出していた。風走組の兵たちが構え直すよりも早く、静は敵陣に突入する。

 その姿は、“兵”ではなかった。

 “剣”そのものだった。

 矢野が一歩踏み出そうとした時、敵の叫び声が聞こえた。

 次いで、短く切れた音――肉が斬られ、骨が砕け、命が断たれる音だった。

 気づけば、そこには敵の姿はなかった。

 ただ、白装束に血を浴びた男が、まっすぐに立っていた。

    ※

 戦闘が終わった後、静は刀を拭うこともなく、じっと地面を見つめていた。

「静、お前……」

 矢野が声をかけようとした瞬間、静はゆっくりと顔を上げた。

 その目には、やはり何の光もなかった。

 ただ――ひとつだけ、矢野にはそれが“自分自身を責める目”に見えた。

「……命令でしたから」

 そう言って静は刀を鞘に納める。その仕草は、美しさすら感じさせるほど滑らかだった。

「そうじゃねえよ。……お前、本当にそれだけか?」

 問いは、答えを得る前に、風にさらわれた。

    ※

 夜。雨の再来を告げるような湿った風が吹いていた。

 矢野は焚火の前に座り、薪をつつきながらひとり考えていた。

 静――あの男が何者であるか、まだ何も知らない。

 だが確信だけはある。

 あの男は、“生きるために斬っている”。

 斬ることで生きているのではなく、

 斬るという行為だけが、“自分が生きている”という実感を与えている。

 その剣筋の中に、誰にも言えない孤独があった。

 ――名も、家も、過去も、語らない。

 ――だが、“誰かを殺した剣”であることだけは、否定しない。

(あいつは、自分を“剣”としてしか見ていないのか)

 矢野はふと、自分の足元に投げ捨てられた草鞋を見た。

 泥にまみれたそれは、戦で歩くたびに傷つき、すり減っていく。

(……あいつは、ああいうふうに、自分を消耗してるんだ)

 その夜、矢野は静の名を、心の中で呼んだ。

「静」

 焚火の向こう、ひとり背を向けて座る白装束の男が、わずかに肩を揺らす。

「お前は、ほんとうに……それでいいのか」

 返事はなかった。

 だがその沈黙は、否定でも肯定でもなかった。

 ただ、風のように通り過ぎる一つの呼吸。

 雨が、再び、降り始めた。

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