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名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り  作者: 妙原奇天


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第二章:疾る影、迫る戦 第十一話「白装束の幻影」

 夜が、長い。

 戦が近づくにつれ、兵たちは眠りを浅くする。焚き火の灯りを囲み、交わされるのは食糧の節約と傷の手当てばかり。だが、今宵はそれすらもない。耳に届くのは、遠くで鳴く獣の声、梟の羽ばたき、そして――誰かが小さく呻くような声。

「……またか」

 太一がぼそりと呟いた。

 矢野蓮は顔を上げる。太一の視線の先に、若い兵がひとり、青ざめた顔で地図を睨んでいた。顎を震わせ、唇を噛みしめている。

「今夜も誰か、消えたんだとよ」

 太一は湿った声で言った。焚き火の影で語られるのは、ここ数日の“異変”だった。

 夜中、見回りに出た兵が戻らない。

 気配も、足音も、叫び声もない。

 ただ――朝になると、斬られた兵の亡骸だけが残されていた。

 首の切り口は正確で、争った形跡はなかったという。あまりに静かで、血の跡すら地に吸われ、まるで“剣”だけが歩いたような痕跡。

「やめとけ」

 矢野が抑えるように言ったが、太一は首を横に振った。

「違う。俺が言ってるんじゃない。今川の奴らの間で広まってんだ。“白装束の鬼”が出るって」

 白装束。

 それは――静を指す。

 風走組において、白装束を纏う兵はただひとり。夜目に溶け、血に染まりやすい白は、戦場においては自殺行為に等しい。だが静は初陣からずっと、あの“白”で戦場に立っている。

「まさか、あいつが……?」

「――命令だ」

 太一の疑問を打ち消すように、矢野が短く言い切った。

「静は、命じられて動いている。夜襲の任は、あいつにしかできない。だから……」

 だが言葉は、焚き火の音に呑まれた。

 “できるから”命じられ、“できるから”戦う。

 その先に、“人”としての線引きは、あるのか?

 誰かの命令で、夜ごと人を斬り続ける者。

 名前も、過去も、声すら誰にも渡さない者。

 そしてその者が、敵にも“鬼”と噂されるようになったとき――

 果たしてその影は、“人”のままでいられるのだろうか。

     ※

 風が、止んでいた。

 夏の夜には珍しく、空は曇天に覆われ、月も星も隠れている。湿った空気のなか、草木のざわめきさえも消えたような、異様な静けさ。

 その沈黙のなかを、ひとつの影が進んでいく。

 白装束の剣士――沖田静である。

 足音はない。

 それは、音を消しているのではなく、“音を生まずに”進んでいるのだ。

 夜襲の命が下ったのは、夕暮れ直後だった。斥候の報せによれば、今川方の補給路に穴がある。敵兵は疲労しており、夜間は見張りも疎かになるという。信長軍にとっては数少ない“隙”だった。

 だが、そこを斬り込める者は限られている。

 夜目に慣れ、音を断ち、心を殺せる者。

 ――沖田しかいない。

 静は何も言わなかった。命令を受け取ったときも、ただ「分かりました」とだけ返し、ひとり身支度を整えた。

 腰の白鞘を手に、上衣を羽織り直す。

 焚き火の傍を通り過ぎるとき、何人かが彼を見送った。

 太一が「静」と呼ぼうとしたが、声は喉で詰まった。

 矢野だけが、何も言わず、その背を見ていた。

 白装束は、闇のなかで逆に目立つ。けれど、それは“敵”にとっての話だ。

 “味方”である我々にとっては――

 あの白は、見つけられない。

 気づいたときには、もう目の前で、敵の命を絶っている。

 それが、彼という存在だった。

      ※

 敵陣の輪郭が、草陰の向こうにぼんやりと浮かぶ。

 松明の光がゆらめき、見張りがうたた寝しているのがわかる。

 静は、息を吸い――

 吐かないまま、動いた。

 ひとり目の兵士に近づくまで、十秒。

 刀を抜く音さえなく、白刃が喉元を横切る。

 ぐ、という声を呑み込み、兵士は崩れる。

 ふたり目が気づいたときには、すでに刃が腹を穿っていた。

 三人目は逃げようとしたが、踏み出す前に足を斬られ、そのまま静かに絶命した。

 殺すのが目的ではない。

 “気づかれずに”動くこと。

 敵陣の“中”に潜り、“構造”を掴み、“混乱”を引き起こす。

 それが、今夜の任務だった。

 静は、剣を下げたまま、帳のような夜に溶け込んでいく。

 彼の目は、殺気ではなく、静寂を湛えていた。

 命を奪うのではない。

 命を、風のように消していく。

 その足取りは、まるで――“幻”。

     ※

 夜が明けた。

 だが、静は戻らなかった。

 そのことに最初に気づいたのは、矢野蓮だった。

 風走組の本陣が小さな山腹に張られてから三度目の夜明け。霧が濃く、太陽の輪郭もぼやけている。朝の点呼が行われる中、矢野は名を呼ばれても応えず、視線をただ、隊列の後方――白装束がいつも現れる、あの通り道の方に向けたままだった。

「……矢野」

 太一が声をかけると、矢野はようやく顔を向ける。

「戻ってないんだな」

 その言葉は、事実の確認というよりも、問いの形をした“否定”だった。

 戻っていない。だが、戻らないとは限らない。

 それが矢野の中にある、唯一の希望だった。

 捕虜のひとりが、こんな証言をしたという。

「夜の見回りに出ていた兵が戻らん。翌朝、白い何かを見たと、斬られた者がうわ言で言っていた」

「姿が見えぬのに、血だけが残った。まるで……狐火のようだった」

 それを耳にした者たちは、誰からともなく「白い鬼がいる」と言い出した。

 誰にも気づかれず、風に乗って現れ、殺して去る。

 名もなく、痕跡もなく。

 ただ、斬られた者の傍にだけ、細く白い布が落ちているのだという。

 軍議の場では、冷静さを保つ上官たちでさえ、目を伏せてその話を聞いた。

 “白装束”――静の服装そのものだ。

 だが、名前を呼ぶ者はいなかった。

 誰もが、信じたかった。

 この“影”が、味方の剣士ではないことを。

「静がやったという証拠は、ない」

 矢野は低く言った。

 太一も、それに応えるようにうなずいた。

「でも、やったとしたら……全部、独りでか」

「そうだろうな」

 矢野の声には怒りも嘲りもなかった。ただ、どうしようもない重さだけがあった。

「だから戻らない。そう思ってんのか?」

「……いや、あいつは帰ってくる」

 矢野は答えた。

 それは祈りではなかった。確信でもなかった。

 ただ――“そうであってくれ”という、戦場において最も無力な言葉。

 静を最後に見たのは、三日前の夜だった。

 火のそばで、剣の手入れをしながら、

「夜の風は、東から吹きますね」と呟いた。

 それきりだった。

 何も言わず、何も残さず。

 だからこそ、矢野は信じていた。

 “何かを残していない以上、奴はまだ終わっていない”と。

 静は、終わりを選べる者ではない。

 ――まだ、生きている。

     ※

 静が帰ってきたのは、霧雨の午後だった。

 風走組の本陣が警備の薄い丘陵地に移されたその日のこと。湿った空気が肌にまとわりつき、誰もが無言のまま昼餉を啜っていた。気づいた者から、ぽつぽつと立ち上がる。木々のあいだから、ゆっくりと現れたその影を、誰もが目を凝らして見つめた。

 白装束。

 だが、今はその白が、泥と血と煤でくすんでいた。

 袖は裂け、片方の肩からは衣が剥がれかけている。

 歩みはゆっくりだった。だが、よろめくことはなかった。

 その右手に握られていたのは――佩刀。見慣れぬ、今川方のものと思われる黒塗りの柄の太刀だった。

 静は、まっすぐ軍営の中央まで来ると、その場に立ち尽くし、やがて佩刀を地に置いた。

「戻りました」

 それだけを言った。

 誰も動けなかった。誰も、声をかけなかった。

 矢野が最初に駆け寄ろうとしたが、その肩を太一が掴んだ。

「待て。……あれ、何かが違う」

 その言葉には、明確な根拠はなかった。ただ、感じたのだ。

 静から、何かが剥がれ落ちたのではなく、逆に“何かが纏いついている”ことを。

 矢野がそっと声をかける。

「……おかえり」

 静はゆっくりと振り向く。その目に、怒りも、痛みも、疲れさえもなかった。

 ただ、底の見えない“静”があった。

「皆、無事でした」

 そう言ったその声は、まるで、誰かの代弁のように――温度を欠いていた。

 太一が静かに問う。

「……敵の将か?」

 静はうなずいた。

「名は、分かりません。名乗る前に、斬りましたので」

「佩刀は?」

「拾いました。これを、持っていてほしいと思ったんでしょうね、きっと」

 その言葉に、何人かが息を呑んだ。

 それは、戦場で時折起こる“気配の交錯”――刃を交わすその刹那にだけ理解しあう、得体の知れぬ通い――そうしたものが、確かにあったことを示していた。

 静は佩刀を地に置いたまま、振り返ることなく、自分の野営の一角へと戻っていった。

 その背に、血ではない、何か別の“色”がこびりついているような気がして、矢野は目を逸らすことができなかった。

     ※

 焚火が、ぱちりと音を立てた。

 闇夜に灯るひとつきりの火は、まるで吐息のように細く揺れて、風の音にかき消されそうになっていた。張られた陣幕の内側では、矢野蓮がひとり、膝を抱えるように座っている。静の帰還から二日が経った。だが、その口からは何一つ語られぬまま、夜だけが過ぎていった。

 矢野は視線を落としたまま、無言で草の葉をいじっている。

 白装束は血と泥にまみれていた。手にしていた佩刀は、名のある武士のものだった。だが静は、それが誰のものかも言わず、「影でした」としか口にしなかった。

 まるで、自分が影であることを証明するために。

「――静、お前は……」

 呟いた声は、誰にも届かない。それでも、焚火の揺らぎが、どこかで返事をくれたような錯覚に囚われる。

     ※

「矢野さん。まだ眠ってないんですか」

 その声が、闇の奥から聞こえたのは、焚火が消えかける頃だった。

 ひどく静かな、風のような声音だった。振り返れば、そこにいたのは、白装束の剣士――沖田静だった。

「……お前こそ、いつ戻ったんだ」

「今さっきです。夜の見回りに行ってました」

「……命令か?」

「いいえ。僕の勝手です」

 静は焚火の反対側に腰を下ろした。その顔に疲労の色はない。むしろ、普段よりも冴え冴えとしていた。

 矢野は少しだけ間を置いて、言った。

「……お前、戻ってきてから、何も話してない」

「話すこと、ありますか?」

「あるだろ」

 焚火が、またぱちりと弾けた。

「お前が何を見たのか、どうして帰ってこなかったのか。――三日も。俺たちはずっと、何も知らされていない」

 沈黙。

 だが、静は俯いたまま、口を開いた。

「矢野さん」

「なんだ」

「“帰ってくる”って、どういうことだと思いますか」

「……何を言ってる」

「命があること? 体が無事なこと? あるいは、“ここにいていい”と、思えること?」

 言葉に、苦みが混ざっていた。だが、矢野はすぐには応じなかった。

 静は小さく笑った。だが、それは嘲る笑みではなかった。

「僕には……もう、帰る場所が分からないんです」

     ※

 火が静かに、燃え尽きかけていた。

 矢野は唇を引き結んだ。風の音だけが、二人の間に流れる。

「……戦場にしか、いられないってことか」

 「戦場なら、誰も何も聞いてこない。斬ればいい。ただ、それだけです」

「それで……いいのか」

「分かりません。でも……」

 静は、自分の掌をじっと見つめた。

「ここに、人の声が残るんです。斬った後に。耳じゃなくて、皮膚の下に。それが……怖くて」

 矢野は小さく息をのんだ。

「なのに、また斬りに行くのか」

「はい」

 それは、迷いのない返答だった。

「矢野さんは、怖くないですか」

「何がだ」

「誰かの声を背負って、生き続けることが」

 焚火がふ、と消えた。

 闇が濃くなった。その中で、矢野は初めて、自分の指先が震えていることに気づいた。

 この問いは、ほかならぬ、矢野自信が静に答えを求め続けているものだった。

「……怖いよ。怖いに決まってる」

「なら、どうして剣を捨てないんですか」

「捨てたら、何も残らないからだ」

「“何も残らない”?」

「お前が……そう言ってた。誰かのために生きてるわけじゃないって。でもな、それでも俺は、お前が生きててほしい。剣を持っていてほしい。それが、“俺が戦う意味”になるんだ」

 静は、一瞬だけ目を見開いた。だがすぐに、視線を伏せた。

「……それは、困ります」

「また、それか」

 矢野は苦笑した。

「でもな、困るって言われても、もう俺は知ってしまった。お前が誰よりも、命を背負って斬ってるってことを」

     ※

 その夜、静はしばらく黙っていた。

 闇の中で、風が通る音が聞こえる。

 遠くで、誰かが剣の鍔を打ち合わせる音がした。夜襲かもしれない。あるいは、ただの訓練の音。

「矢野さん」

「なんだ」

「……僕は、何者なんでしょうね」

「今さらそんなこと、考えてるのか」

「はい」

「じゃあ、教えてやるよ」

 矢野は立ち上がった。夜の空は、かすかに星を滲ませていた。

「お前は、“俺が忘れない剣”だ。忘れようとも忘れられない。それで、いいだろ」

 静は返事をしなかった。

 けれど、その瞳の奥で、確かに一筋の何かが動いたのを、矢野は見逃さなかった。

 その夜、風は静かだった。

 そして翌朝。静の姿は、また軍営から消えていた。


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