第二章:疾る影、迫る戦 第十話「風を読む者」
風が止んだのは、朝の五つ刻を少し過ぎた頃だった。
それまで幾夜も続いていた湿った風は、まるで川の水が干上がるように、音もなく静かに消えていた。幕舎の外では、誰かが焚き火の残り火をかき混ぜる音がする。灰が宙に舞い、細くなった煙が、もう流れる先を失ったかのように漂っている。
その煙を見つめながら、静は膝を抱えていた。
湿った空気が消えるのと入れ替わるように、地図の上で敵の軍勢が動き出していた。今川義元の主力部隊が動いたという報が届いたのは、その朝のことである。尾張の東方、沓掛城の西にあたる村落がいくつか略奪を受け、田畑が踏み荒らされている。村人の証言によれば、「数千規模の部隊が、山陰を抜けて進軍していた」とのことだった。
「やはり、朝比奈の部隊か……」
誰かが軍議の場で呟いた。だがその声には確証も、自信もなかった。何より、敵の動きが早すぎる。
「けれど、それでは桶狭間に誘い込むのは難しい」
若手の斥候が言った。進軍経路が想定と違えば、織田方の陣形は無意味になる。奇襲を仕掛ける予定の山道が封じられれば、信長本隊の作戦そのものが崩れる。誰もが地図を睨みつけながら、言葉を失っていた。
「風を読む者が必要だな」
不意に口にしたのは、風走組の副将だった。
その言葉に反応するように、静が目を上げた。
静が視線を上げたとき、彼の眼差しはまるで霧のようだった。色も形も持たず、ただ世界の「隙間」を見るようなまなざし。だがその一瞥は、地図の上に広がる地形の歪みを、誰よりも正確に捉えていた。
「ここです」
静は、一本の山道を指でなぞった。誰もが見逃していた、あるいは重要ではないと判断した細い山間の道だった。
「雨のあとのこの道は崩れる。ですが、夜間に使えば、五百人規模の部隊が潜り抜けられるでしょう」
「おい、待て。それは味方の奇襲路だ」
「ええ、ですから――敵がそれを使うのでは、と」
一瞬、空気が凍った。
地図の上で指を滑らせる静の指先は、ほとんど感情を持たず、しかし不気味なまでに正確だった。誰もがその道の存在を知っていたが、「まさか敵がそこを通るはずがない」と思っていた。
だが、静の口から「通る」と断言されたとき、地図の中で風が動いたような錯覚を、矢野蓮は覚えた。
「……どうして、そう思う?」
矢野が問うと、静はわずかに間を置いたのち、答えた。
「風が、止んだからです」
「風が……?」
「風があるときは、音が立つ。足音も、甲冑の擦れも、鳥の飛び立つ音も。けれど今朝、風が止みました。だから、音も、気配も、逆に立ちやすい。夜のうちに動こうとする者は、風が止むのを待っていたということです」
その理屈に、誰かが小さく笑った。
「また、あの白装束の勘か」
だが矢野は違った。
その言葉の一つひとつに、ぞっとするような直感を覚えていた。
静の「勘」は、これまで幾度も、死地の入り口を示し、そしてわずかに生き延びる道を照らしてきた。
蓮は小さく息を呑み、軍議の中心に向き直った。
「信じてください。静の読みは、戦場で一度も外れていません」
それは、矢野蓮にとって“保証”ではなく“誓い”に近かった。
その言葉に、しばらくの沈黙が続いた。やがて副将が静を見て言った。
「……では、敵がその山道を使うと仮定しよう。お前は、それをどう活かす?」
静は、視線を落とさないまま、答えた。
「“待つ”のです。あの道の先で、夜が明けるまで。風が戻るまで」
その言葉は、まるで呪文のようだった。
※
軍議の場が終わったあと、矢野は静を追って、軍営の端にある火の消えた焚火跡へと足を運んだ。松明の灯りの届かぬ場所で、静はひとり、腰を下ろしていた。地面に突き立てた刀の鞘を、指先で擦るようにしている。
「風が止むと、全部聞こえるんです」
矢野が何も言わないうちに、静はそう呟いた。背を向けたまま。
「歩く音、息をする音、胸の奥が軋む音。――生きている音です」
焚火の灰がかすかに風に舞う。ほんのわずか、夜の湿気に揺らされて。
静は顔を上げない。けれどその声には、いつものような虚無の響きはなかった。
静の声が闇に消えたあと、矢野は何も言わなかった。ただ、そこに座っている静の肩の線と、そのすぐ隣に立つ自分の影だけを、じっと見ていた。
言葉ではなく、呼吸の感覚だけが二人を繋いでいた。
その夜、風走組に再び命が下る。
敵の動きを予測し、可能な奇襲経路を確認せよ。
静の示した“風の通り道”は、まだ確証が得られていなかった。だが、その直感に賭けるように、矢野は軍議で押し通した。その責任を引き受ける形で、風走組の先遣隊が夜明け前に出発することとなる。
霧の残る夜明けの刻、隊の一行は山腹に点在する獣道を進んでいた。太一は苦笑しながら矢野に問う。
「おい、ほんとにこんなところ通ると思ってんのか? 敵がさ」
「静が言ってた。“風は、迷わない”って」
「……お前、あの静にずいぶんと信頼寄せてんのな」
その言葉に、矢野は答えなかった。ただ、険しい勾配を越えた先――見晴らしの利く尾根筋に出たとき、太一が言った。
「……来てるな」
山の向こう、かすかな地響きと、馬の嘶き。
敵の部隊が、静の予見した“細道”を移動しているのが見えた。矢野は息を呑み、そして静を見た。彼は何も言わずに頷いた。風は、正しかった。
急報は本陣へ送られ、信長軍は即座に部隊を再配置し、狭間道での布陣を整える。静が示した地形のくびれが“首”となり、敵を縊るための罠と化す。
日が傾く頃には、織田方の幾人かが「風の白鬼」と囁きはじめていた。
あの男がいなければ、首の皮一枚でこの戦は潰えていた、と。
その夜、軍営の片隅で、静は風に背を向けるように座っていた。背後に立った矢野に気づいても、彼は振り向かなかった。
「やっぱり……お前には、何かが見えてるんだな」
矢野がそう言うと、静は静かに笑った。
「見えているんじゃありません。見ようとしてるだけです」
「何を?」
「“死なない道”を」
矢野は、ゆっくりと座る。焚火の代わりに、星が瞬いていた。
「それが全部だとしたら……少し、寂しいな」
「そうですか?」
「お前はさ、誰かのために剣を抜いたことは、あるか?」
少しの沈黙。
静は、月を見上げた。
「――昔、あったかもしれません。でも、それが誰のことだったか……もう、思い出せません」
風が、夜を渡った。
ふたりの間にある沈黙は、哀しみではなかった。だが、癒えることのない何かが、そこにあった。




