第35話
学生達の練習が終わる頃に雨が降り出した。
数名のプロは既に練習を開始し、生徒達は既に引き上げている。
屋外照明が照らす練習場の中、メドハギはようやく帰って来た。
クリスは眉を上げて聞く。
「ユオ君をほったらかしてどこに行っていた? サボりではないことは分かっているが……」
朝出ていったメドハギはジャケットを着て、ネクタイを締めていた。表情に明らかな疲れを滲ませている。
「生徒達の親に会ってきた」
「なるほど、そういうことか」
「何人かは仕事中で会うことはできなかったから、また時間を見て会いに行く」
「反応はどうだった」
「意外と悪くなかった、と思いたい」
メドハギは生徒のリストを手に、彼らの保護者達へ謝罪しに行ったのだ。
騒がせてしまったことを謝罪し、子供の安全を守り、不安を与えないと約束してきた。
これが悪童にできるせめてもの仕事。責任の取り方だった。
「謝罪しに行くのにサングラスかけっぱなしってのは少し奇妙だが、目の病気ってことで勘弁してもらった」
「いつもの手だな」
会長が手を回して、メディアの動きが沈静化したとしても、保護者達には不安が残る。
「あんな奴が指導してウチの子は大丈夫なのか」と。
メドハギ本人が説明に向かうことで、その問題を解決しようとしたのだ。
もっとも、彼らがどう受け止めたのかは、メドハギには分からない。理解してくれたかもしれないし、不信感を募らせただけかもしれない。
結果はいずれ分かることだ。
クラブを辞めさせる決断をしないことを祈るしかない。
「ユオはどうした」
「気合十分といったところだ」
「はは……強いな」
ユオの本番まであと8日。
本来ならばトレーナーが付きっきりで指導する仕上げの時期、「勝たせる」と約束した手前、そばにいてやれないことが申し訳なかった。
「貴様が用意したメニューを必死にこなしていたぞ、見ているこっちが止めたくなるほどにな」
「そうか」
「彼女のトレーナーは貴様だから余計なことかもしれんが……その、大丈夫なのか? あれはハリントン先生の合宿メニューだろう? 聞くところによるとハリントン先生本人ですら『今の時代に合っていない」と取り止めにしたそうだぞ」
「短期間で少しでも成長させなきゃならない、俺は他の方法を知らん」
「帰りの送迎バスに乗るやいなや気絶するように眠ったらしい。あまり追い込み過ぎるなよ?」
「やり遂げた先の景色を見れば、自信に繋がるはずだ」
メドハギは苦い顔をして呟いた。
「メドハギさん! クリスさん! レース協会から連絡ですっ!」
その時、女性スタッフがパンプスを鳴らして小走りでやって来る。
やけに深刻な表情をしていて、メドハギは嫌な予感がした。
女性スタッフが一枚の用紙を渡してくる。
「出場表……?」
「はい、1名が出場を辞退しました、怪我をしたようですが」
ユオが出る予定のレースだった。8名の名前の一つに訂正の斜線が入れられている。
「補欠登録者を見てください」
何らかの事情でレースに出場できない選手が出た時の為に、レースは補欠登録者を用意する。空いた枠をその選手で埋めるのである。
「ここまでするかよ……」
補欠登録者にはある者の名が記されていた。
アイリーン・シャーガー。
「悪い、クリス、明日も任せることになりそうだ」
メドハギは紙をぐしゃぐしゃに握りつぶした。
×××
ユオの公式レースまであと7日。
週末とあって学校が休みの生徒が多く、この日は朝から多くの生徒が練習にやって来ていた。
昨日から続く黒い雲が空を覆う。
「ハギさん、今日もいないね」
「そうですね」
エイダの隣を走るユオが短く答えた。
生徒達がランニングする様子を見ているのはクリス一人だった。サングラスの男はどこにもいない。
(関係ない、私は私のやるべきことをやるだけ)
勝つことだけが目標だ、とユオは自分に言い聞かせて走る。
ランニングを終えて、それぞれがマントを装着し始めた頃、ユオの元にクリスがやって来た。
「ハギは、多分来れても夕方だ……明日はクラブ自体が休みだし、夕方から練習に参加しても良いぞ?」
「いえ、大丈夫です。ハギさんがいなくても私はやります。それに私が夜までトレーニングし続ければ良いだけです」
「大丈夫かい? 君の練習量は正直、無謀とも呼べる量だ。一流のプロでも音を上げるくらいなんだよ?」
「平気です」
ユオは低い声で答えた。
「それと……昨日、君が出るレースの出場者に変更があった、確認してくれ」
クリスが手渡したやけに皺の寄った紙を見て、ユオは目を見開く。
「シャーガーさん……」
名前を呼ばれたものだと勘違いしたエイダが後ろから顔を出す。
「も~、エイダで良いって言ったじゃん! ん……なんか雰囲気違うねこれ、ごめん……ってあれ⁉ お姉ちゃんだ、お姉ちゃんの名前がある!」
「これ、どういうことですか、どうして女子学生リーグのトップランカーが一般レースに登録されているんですか⁉」
人目もはばからず、ユオが叫ぶ。
「元々、タイトルレースに向けた調整の為に一般レースに出るつもりだったようだ、今朝、ハリントン先生に確認したから間違いない」
「でも、だからって……どうして私が出るレースに……」
「……偶然としか言えない……」
嘘だ、とユオは心の中で言った。
協会が作為的に操作しているに違いなかった。
ユオは外部クラブに一時預かり状態であるとはいえ、シドールの生徒である。同じ学校から同一レースに出る例は極端に少ない。タイトルがかかった大きなレースでもないのに、同じ学校から2人も同じレースに登録されるのは不自然だ。
「協会は、私たちが勝つのを嫌がっているみたいですね」
「俺からは何とも言えん……」
「補欠登録者だって抽選のはずです! こんなこと、わざとでないなら何だって言うんです⁉」
「ユオちゃん、落ち着いて?」
悪質な報道に続いて、今度はレース協会までもがメドハギを目の敵にしている。
「ハギさんは、ずっとこんな目に……」
頭が沸騰しそうだった。
まるで自分たち以外の全てが敵になってしまった様な気がして心細かったし、どうして、と怒りが湧いてくる。
また、あの怪物と戦うのか、と考えると体の底から震え、恐怖を認めざるを得ない、
だが、
「コール先生、こんな紙切れではなく、ハギさんが組んだ練習予定表をください」
「あ、あぁ……」
前に進む。
メドハギならばきっとそうする、とユオは分かっている。
誰が相手だろうと自分がすべきことには変わりが無い。
ユオは長く息を吐いて頭を切り替えようとする。
「エイダさん」
ユオが呼びかけると、エイダの肩がビクッと跳ねた。
「エイダさんより先にお姉さんを倒しても、構いませんか?」
「う……うん」
「良かった」
ユオの決意は揺らがない。
×××
正午に降り出した小雨は夕方には本降りとなった。
中央区にあるレース協会本部から出てきたメドハギは舌打ちをして車に走った。
「踏んだり蹴ったりか、ちくしょう!」
恨み言を言って、乱暴にドアを閉める。
どこにいても記者や人の目がある気がして落ち着かず、正直余裕だと思っていたユオのレースに怪物が乗り込んでくると決まった。
同一クラブ所属の選手が同じレースに出場することへの抗議をする為に、協会本部へ来たというのに、何時間も待たされた挙句、編成部の人間には会えないと言われる始末。
おまけに雨に降られ、散々な気持ちだった。
「ふざけやがって! 怪我で欠場だ⁉ 普通に練習してんじゃねぇか、ボケが!」
ここへ来る前、メドハギはクラブの社用車を転がして、片道2時間以上かかる地方の学校へ赴いた。
目立たぬ場所からグラウンドを偵察すると、週末のレースに出場するはずだった女子生徒を発見した。
元気そう、どころか一周2000メートルのコースを5周し、その後、走り込みまでしていた。とても怪我をしている風ではなかった。
おそらく、欠場させられた少女は条件が似た別のレースに出場することになるだろう。
協会からの圧力があった、と簡単に想像ができる。
その疑惑を叩きつけようとここまでやって来たが、協会の人間は誰一人として応じなかった。
「クソ、クソッ! やるならもっと隠せってんだ! バレたところで簡単に握りつぶせるってか、舐めやがってクソ!」
怒りをハンドルにぶつける。安物のサスペンションが軋み、車体が揺れた。
だがそこで、
コンコン、と。とても控えめなノック音があった。
車の左側、メドハギの座る運転席側の窓を何者かが叩いていた。
黒のレインコートに真っ黒な傘をしていて、顔が見えない。
「あぁ、誰だ?」
苛立ちを隠さず、メドハギはハンドルを回して数センチだけ開いた窓からメンチを切った。
「怪しい恰好しやがって、殺し屋じゃねぇだろうな?」
「必要ならば差し向ける。よぉ、しばらく」
傘が少しだけ上がって、赤色の瞳が見えた。
「お前は……ヤン、さん……でしたか……」
メドハギが借金をしている金融会社の取立人だった。黒髪を後ろで束ねた東方風の顔立ちに見覚えがある。
慌てて降車しようとしたメドハギをヤンが止める。
「あーあー、降りなくて良い、お互いに撮られるわけにはいかねぇだろ? そのまま聞け」
ヤンはメドハギと視線を合わせず、車体後ろの塀の方を見ながら言う。
「今朝、あんたのところに督促状が届いたはずだ」
「いや……は? この間、祭りの時に支払ったばかりだろ」
「やっぱりだ……、今日の呼出し命令に気づいてなかったか、返済期限が変更された知らせだ、それに合わせて返済計画の相談をしようと思っていたんだ」
「期限の変更…………いつまで」
「一週間後」
「おいおい、何の冗談だよ」
薄ら笑いを浮かべてヤンを見るが、彼は一切笑っていない。いやらしい笑みも、怒りも何もない、無表情だった。
強風が吹いてフロントガラスに雨が叩きつけられ、前方の車両さえ見えなくなる。
「昨日のゴシップ記事はあんたにとって災難だったな……だが、それは俺たちにとっても同じだ。これだけ騒がれたんじゃ、俺たちも仕事し辛い」
赤い目が鋭くなった。
「お前を嗅ぎまわる記者が、いつ俺たちの会社に気が付いてもおかしくねぇ、ボスはそれを気にしている。よってあの事務所は畳むことにした、つまりお前との繋がりを切りたがっているってことだ」
「だからすぐに返せと? それは……メチャクチャっすよ」
「お前はそのメチャクチャなところから借りてるんだよ、一週間後の今日までに52万7000ライカ、耳を揃えて払ってもらおう……一応聞いておく、自力で返済する手段は?」
「……」
50万ライカといえば、レダ中心部の高級マンションが買えるほどの金額。どんなツテを辿ってもそんな金額を一週間で用意することなど不可能。一瞬、まだ見ぬ会長が脳裏に過ぎるが、入ったばかりの部下にそんな金額を貸すとは思えない。
「手段が無いのは分かってる、だから仕事を紹介しようと思ってな」
メドハギの腹の底が急速に冷えていく。
(……ケチな賭博レースどころじゃねぇ……どんな危ない仕事させられるか分かったもんじゃねぇ……)
メドハギは運命を呪った。
名門校を卒業し、誰もがうらやむ1級レーサーになったのに、今はギャングに脅される現実。定職にもつかず、結婚もせず、社会貢献など考えたことも無かった。法に触れることもそれなりにやってきた根無し草のロクデナシそのものだ。
だが、友人と仕事仲間と教え子に恵まれ、少しは未来について考えられる居場所ができた。
トレーナーという職が自分に合っているとは、とても思えないが、それでも今は楽しいと思える。
はい、そうですか、と簡単に手放せるはずがない。
メドハギは死にかけの声を出す。
「一週間……あるんだよな」
「あ? アテでもあるのか? まさか……ケツ割ろうってんじゃねぇだろうなぁ? 逃げても無駄だぜ、俺があんたを今日、ここで見つけられたように、俺たちは絶対に見つけ出す」
初めて赤い目と視線がぶつかった。
(死ぬ気で気張ってクソを捻り出すような最低のアイデアだが……)
少し考えて、メドハギはヤケクソ気味に静かに笑う。
「ちょっと紹介してほしいもんがある……裏社会には裏社会のアテがあるはずだ」
———それから話を終えたメドハギは車を発進させた。
(今あるものが全部、フレイザーズクラブにあるものが今の俺の全てだ…………他に失って惜しいものは何もない)
法定速度など気にしている余裕はなかった。小型の乗用車を限界まで加速させ、自分の帰る場所へと急ぐ。
雨は依然として降り続ける。カーラジオは明日も、その次の日も雨が降ると伝えた。
「俺は『神に愛されし悪童』、とことんやってやる、今更ビビるもんなんてねぇぞっ!」
そして、クラブに帰ったメドハギは、ある事実をクリスから伝えられた。
借金のことなど、頭から吹き飛んでしまった。
「ユオ君が病院に搬送された」
季節外れの長雨がいつ降り止むのかを、知る者はいない。




