第34話
フレイザーズ・クラブのクラブハウス内にある事務所。
トレーナー準備室とは別にあり、事務職員やその他スタッフの仕事場である。
業務が開始したばかりの朝だというのに、部屋のブラインドは全て閉め切られ、職員たちが慌ただしく動き回っていた。
「これで何通目⁉ これにも剃刀が入ってる!」
「気を付けてって言ったでしょ! 封筒に触る時は必ず軍手を着けて。あと、開ける前に発火術式が仕掛けられていないかチェックして!」
「クレームの電話が鳴り止みませんね……嫌われ過ぎでしょメドハギさん。問題を起こした人を採用したクラブへの批判の声が5割、生徒への悪影響を心配する声が3割、あとの2割はメドハギさんの品格を問う声です」
「心を空っぽにするのよ! どれだけ激詰めされても心が無ければストレスは感じないわ!」
普段は温厚な女性スタッフが苛立たし気に奔走している。
「あ、あの~、何かお手伝いできることとかあれば———」
「あ、メドハギさん、すみません~大丈夫ですよ~失礼します~」
正面玄関前に詰めかけた報道陣を躱して、ようやく職場に到着したメドハギは、戦場と化した事務室を見て、いたたまれない気持ちになっていた。
ブラインドを数センチだけずらして、外の様子を確認する。
カメラを持った大人達が数十人単位で群れを成しているのが見える。
「やべぇよ、あいつらずっと張り付くつもりだよ……クレームの電話と剃刀入りの抗議文が山のように届くしよぉ」
メドハギは歯をガタガタ震わせる。
同じく、出勤したばかりのクリスがメドハギの隣でため息をついた。
「やれやれ……以前の貴様であれば、こんなことで狼狽えはしなかっただろうに……今更臆したか。トレーナーになった時点で、いつかこのように騒がれるのは分かっていたことだ」
「ちげぇよ。俺の身が危ないとか、世間に攻撃されて精神的にまいってる、とかそんなことじゃねぇんだよ……見ろよ、この事務室の光景を! 通常業務が滞っちまってるんだ! 俺のせいで! やべぇよ、立場ねぇよ……完全に厄介者扱いだろ!」
クリスは持っていたカップに口をつける。
「肝が据わっているんだか、小心者なんだか、よく分からんな」
「紅茶を、ズズズ、じゃねぇんだよ! 職場での立場ってのは単に、役職付きだとか、勤続年数だとか、そんなことが大切なんじゃねぇ! どう思われているか、だ! 人に迷惑ばっかりかける奴は職場での居場所が無くなっちまうんだよ! 要は人間関係、分かる⁉」
「誰に説教している。職場での人間関係の重要性くらい、マトモな大人なら誰でも分かっている」
「じゃあなんでそんなに落ち着いていられる⁉ お友達が窓際族になっちまうかもって時によぉっ!」
「落ち着け。トレーナーに窓際とか無いぞ」
クリスは妙に落ち着き払った様子で事務室を見渡した。まるで、全てが予定通りのような顔だ。
「こうなるだろう、ということは会長も分かっておられるはずだ。この混乱も
長くて2日、早ければ今日中に片が付くだろう。きっとスタッフたちもそれを分かっている」
「出たよ会長様。一体どこで何してんの? 俺がここに来てから一度も会ったことねぇんだけど」
「出張だ」
これだけの規模と設備を持つクラブのオーナーであるからには、相当な実業家であることは間違いない。
だが、その人物像については全く想像できない。
電話でメドハギの採用を決め、たった2日でシドールと提携を結んだ。
(どんな金持ちだよ……)
このクラブ自体は、あまり儲かってはいないように思える。
在籍するプロは人気選手とは言えず、実力も普通程度。練習生の子供たちに至っては、エイダ以外、裕福では無さそうであるし、月謝は平均と比べてかなり低い。
(よほどのレース好き……ボランティア精神か……?)
このクラブの設立背景を聞かされた時、メドハギはほとんど聞き流していたが、地域社会への貢献、という点を重要視していた。
(そういや、ハリントンもクリスも『アピール』がどうとか言ってやがったな……クラブの宣伝って意味かと思っていたが……あ、レース文化振興の為、とも言っていたな)
メドハギは鼻を鳴らした。
(非営利とか胡散臭ぇ、金持ちが金にならねぇことやる時は大体ロクでもない裏があるもんだ。どうせ政界進出を目論んでるとか、そんなんだろ。ま、俺にはどうでも良いけど)
平日のこの時間帯、トレーナーは指導以外の仕事をする。
プロも学生も本業をやっている時間である為、生徒がいない時間は指導案を作ったり、レースの分析などをしている。
「ハギ、どこへ行く? ユオ君の公式戦に向けて指導案を作成しなければ、あと他の選手の食事指導も」
メドハギはロッカーのある場所まで移動し、中に掛けてあったスーツのジャケットとネクタイを手に取る。
「ユオのレース対策はもう終わってる。デスクの上にあるから持ってけ。食事指導は…………うん、任せた」
「おい、外に出て何をするつもりだ⁉ パパラッチが大勢いるんだぞ! 対処は広報と会長がやるから貴様は大人しく———」
黒のジャケットに袖を通したメドハギは、振り返って言う。
「俺の仕事をするんだよ。こればっかりは会長にもできねぇ。俺の責任だからな」
ポカンとしたクリスをそのままにして、メドハギは社用車のキーを指で回しながらクラブハウスを出た。
×××
午後。それぞれの学校が終わって、クラブに練習生が集まった。
練習を始める前に、クリスが全員を集めて整列させた。
練習場の入場口の前。ベンチの上に立ったクリスは神妙な面持ちだ。
メドハギ・ブラックの疑惑の過去。自分たちのクラブにいるトレーナーの報道とあって、皆が興味を示していた。
また、メドハギとクリスが旧知の仲であることは全員の知るところである。友人である彼が何を話すのか、ユオを含めた全員が聞きたがっていた。
「クラブの前には記者が集まっているので、既にブラック先生の報道について知っている人もいると思う。不安に思うのも当然だ。だが、このクラブは君たちの安心と安全を守ることを約束する。君たちには普通に過ごしてほしい。相談がある生徒は個別に相談を受け付ける。どうかデマや憶測に惑わされることなく、今まで通り、練習に励んでくれ! 俺からは以上! では………………何か質問はあるか?」
クリスが何かを覚悟したように言うと、生徒達は口々に質問を叩きつけ始める。
「デマってことは、ブラック先生のあれこれは全部嘘なんですか⁉ それとも一部は本当⁉」
「コール先生は何か知っているんですか⁉」
「戸籍の偽造ってどういうことですかー⁉ 不法移民とかその子供って可能性もあると思うんですけどー!」
「ブラック先生がいないのは何でですか⁉ クビですか⁉」
「他のタブロイドも読んだんすけど! 昔、女優と付き合ってたってのは本当なんですかー⁉ 個人的にはこっちの方が重要なんすけど!」
雛鳥の如く一斉に鳴き始め、クリスはよろめいた。
「やはりこうなるか……ん、ちょっと待て、今なんか変なの混ざってた!」
クリスは次々と飛んでくる質問の回答に追われていった。
この分では、練習開始時間が伸びそうである。
「ねね、ユオちゃんは知ってたの?」
エイダが耳元で聞いてくる。
「はい……といっても今回の報道にあった程度の情報くらいです……。真実がどうとかは知りません」
「そっか~、それにしても大変だね。自分についたトレーナーがこういうことになると」
「まぁ、そうですね……今日は練習に来なさそうですし……」
ユオは改めてエイダを見る。
栗色の髪と青い目は一緒だが、顔の造形も身長も雰囲気も、全く異なる。
「エイダさんも……あのお姉さんがいると、何かと注目されて大変そうですよね」
「分かる⁉ そうなんだよ~、いっつも比べられるし、お姉さん紹介してくれーってウザい男は寄って来るし」
そう言ったエイダの視線は、ラルフの方へ向いていた。
「お姉さんとは仲が良いんですよね……?」
少し突っ込んだ質問だったか、とユオが顔を強張らせると、エイダは何の気なしに応える。
「悪くはないと思うよ~。お姉ちゃん、小言が多いからウザい時もあるけど、別に憎んだりはしてないよ~、あ、そっか! 私が昨日の模擬レースに行かなかったから⁉」
「え、あ、はい」
「あはは、そゆことね~。うん……まぁ正直に言うと、レースでは敵だからね。ライバルって呼べるほど私は強くないから、私が一方的に意識してるだけなんだろうけど……。レース関係は一歩引いてる関係って感じかな。敵とレースで馴れ合うわけにはいかないでしょ?」
エイダはあけすけに説明してくれた。
「一歩引いた関係……」
そういうものなのか、とユオは感心した。
(もし私にそんな姉がいたとしたら、きっと色々近くで見て、学びたいと思うはず……)
でも、エイダはそうしなかった。
姉という身近で強大な存在を目標としている。
姉に似た強烈な闘争心はそれが故だろう。
「エイダさんはいつの日か、お姉さんに勝ちたいと思っているんですか?」
「うん、勝ちたい」
あっさりと答えた。
「お姉ちゃんは何でもできる。私よりもはるかに優秀、運動も勉強も、見た目でも私は完敗。でも、だからこそ、何か一つで良いから勝ちたいんだ。だって、私はそんな完璧なお姉ちゃんの妹なんだもん、きっとできるって思うんだ———って、ちょっとヤダ! なんか熱語りしちゃった! もう、変なこと聞かないでよ~」
エイダは自分の顔をパタパタ手で仰ぐ。
「ふふ、すみません」
笑ってから、ユオは自分のイヤーマフにそっと触れ、空を見上げた。
今日の空は少し重い。今にも泣き出しそうな灰色の低い雲が山の向こうに伸びている。
(ハギさんはきっと今、大変な状況にある。助けてあげたい)
今朝の登校中、ユオは書店の店先で件の記事を読んだ。読んで、怒った。
店先で叫び声を上げたくなるほど、神経に障る記事だった。確かなことは何も無く、憶測と悪意で綴られたカス同然の内容だ。
そして、落ち着く為に深呼吸をして、彼の事を思い浮かべた。
怪しげで胡散臭く、一級とは思えないサングラスの男。想像の中の姿だって不敵な笑みを浮かべている。
でも、そんな彼でも、傷ついていないわけがない。
助けたい、彼の役に立ちたい、と思った。
だが弱虫と呼ばれた自分が手を差し伸べても、彼はその手を取ろうとはしないはず。
メドハギは強い人だから、憧れの人だから、そんなことはしない。
(私にできること……)
くだらない憶測で彼は苦境に立たされている。
非力な自分にできる、せめてもの助けとは何か。
それは、
(勝つこと)
勝てば、誰もが黙る。
勝てば、誰もが認める。
ただ、勝つこと。
(舐められている。あんなに凄い人なのに、知らない人はあの人を悪く言う……私はそれが許せない……過去に何があったのか、なんて私も知らない。でも、立ち上がろうとする人の足を引っ張るなんて間違っている。ましてや、それを娯楽みたいに消費しようとするなんて、許せるわけがない!)
彼の教え子である自分が勝てば、このくだらない茶番に終止符を打てる。彼が認められるのだ。
ユオの体温が上昇し、心拍数が上がっていく。
銀の虹彩が輝きを増し、感覚が拡張されていく。
(私が復讐してみせる……っ)




