第23話
練習場に併設された事務所の裏口を抜けるクリス。メドハギのボトルが空になっていたので新しいものを事務所まで取りに行くのだ。
採用されてすぐに二日酔いで出勤してきたと聞いて頭を抱えたが、とりあえず真面目に働いてはいるようなので胸を撫で下ろした。
「会長がいなくて助かったな……まったく、ヒヤヒヤさせおって……」
苦言が漏れだすが、その表情はどこか晴れやかで、グレーのカーペットの上を軽快に歩いて行く。
クリスとメドハギは街で再会するまでの5年間、連絡を取っていなかった。
学校を卒業してしばらくは選手同士、飲みに行くこともしばしばあったが、メドハギのスキャンダルが噂される頃には彼はこの業界を去っていた。
引退した事実も知らされぬまま数ヵ月が経ち、風の噂で国を出たことを知った。
何故、何も言わずに出て行ったのか、真相を問いただそうにも連絡する術が無く、5年が経過した。メドハギには家族がいないことは知っていたし、世話になっていたという『師匠』とやらも今はどこにいるのか分からなかった。
どこか遠い地で競技を続けていてくれれば、否、競技など辞めてしまっても構わない。せめて家族でも持って幸せに生きていれば十分だ、と友人として折に触れてあのサングラスのことを思い出していた。
それが今、あの頃のまま、メドハギとクリスは共にいる。
(人生とは、何が起こるか分からんものだな)
教室でなくとも、お互いに現役でなくなったとしても、こうしてあの頃のようにつるめることに、クリスの頬はつい緩んでしまうのだった。
当然、そんなことはクリス自身も認めたくは無いし、メドハギに言うことなど決してあり得ないのだが。
(真相などどうでも良い……奴に聞いたところで適当にはぐらかすだろう。再びこの世界に戻っただけで十分だ。俺の夢は終わってしまったが、今度は教え子たちに夢を見るとしよう……)
と、そこまで考えたところでクリスはふと立ち止まる。
(ハギ自身は……戻りたいとは思わないのだろうか……)
クリスは現代魔術師として一応携帯している杖を取り出す。自身の内側、円環をイメージして魔力を巡らせる。すると目の前の杖の先がポウ、とオレンジ色に光り始めた。
小学生でもできる基礎魔術『灯火』だ。
「……これが限界か」
弱弱しい明かりは明滅を繰り返すと、火を吹き消したように消えてしまった。
魔術路の故障。
それ自体は日常生活を送る上では大きな問題にならない。
火を起こす魔術も水を生み出す魔術も現代では無価値も同然。火が必要ならばマッチやライターを使えば良いし、水は蛇口を捻ればたちまち流れ出るからだ。わざわざ魔術を使う必要はない。
魔術が使えれば、何かと便利ではあるが、無いと生きていけないほどではない。この国にだって非魔術師の人間も暮らしているし、魔術師が特権階級だった時代はとうの昔に終焉している。つまり現代における魔術師は何も特別ではないのである。
ただ、それは一般社会においては、という場合だ。魔術の使用を前提とする仕事に従事する人間にとってはそうではない。
特に、魔術を使うスポーツ選手にとっては致命的だ。魔術が使えないとは、すなわち選手生命の終わりを意味する。
クリスは口をぎゅっと結んだ。
(ハギは俺と違って故障したわけではない……。現役時代とそう変わらない姿で練習を見ている……それに年齢だってまだ27だ、ブランクがあるとしても戻る気があるならばいくらでもチャンスは……っ……いや、止めよう。考えるだけ無駄か)
クリスの現役復帰は絶望的。同じ歳のメドハギの活躍を目に焼き付けた彼は、思わずにはいられなかった。
もしメドハギが復帰できたなら、と。
だが、それこそ本人には言えないと分かっている。
こんなのただの我儘でしかない。自分が怪我で引退したからといって、他人に夢を押し付けて良いわけがない、と。
メドハギだって本気で復帰したいのなら当てのない旅になんて出ていないはずなのだ。
「俺も焼きが回ったかな。よりによってハギに期待しようなどと……ん」
クリスの思考はそこで途切れた。
廊下を進んだ事務所の入り口。曲がり角の先は来客応対用の小窓が付いている。その前に二人組の男たちが立っていた。一人はいかにもベテランといった禿げあがった中年の男。もう一人は二十代後半ほどのカメラを持った男だ。
クリスはすぐにピンときた。
中年の男に見覚えがある。事前飛行の時に関係者席近くにいた記者だ。
「ですから、事前に約束していただかなければお通しできません」
「別に会長さんに会いたいわけじゃないんですよ。私たちはメドハギ・ブラック氏本人とすこ~しお話しさせてもらえればと」
「そうそう、こちらで働いているんですよね? かつて界隈を騒がせた問題児が帰ってきたとなれば大騒ぎですよ。ちなみに、あなたはブラック氏のことは知っていました? 勤務中の彼の態度はどうですか?」
若い男がカメラを構えた瞬間、クリスは飛び出した。
「おい!」
小窓から困惑した表情を覘かせる女性職員と男達との間に身体をねじ込んだ。
虚を突かれたカメラの男が体勢を崩し、あらぬ方向にシャッターを切った。
「あっぶねぇなぁ、商売道具がいかれちまったらどうすんだ」
「自分の商売道具を気にするならこっちの商売にも気を使ってくれ。勝手な取材はお断りだ」
低い声で言ってレンズを掴んで睨みつける。
すると、中年の方が軽薄な笑みを浮かべた。
「おぉっ! コールさんですね! いやーあなたにも伺いたいことがあったんですよ! ちょうど良かった! あ、まずは教え子さん達のデビュー戦勝利おめでとうございます! 元1級は指導も一流なんですかね、へっへっへ」
「世事は必要ない」
「まぁまぁそう邪険にしないでくださいよ。私は『デイリーアイズ』の記者、ペグと申します。どうぞお見知りおきを。こっちは相棒のベルです」
ペグは皺の寄ったジャケットの内から名刺を取り出し押し付けてくる。
社会人として受け取らないわけにはいかず、クリスは恐る恐る受け取り、表と裏を交互に確認する。
(本物のようだが……それにしても日刊紙に目を付けられてしまうとは……クソ、ハイエナめ)
クリスは遅かれ早かれこういった事態になることは予見していた。ただタイミングが悪い。喉の渇きを覚えたメドハギがいつ事務所に戻って来てもおかしくないのだ。
ユオのレースが近く、トレーナーとしてデビューする前にメディアへの対応を相談するつもりだったのだが、彼らの嗅覚の鋭さを侮っていた。早過ぎである。
「それで、まずは事実確認なのですが、メドハギ・ブラックがこちらのクラブでトレーナーに就いたというのは本当ですか?」
必要以上に肥えた体に皮脂がテカテカと光る頭部。タバコの臭いを身に纏い、いっそ下品とも思わせる目つきで聞いてくる。
取るにも足らない凡夫のようであるが、それでも記者は記者。対応を間違えれば喉笛に噛みつかれる。
「勝手に取材を始めないでいただきたい。当クラブでは全ての記者に事前予約をいただいております」
クリスは毅然とした態度で言った。
「いずれ分かることなんですから~、事実かそうでないかだけ言ってくだされば済むんですよ。頼みますって」
「お答えすることは何もありません」
この手の記者は強引で無礼な取材をすることで対象の失言や軽挙妄動を引き出そうとしてくる。あくまで丁寧に対応することが一番の防衛策なのだ。
にべもないクリスの態度にペグは頭を掻いて、ベルと呼ばれたカメラの男と目配せを交わす。
「昨日、学生レースの事前飛行で関係者席にあなたとブラック氏が共にいることを確認しているんですよ?」
「……ノーコメントです」
「ふ~ん……それで、私調べてみたんですよ。この間のキッセン祭りで素人の外套競争でサングラスの飛び入り参加者が優勝したらしいじゃないですか。これってブラック氏ですよねぇ? 彼はこの国に帰って来ていますね?」
カメラ男が突然、フラッシュを焚いてレンズを向ける。
「おい! 勝手に撮るんじゃない!」
「それに! 真偽は不明ですが怪しげな消費者金融のテナントが入るビルから彼が出てきた、という情報もあるのですが、彼は今更この世界で何をしようとしているんです? あんな後ろ暗い経歴があるんじゃあ現役復帰も望めないでしょう? だからトレーナーってわけなんですかね?」
「なにが言いたい」
「へっへっへ、そんな怖い顔しないでくださいよ。私共は真実が知りたいだけなのですから。で、どうなんです? なにか借金があって止むに止まれず戻ろうとしているんですかね? それともこちらのクラブはそんな人材でも欲しがるほど事情がひっ迫しているとか……」
「貴様ら、いい加減にせんと警察を呼ぶぞ!」
瞬間、クリスは自分の失敗に気が付く。
シャッター音がロビーに響いた。
「あ……」
ニヤリと粘着質な笑みを浮かべるペグの胸元に伸びる腕。
クリスが記者の胸倉を掴み上げていた。
「おやおやこれは大問題ですなぁ、元プロスポ―ツ選手が一般人に掴みかかるとは。私が診断書を貰ってくれば致命的ですかな」
慌てて手を放すが、もう遅い。決定的な瞬間をフィルムに収められてしまった。
「ですがご安心ください。我々の取材姿勢に問題があったことも事実。これを公にしたところで、好感度の高いあなた相手では記者達が失礼だったんだろう、と世間は思いますしね。そこでどうでしょう? 改めて、正式にあなたへ取材を申し込みます。へへっ取材は信頼関係が第一ですから、手順を踏まなければ、ねぇ?」
「っ……」
クリスの暗い肌に汗が滲む。
これが現役時代だったなら、素知らぬ顔ではねつけることもできた。だが、今はクラブのトレーナーという立場。自分の行動一つで所属選手とクラブ全体に迷惑をかける可能性がある。
既に選択肢は無い。クリスは沸騰する頭を鎮める。
(さっさと答えて、ハギ本人がやって来ない内に終わらせるのが最善か)
せめて上げ足を取られることだけは避けなければ、と浅く息を吐く。
「メドハギ・ブラックは———」
しかし、クリスは忘れていた。
かつて、メドハギのやんちゃの尻拭いをしなければならなかった時、こういう時に限って無駄になるということを。
そう、サングラスの悪童はこういう場合、台無しにしがちなのだ。
「どこまで水汲みに行ってんのかと思えば……歓迎していない客が来ていたらしいな」
曲がり角の後方、サングラスをかけた男が壁に背を預けて不敵な笑みを浮かべていた。




