第16話
瞬間、頭が真っ白になって、ユオの心臓が脈打つ。
戸籍が無い? 何を言っている?
静寂な資料館に空調の音だけが空しく響く。
「大丈夫? 聞いてる?」
目の前で掌を振られてユオはようやく我に返った。
「はっ……で、でも、戸籍が無いって……シドールは私立校で大学まである一貫校ですし、詳しくは分からないですけど、選手は個人事業主? なんですよね? 納税とか、通院する時とか、住民票とか保険証とかを提出しなければならない場面は沢山あったはずです! そんなことあり得るはずが」
「そうね、だから厳密には『無い』のではなく、『偽っていた』の方が正しいのかも。彼の出生登録、住民票なんかは別人の物だったらしいわ……どのタイミングで入れ替わったのかは分からないけど、彼の経歴と記録に食い違いがあったみたい……あくまで大衆紙の報道だけどね……」
「そんな……」
頭がクラクラする。冷えた指先を拳の中に仕舞いこんだ。
「彼が22歳の時よ。当時住んでいた家に大勢の記者が押しかけて、昼夜を問わず見張られていたわ……バッシングも凄まじくてね、彼はとっくに卒業していたのに学校への問い合わせが止まなかったそうよ。結局彼は一言も話すことなく引退。協会の公式発表は無かったけど、タイミング的にもその一件が原因であるとされたの……以降、テレビや大衆紙で彼の名前が出た事は一度も無いわ。協会の圧力がかかったんじゃないか、と言われているの」
ユオは天井を見上げた。ローラが心配そうな顔をするが、もう今のユオには気にする余裕はない。
なるほど。
引退から5年程度で、活動していたことを忘れるわけだ。
伝統と格式とメンツを大事にする協会が、不祥事を起こした選手をしっぽ切りにすることで体裁を守った。そのように考えられる。
あり得ない話ではない。貴族制の解体から、あらゆる界隈で貴族主義が薄れ、彼らの影響力が低下しつつある現代においても外套競争だけはその流れから取り残されている節がある。
協会役員には元貴族家系の出身者が多く、協会そのものも政治家の天下り先となっていると聞いたことがある。時代錯誤な暴政を敷いていても不思議ではない。
ユオは何となく分かってきた。レース界には表と裏があるらしいこと、その体制下で選手たちは夢を追っていること、そして、メドハギはそれらに迎合しなかったということを。
そこまで考えてうすら寒いものを背に感じた。
(学校とかいじめとか、そんなレベルじゃない……そうだ、あの人はずっと孤独に戦い続けてきたんだ……巨大な支配とそれを受け入れている世界でたった一人……それって、どれだけ寂しいことだろう……)
きっとこれまで聞いた話以外にも多くの嫌がらせや差別をされてきたはずだ。批判に晒され、圧力をかけられ、学校でもレースでも戦い続けた。サングラスを外さず、ずっと秘密を隠してきたのだろう。
孤独。
抗い続けた現役生活はどれほど孤独で辛いものだったのか。
全然、自分と同じではない。彼は自分よりもはるかに過酷だ。
だからこそ、
———恐ろしい。
普通ならば諦めるような、折れてしまうような境遇にあって尚、彼は己を貫いた。その意志と胆力、勝利への執着。並大抵ではない。
得た情報は多いというのに、ますます彼のことが分からなくなってきた。
メドハギ・ブラックとは何者だ?
「メドハギ・ブラックは彼ではない、のでしょうか……」
彼は彼ではない、おかしな聞き方だとは分かりつつも、他にどう聞けば良いのか分からなかった。
メドハギの名も戸籍も他人の物だとするなら、彼はいったい誰なのだ。
「ごめんなさい、分からないわ……。本当か嘘か私には判断できない、入学する以前の彼の経歴は知らないの…………ただね、どうあれ、彼が与えてくれた興奮とか、熱狂とか、そういうものに変わりはないと思うの。彼が何者かなんて関係ないわ、メドハギ・ブラックは私のヒーローだったんだから」
「ヒーロー……」
「若い時の会見で言っていたわ『これは、俺の復讐なんだ』って……多分、自分を蔑ろにしてきた人や攻撃してきた人を見返したかったのね……。彼ほどじゃないけど、私も嫌がらせを受けていた時期があったから、彼の雄姿は胸がすく思いだったわ……ごめんなさい、これじゃ何の参考にもならないわね」
いい加減で不器用でぶっきらぼう、両親や学校の先生、自分の知る大人の誰とも違っていて、後ろ暗い経歴があるようなことも言っていた。不真面目で胡散臭い男。
しかし、自分が抱いた彼の印象はただそれだけか。
しきりに話しかけてきて、芝生の隣で慣れていなさそうな気遣いをする彼、誰よりも早くローラのピンチに気づき、マントも無いのに飛び出していった彼、石橋の上でサングラスを外した彼。ユオの知るメドハギという男は世間で言われているような男だっただろうか。
自分をエルフと知って尚、彼は普通に接してくれた。黒髪のハーフエルフなんて、別に珍しくも無い、と何でもないことのように言った。
『俺が絶対にレースで勝たせてやる』、誰よりもレース界の厳しさを知っているはずなのに、そう言い切った。
『もっとお前を知りたいからだ』、親以外であんなに真っすぐな言葉をかけてくれた人はいなかった。
『お前には才能がある』、お世辞かもしれない、でも、彼は自分の飛行を見てそう評価してくれた。
ローラにとっての彼は『ヒーロー』ならば、自分にとっての彼は一体何なのだろう。
壁の時計が午後5時を示し、閉館時間のアナウンスがスピーカーから流れた。
腰を上げたユオは言う。
「私、何も知りませんでした……貴重なお話をありがとうございます」
「いいのよ、私も久しぶりにブラックさんのことを話せて楽しかったわ。またいつでも来てね」
二人は連れだって階段を下りていく、ロビーまでやってきたところでローラが呟いた。
「本当、彼は今どこにいるんだろう。会って一度お礼を言いたいのだけど」
「お礼、ですか?」
「ええ、私はお金持ちの出身でもないし、特別頭が良かったわけでもない。それに瞳は赤色で学校では肩身の狭い思いをしたわ……でもね、バッシングを受けながらそれでも平気な顔で暴れまくる彼を見ていると勇気が湧いてきたの。応援しているうちに『自分も頑張ろう、周りなんて関係ない!』って思えるようになってね、それから勉強頑張って、大学行って、今では大好きな外套競争に関わる仕事をしている。今の自分があるのは彼のおかげだと思ってるの。ま、ただのファンにそんな重たいこと言われても困るでしょうけど!」
「……そんなことないと思います……」
「ふふ、そうね、彼は優しいから! ところで今更なんだけど、あなたはどうしてブラックさんについて調べていたの?」
「……偶然、彼の名前を聞く機会があったものですから……ただの好奇心です」
ユオは改めて今日のお礼を述べてロビーの扉を開けた。
結局、現在のメドハギがこの街にいることは言わなかった。
事情は断片的に聞いただけだが、彼は例のクラブに新入会員を連れてこられなければトレーナー職をクビになるらしい。
もし彼女に伝え、会いに行った時、彼が既に去っていたらきっとショックを受けるだろう。そして、もし今後もトレーナーを続けるのならニュースや噂でそれを知ることになるはずだ。
今の自分の口から伝える気にはならなかった。
ただ最後に、
「メドハギ・ブラックはきっと…………きっと外套競争に帰ってきますよ……」
ユオはきょとんとした顔のローラに背を向けて歩き出した。
彼がトレーナーを続けられるか否かは、自分の肩にかかっていることを半ば自覚している。
言ってすぐに無責任な自分が嫌になった。




