市街地にて
2人乗りのバイクは神戸の中心へと向かう。千裕は陽子の腰に手を回して、荷物のように揺られていた。
街に近づくにつれて、千裕はなぜ陽子がバイクで迎えに来たのか理解した。
道がひどく混んでいたのだ。
逢坂や教都がシャドウの影響範囲に入って退避の指示が出ている中、人や荷物の流れに影響が出ているらしい。
影響から逃れた人が神戸に押しかけたり、物流のルートが変わったりしていて、とても車で動ける状態ではなかった。
陽子はバイクで車列をすり抜けながら走っていく。途中の信号待ちで止まったとき、千裕は周りを見回した。
道路脇の薬局に人だかりができていて、店員が「シャドウ検査キット売り切れ」と貼り紙を掲げるのが見えた。シャドウに曝露したかどうかを調べる検査キットがあるのだと、施設内の新聞で読んだ記憶がある。
商店街のほうで「防護服入荷しました」「お一人様一着限り」と叫ぶ声もした。さすがにこの地域で防護服を着て歩く人はいないけれど、お椀のような物々しいマスクで口元をすっぽり覆った人を見かけた。
シャドウの影響下に立ち入ると、神経系を侵されて、手足の麻痺や知覚の障害、頭痛や幻覚、呼吸困難など、いろいろな症状が出るという。
風邪やインフルのようにマスクで防げるかは別にして、鼻と口を覆えば気休めになるだろう。情緒の安定にはいいかもしれない。
ここにいる誰も自分のことを見てないんだ、と千裕は気づいた。この世界にいるべきじゃない異物だと思っていたけど、街は混乱していて、行き交う人は自分や身近な人のことで手一杯だろう。
他の世界から紛れ込んでいても、警察に捕まって今朝まで留置施設に入っていても、気に留めて怪しむ人はいない。
家族や職場のこともしばらく忘れて、千裕の注目は神戸の街に向かっていた。
*
しばらく走ったところで、陽子は駐車場にバイクを停めて、千裕に降りるように示した。ヘルメットを外した千裕は、薄曇りの空を報道のヘリが飛んでいることに気づく。バイクに乗っている最中は分からなかった。
建物の階段を上って、2人はファミリーレストランのある階に入った。この状況でも店は開いていて、角のテーブルに案内された。店内は賑わっていて、店員があちこちのテーブルを行き来している。
「僕……自分、お金ないんです」
「大丈夫。なんでも好きなもの頼んで」
陽子は千裕にメニューを示した。
──美味しそう。
急な出来事の数々に気をとられて空腹を忘れていたが、料理の写真を目にしたら食欲が湧いた。
陽子はメニューからサラダとバゲット、コーヒーを選んだ。少し迷ってオムライスを選んだ千裕に、アルバイトの店員は頭を下げて、卵が入荷していないことを謝った。ハンバーグでと伝えると、店員は注文を取って席を離れた。
2人の品が運ばれてきて、千裕は手を合わせていただきますを言った。
ハンバーグを切り分けて口に運ぶと、肉のうまみとソースの味が口いっぱいに広がった。簡素で味気ないものを食べ続けていた千裕にとって、熱々の料理は悪魔的に美味しかった。これほど鮮烈な味のものを知らない。
「美味しいです」
陽子は優しい笑みを浮かべて、この状況でもしっかり食べてくれるの嬉しいな、と話した。
「腹が減っては戦はできぬって言葉は本当だと思ってる。異常な現象や不条理なものごとに対処するとき、ちゃんとごはんを食べられる人が一番強い。体力や精神力を保つためには栄養が必要だからね」
そういえば、と千裕は過去を思い出す。小さい頃から風邪を引いても食欲は落ちない性質だった。学校を休んだとき、食べたいものをいろいろ口に出して、親から「熱あるんだからお粥にしなさい」と言われたな。
熱があっても別世界に放り込まれても、胃腸が無事なら腹は減る。
サラダに何もかけないまま食べていた陽子に、千裕はふと手元にあったドレッシングのボトルを渡した。陽子は「ありがと」と答えて野菜に味をつけた。コーヒーを飲んで、千裕の目をまっすぐ見る。
「自己紹介がまだだったね。私はライトワーカーの山上です」
シャドウと戦うために力を貸してほしい、と陽子は告げた。
*
陽子はときおり料理をつまみつつ、千裕の身元を引き受けた理由を説明した。
千裕は相槌を打ちながら、聞いた話を頭の中でまとめていく。
──自分が転移してきたこの世界には、数十年前からシャドウという現象がある。
発生すると一帯が暗闇に覆われて、そこに留まった者は神経を侵されて体に異常が出るらしい。人間が生み出した公害ではなく、地震や台風のように人間の意思を超えたものと認識されてきた。
シャドウの中心には巨大な人型の存在が一体あって、それにダメージを与えることでシャドウを消せる。政府はシャドウが発生するたびに、中心の存在に光を当てて消失させるのを続けてきた。消えては別の場所で生まれて、を今まで繰り返している。
逢坂や教都がシャドウの影響下に入った今、陽子は千裕をライトワーカーに引き入れようとしている。
「私たちはシャドウに対抗してるの。巨人の体内の核にあたる場所を壊して、もう二度と惨事が起きないようにする」
「災害ボランティアの組織みたいなものですか」
「いや。過激派組織とかテロリストって見方が主流」
ちょうど最後の一口を食べ終えたところだった。千裕は箸を机に置いて動きを止めた。
「光を当ててとりあえず消えてくれたらいいって方針の政府と、根元から絶とうとしてる私たちは相性が悪くて。ライトワーカーに入ったら公権力を敵に回すのは覚悟してほしい」
千裕はしばらく考えて、そっと口を開いた。
「どうして私を誘うんですか」
「知り合いが警察にいてね。千裕さんは前線に行くのに向いてるから。身元が曖昧でしがらみが少なくて運動神経が良いのって最高だよ」
警察の誰かが陽子に情報を持ち込んだことを示していた。公権力と敵対していても、見えないところで人脈があるんだろうか。
千裕は黙って足元のリュックを拾って、席を立とうとした。中腰になったところで陽子に「どうした。怖くなった?」と問われる。
「はい。そんな仕事務まりません、料理美味しかったです、ごちそうさまでした」
「ちょっと待って」
陽子は声を荒げることもなく、あくまで淡々と言葉を続けた。
「千裕さんの能力を見込んで罰金を立て替えたんだけど、ライトワーカーに入らないなら返してもらう。昼間の仕事じゃ払えない額だよね」
──ああ。最初から選択肢なんかなかったんだ。
千裕は椅子に腰を下ろした。ライトワーカーに入ります、と乾いた声で答える。
数秒の間があった。陽子は千裕に温かい視線を向けて「どうし」と口にした。
その言葉が「同志」だと気づくまでに数秒を要した。




