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ひかりのしごと  作者: 遠野なつめ
第一章
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収容_02

ある日のこと。午前中に入浴の時間があった。

千裕は部屋の壁に寄り掛かって、支給されたハンドタオルで髪を拭いていた。肩につく長さの黒髪はまだ濡れていて、畳の上にぽたりと滴が落ちた。


入浴の時間には限りがあるし、自殺を防ぐために風呂場を出るときにバスタオルは回収される。もちろんドライヤーなんてものは借りられない。


かつて、水泳の授業の後に慌ただしく着替えを済ませていたことを思い出す。更衣室で適当に頭を拭いて授業に戻っていたが、髪の長い女子はどうしていただろう。


トマトの様子を見ると、胸元まである赤い髪を慣れた手つきで乾かしていた。


千裕は濡れた髪を手探りで束ねながら、思わず愚痴をこぼした。男性として二十数年生きてきた彼は、長い髪の手入れに未だ慣れない。留置施設に入っていて、時間も道具も限られていればなおさらだ。


「鬱陶しい。坊主にしたいぐらい」


千裕の呟きに、トマトは軽い笑みを見せた。

「せっかく髪の毛きれいなのに。タオル貸して、乾かしてあげる」

「……すみません」

「いいよ。見回りが来るまで時間あるし」


千裕は少し迷って、トマトに任せることにした。

トマトは千裕の背後に座って、ハンドタオルでぱたぱたと水気を取った。千裕の頭が動かないように、時おり頬や首筋に手を添える。女性の手だ、と思った。


トマトは床にぺったり座ったまま、千裕の髪に指を通して、毛先を絡めて遊んでいた。


「何してるんですか」

「暇つぶし」


トマトが飽きて離れるのを待って、千裕はお礼を述べて、いつものように新聞を借りに行った。


仕事終わりに姿を消した自分は、元の世界で捜索届を出されたり騒ぎになったりしているだろう。家族と職場には「生きてます」と伝えたいところだけど、この施設にいる限りは電話もかけられない。


機会とお金があれば公衆電話から自宅に連絡してみようと思って、それ以上考えるのを止めた。考えると不安になって焦るばかりだし、帰った後のことは帰ってから考えよう。


新聞を取りに行った千裕は驚いた。

新聞の一面に「シャドウ発生」の大見出しが出ていて、夜中のような街の写真が載っていた。闇の中で街灯や建物の灯がぼんやり光っているが、これは日中に撮ったものだという。


シャドウは人間が起こすテロではなく、発生した範囲がドーム状の闇に包まれる現象だった。逢坂のベッドタウン伊原木(いばらき)市を中心に、過去にない大きさのシャドウが発生しており、逢坂(おおさか)教都(きょうと)の中心部も影響下にあるという。


シャドウの中にいると神経に異常をきたすため、外に出るときは防護服を着て、すみやかに安全な地域まで逃げるか、影響を受けない地下に避難する必要がある。当局は冷静な対応を呼び掛けている、と話があった。


千裕は部屋に新聞を持ち帰って、畳に広げて読んだ。新聞の紙面はシャドウの話ばかりで、避難の方法や屋内での過ごし方、休校の通知、住民が不安を訴える声などが載っている。


「トマトさん。なんかヤバいことになってます」


千裕が紙面を示すと、トマトは「わ」と目を丸くした。この世界で生まれ育ったらしい彼女も、ここまで大きいのは知らないと話す。


「神戸はセーフか。逢坂に友達いるんだけど、みんな地下にいんのかな」


「これってどう対策するんですか」

「真ん中に巨人みたいなのがいて、光を当て続けたら崩れて消えるって話。政府がいろいろ頑張ってるけど、退治しても何か月か何年かしたら別の場所に出てくるんだよね」


世間話のふりをして尋ねる千裕に「きみのほうが詳しそう」とトマトは答えた。新聞を毎日読んでいるから、時事に詳しいと思われているらしい。千裕は曖昧に返事をした。


逢坂や教都の市街地まで避難の対象だとしたら、相当な数の人々が動くだろう。自分は神戸にいるけれど、施設の外は混乱しているかもしれない、と考えた。



その夜。千裕は夜中に目が覚めて寝付けなくなった。

隣ではトマトが静かに寝息を立てていた。職員の見回りの足音が近づいてしだいに遠ざかるのを、布団の中で動かずに見送る。


シャドウの発生を知ったせいか、妙に神経が昂って落ち着かなかった。感覚が過敏になって、髪が肩に触れたり、ズボンの裾が足首に触れたりするのを拾い上げる。布団の中で身じろぎして、自分の服の裾に手を差し込んだ。


こんなときに不謹慎かもしれないけどさ。


──トマトさん。


祈るように目を閉じて、隣で眠っているトマトのことを思う。薬を経験して「いったまま帰ってこれない」と話していたことや、髪をとかした指の感触を思い描く。


自分の内側に意識を向けて、唇を噛んで、慣れない手つきで自分を鎮めようとした。


──俺は、どうすればいい。


結論から言うと、今の千裕にはまだ早すぎた。

青年としての意識と、女性の体がうまくつながらない。もう失ったものが痛いほど反応しているのに、手の先には何もなくて、それがひどく苦痛だった。


千裕は手を止めて布団から這い出す。体が熱くなって動悸がした。今すぐ冷たいシャワーを浴びるか、外を走って夜風に当たりたいと願った。留置施設の中ではどちらも叶わない。


隣で目を覚ましたトマトが、小さい声で「どうした?」と問いかけた。


「なんでもない。嫌な夢を見ただけ」

「そっか」


それ以上を聞かないでくれたのは幸いだった。

トマトは自分の布団に戻って、やがて規則的な寝息を立て始めた。


千裕は空想の世界に沈んでいった。刃物を握って何かをぐちゃぐちゃに切り裂くところが浮かんで、そのイメージに身を任せていると、ようやく気持ちが落ち着いて静かに眠ることができた。


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