収容_01
千裕が施設に収容されてから数日が経った。施設では一日の流れが決まっていて、大きな問題なく生活できていた。
──問題がありすぎて麻痺してるだけか。
知らない世界で目を覚まし、侵入者として身柄を確保され、現金やスマホは使い物にならず、トマトと名乗る見ず知らずの女性と相部屋で寝起きする。
どこから突っ込めばいいか分からないほど問題だらけで、同室のトマトに対して「ここは現実か」「今の自分はどんな姿に見える」と問いをぶつけたことがあった。
狂った振る舞いにトマトは動じる様子もなく「現実」と答えて、きみは可愛いよと付け足した。アシッドやってるとそんな感じの質問をすることがある、とも話していた。
アシッドとは何なのか知らないが、彼女は薬物で捕まったらしい。この種の狂気には慣れているのかもしれない。
その後、洗面の時間に鏡を見てみた。戸惑ったような表情が、元の自分の姿にどことなく似通っている。今までかっこいいと言われたことはないのに、女性になった途端かわいいと言われるのは不思議なことだ。
*
朝の点呼のために職員が訪ねてきて、千裕とトマトを番号で呼んだ。遅川と呼ばれるよりはいいか、と見当違いなことを思う。
職員から朝食を受け取った。椅子やテーブルのない部屋で、壁に寄り掛かってトレーの蓋を開ける。冷たい白飯と鮭の切り身、野菜の煮付けが入っていた。割り箸で鮭を切り分けて口に入れると、ほのかな塩気を感じた。
初めて食事をするとき、異世界のものを食べたら帰れなくなるという物語が頭をよぎったけど、生きていれば腹は減る。
何も食べなければ飢え死にするだろう。帰るためにはこの身体を生かしておく必要があって、そのためにもご飯を食べたほうがいい、と勝手に解釈して箸を持った。それからは三食しっかり食べている。
トマトは手をつけずに虚空を眺めていた。彼女の食が進まないのはよくあることだ。
一度「大丈夫ですか」と尋ねたときには、ここのご飯はクサいから、と話していた。
──くさい飯、か。
確かに味は薄くて冷めているけど、くさいと思ったことはない。ただで食べさせてもらえるなら文句は言えないだろう。
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食事と洗面の後で、運動の時間があった。運動といっても決まったプログラムはなく、柵とネットで覆われた敷地の一角で過ごすものだった。希望すれば職員がなわとびを貸すと聞いていた。
千裕は行きしになわとびを借りて、運動場の一角で跳び始めた。一回り小さくなった体に合わせて縄の長さを調節する。最初はゆっくり回して、徐々にスピードを上げながら跳んだ。
男が女になれば体力は落ちるはずなのに、動きは格段に楽になって、小回りが利くようになった気がする。小学生のときにできなかった二重跳びがあっさり成功して驚いた。
少し高く跳んで縄を速く回せばいいんだ、と身も蓋もないことを学んだ。
柵に寄り掛かったトマトに軽く手を振ると、トマトは呆れと興味が交ざったように「運動の時間にほんとに運動する人はじめて見た」と話した。千裕もあまり汗をかきたくないので、適当なところで切り上げて部屋に戻った。帰り際に新聞を借りていく。
新聞は貴重な情報源だった。読み慣れた言語で書かれていて、文字を読むのには困らないが、中身を理解できるかはまた別だ。政治家もスポーツ選手も自分の知らない顔ぶればかりだった。
新聞を読んでいると「シャドウ」という言葉が気になった。地方欄の記事のひとつを目で追いかける。
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防護服の無償支給と地下鉄の延伸計画で、地域の安全を確保
神戸市はシャドウの発生に対する対策として新たな措置を打ち出し、住民たちの安全を最優先に考えています。これらの対策は、有事に備え、地域の安心感を高めるものとなります。
防護服の無償支給
住民の安全を守るため、各家庭に防護服を無償で提供することを決定しました。これにより、有事に備えるための必要な装備を手に入れる手助けが行われ、シャドウの脅威から身を守る準備が整います。
地下鉄の延伸計画
地下鉄網を拡張し、公共交通機関を強化する計画も進行中です。これにより、シャドウ発生時に安全かつ迅速な避難が可能となり、地域の住民にとって安心の手段となるでしょう。また、地下鉄の延伸は地域観光の促進にも寄与し、地域経済の活性化につながる見込みです。
当局は、シャドウが発生した場合、住民たちに対して冷静に行動し、指示に従って早急に退避するよう呼びかけています。安全な場所への避難が我々の最優先課題です。
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地震や台風のように、知っていて当然のものとして書かれていた。文章からすると災害の一種らしいが、防護服が要るならテロかもしれない。化学兵器を使ったテロのことか、と考えた。
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床で新聞を読んでいると、トマトは妙に上機嫌になって、尋ねてもいない薬の話を始めた。気分の波が大きいひとだ。
「アシッドとかエースとか。フラッシュは漢字で閃光って書くこともある。地下で出回ってて、気分が冴えて疲れが取れるの。ラブは名前の通り。錠剤なんだけど、飲んでしばらくしたら敏感になる」
千裕は息を呑んで、新聞から顔を上げた。
「飲んだこと、ありますか」
「うん。あれはヤバいよ。いったまま帰ってこれない」
自分で飲むより相手に飲ませるほうが好きかな、と付け加える。廊下を見回る職員に話を聞かれないためか、千裕に近づいて肩越しに囁くように話していた。
数秒の間があって、トマトはふっと立ち上がる。自前のシャンプーを使っているらしく、施設の備品で全てをまかなう千裕とは違う匂いがした。
「この話は終わり。きみみたいに純粋な子に変なこと教えない」
泥棒はしらふで生きてなさい、と話を打ち切って、取り調べがあるからと部屋を出ていった。




