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ひかりのしごと  作者: 遠野なつめ
エピローグ
30/30

朝焼け

身体が空気に溶けていって、千裕は意識だけの存在になって漂った。

浮かんでいるのか沈んでいるのかは分からない。

長いまどろみの中、自他の境がなくなって、透き通った世界をただ観測する。


そして、形のないものに出会った。

姿や性別は定かではない。自分の内にいるような気もしたし、どこか遠くから現れたようでもあった。


その存在は、こちらに何かを伝えようとした。

肉体をもたない千裕は、透明な耳を傾ける。


帰りたいか、と問われた。

はい、と返答する。

少しの間があって、念を押すように声が続いた。


──ここでの出来事は忘れることになる。


転移してからの日々が頭をよぎる。

わけも分からず少女の姿になって、ライトワーカーに引き込まれて、青空を取り戻すために戦った。

陽子が淹れてくれたコーヒーの味や、瞬と2人で車に乗ったときにかかっていた音楽、袖が余った青色の作業服。体に紐づいた記憶の数々。


みんな生きてるんだな、と思った。

命を落とした者もいるが、彼らも確かにここで生きていた。

二度と会えなくなるとしても、その事実は消えない。


自分も帰るべき場所に戻ろう、と千裕は思う。

形のない存在は、千裕の態度を「了承」だとみなした。


月のない晩に、自分は職場の最寄り駅で電車を待っていた。転移先では対応する地点に化学工場のプラントがあったから、敷地内に現れてしまったのだ。


駅のホームを思い描く。仕事の終わりにリュックを背負ってベンチに座っていて、早く家に帰りたいと思っていた。普通電車しか止まらない駅で、快速が通り過ぎるのを見送った。


本来の居場所は元の世界にあるんだ、と認識する。

記憶の中の青年の身体に向けて、拡散していた意識をかき集めた。


流れに呼応するように、存在は「幸せを祈る」と告げた。

帰り道を温かく祝福されて、千裕はこの世界から旅立った。



目を開けると、駅のベンチに座っていた。

東の空が赤く染まっていて、そこに手のひらをかざして眺めた。血管の浮いた無骨な輪郭があった。

髪は短く、胸は平坦で、特に目立つ点のない青年がそこにいた。


膝に載せたリュックを開ける。工場の作業着と財布とスマホ、文庫本が1冊入っていた。本の表紙には『デミアン』とあり、ページ途の途中にしおりの紐が挟まっている。本を持ち歩く習慣のない千裕は、文庫本がそこにあるのを不思議に思う。


スマホを手に取って操作すると、ホーム画面に今の時刻が表示された。

朝の5時過ぎを指していた。

通知欄には不在着信と「今どこ」というメッセージが入っていた。千裕が一晩帰ってこないことを訝しんで、家族が連絡を入れていたのだ。


向こうでの記憶は遠く淡く。

長い旅をしていて、いろいろな人と会って話したような気がした。

全てを賭けてなにかを壊しに行ったような気もした。

なにかに認められて送り出されたような気もした。


ホームに電車が近づいてくる。

千裕は指先で「帰る」と入力して、電車に乗って家路についた。


一夜の失踪の後、いくつかの変化があった。


自転車を盗んだ犯人は監視カメラで特定されて、懲戒処分を受けて工場を去った。犯人とは部署が違って面識がなかったが、その部署で財布の中身を抜かれた人がいて、被害の訴えがいくつか出ていたという。いろいろな経緯があって、自転車は千裕のもとに返ってきた。


千裕は工場のライン作業についていけるようになった。以前のように部品が手元に溜まることはない。神経が配線し直されてつっかえたものが取れたように、手足が滑らかによく動いた。

工場長は突然の変化に首をかしげつつ、遅川と呼んでからかうのを辞めた。周りの職員もそれに従って「早川」と名字を呼ぶようになった。


テレビの天気予報を気にするようになった。

書店に立ち寄って、海外文学の棚から文庫本を買うようになった。

兄の結婚式があって、親族としてスーツを着て参列した。


千裕が朝帰りした日、柴犬のサクラは玄関先で千裕に近寄って、濡れた鼻を押し付けてにおいを嗅ぎ、たっぷりと時間をかけて顔や手を舐め回した。いつもと違うにおいでもするのかと問うと、一声「わん」と鳴いた。


散歩する習慣は変わらない。

河川敷の空が広くて気持ちがいいことに気づいてからは、足を伸ばして河川敷まで散歩した。散歩が大好きなサクラは、連れ出した千裕が呆れるほどの距離を機嫌よく歩き、帰ってから熟睡したという。


──FIN──

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