夜中の気配
少し経った晩のこと。
拠点の中に風呂があって、千裕は後方のメンバーに交ざって手早く入浴を済ませた。女湯に入れて役得かというと微妙なところで、実際に入るとなると目のやり場に困ってしまい、銀色の蛇口やお湯の揺らぎばかりを記憶している。
湯船に浸かって足元に目をやると、膝にあざができていた。ここに来てから手足にあざができては消えていった。日中にぶつけた場所が夕方にあざになり、寝る頃には自然に消えていく。これほどの速さで治るのは普通の人間では考えにくいから、やっぱり自分は普通じゃないんだろう。
*
夕食後から寝るまではあまり制約がなく、次の日に障らない範囲で自由に過ごすことになっていた。
相部屋なら同室の仲間となにかしら話すのかもしれないが、ここは個室なので、周りと関わらずに一人で夜を過ごす。あまり社交的な性格でもないので、静かに休める点では良いことだった。
ブレードが倒れないように壁に立てかけて、パジャマ代わりにジャージを着てベッドに横になった。
鞄から文庫本を取り出して手に取る。
ヘッセの『デミアン』。かつて神戸の地下街を歩いたとき、文学特集として本屋の店先に平積みになっていたものだ。
スマホがない余暇を過ごすために買ってみたが、読書の習慣のない千裕はしばらく読まずに放っていた。神戸を去るときになって、買ったばかりの本を捨てていくのは惜しいから、鞄に入れて持ってきた。
この物語は大戦直後のヨーロッパで発表されたという。こっちに来てからは芸能人も政治家も知らない顔ぶればかりだったが、ヘッセという名前は聞き覚えがある。中学生のときに国語の授業で『少年の日の思い出』を教わった。近代以前の文学は、二つの世界に重なって存在するのかもしれない。
裏表紙には「明暗二つの世界に戸惑いつつも真の自己を求めていく」とあった。最初から読むほどの集中力はなく、ぱらぱらとページをめくって眺める。
ある文章が千裕の興味を引いた。
──鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲する者は、一つの世界を破壊しなければならない。
こんなこと書いてるのかと何回も読み返していると、扉の外で物音が聞こえた。
本にしおりを挟んで扉のほうを向く。千裕の部屋は通路の端にあって、洗面やトイレを使う人もそこまでは来ないはずだった。起き上がって扉を開けたが、通路に人影はない。
不審に思いながら部屋に戻って、そのまま電気を消して眠った。
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眠りについていた千裕は、ふと目を覚ました。
──通路から橙色の光が差している。
扉が薄く開いていて、常夜灯の光が室内に差し込んでいる。誰かが扉を開けて室内の様子を伺っているようだった。
ベッドに手をついて上体を起こす。
「誰」
自分の声だけが響く。
答えを待つ千裕の前で扉が閉まり、室内は元のように暗くなった。
ここに来てから、正体のわからない足音や気配が続いている。まさか心霊現象ではないだろうが、人間の仕業だと余計に厄介だ。いつだって怖いのは生身の人間なんだ。
いい加減に嫌気がさした千裕は、電気を消したままベッドに腰掛けて、足元の靴を履いた。暗さに目が慣れてきて、蝶結びになった靴ひもがぼんやり見える。
部屋の隅に立てかけたブレードを手にして、鍵のない扉を内側から開ける。
静かな通路がそこにあった。洗面所のほうから水音がするが、誰かがトイレに立っているんだろう。
千裕は黙って自分の部屋に戻り、扉を閉めた。ブレードを抱えたまま壁にもたれて床に座る。部屋に鍵がない以上、こうして過ごすしか思いつかない。時計の秒針の音だけが響く部屋で、外の物音に耳をすませていた。
深夜から明け方にかけて、階段にはシャッターが下りて、前線と後方のメンバーは互いの階を行き来できなくなる。この部屋を覗いているとしたら、前線の誰かだろう。
しばらく警戒していたが、眠気には逆らえず、そのまま眠りに落ちた。
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扉を軽く叩く音がして、外から扉が開いた。壁に寄り掛かったまま浅い眠りの中にいた千裕は、ブレードを抱えて跳ね起きる。
千裕が物音に反応したのと、女性の悲鳴が響いたのはほぼ同時だった。
相手の姿を見直すと、どこかで見た顔の中年女性が怯えたように立っていた。
片手には畳んだ青色の作業服を抱えて、もう片方の手で扉を閉めようとしている。
食堂で千裕の作業服を預かって、体に合うように直すと申し出てくれた人だった。
「え、千裕ちゃん……」
彼女が扉を閉めて逃げる前に、千裕はブレードを足元の床に寝かせて、両手を胸の前まで上げた。
「脅かしてすみません!」
千裕が武器を置いて、危害を加えるつもりはないと話すと、女性は戸惑ったように「何があったの」と尋ねた。
壁の時計は明け方を指していた。
食堂のスタッフは朝が早い。明け方に階段の鍵が開いて、前線と後方の階を行き来できるようになったタイミングで、仕事前に千裕の部屋に立ち寄ったという。作業服を入口に置いていくつもりで扉を開けると、千裕がブレードを抱えて飛び出してきた。
「朝っぱらから恐ろしいわよ」
「夜中に誰かが部屋に入るような気配がするので、すぐ反応できるように様子を見てました」
数日前から気配が気になっていたと付け加えると、女性は血相を変えた。
「そういうことは早く言いなさい。そのお化けカッターを持って一人で座ってるなんて言語道断よ。体が痛くてまともに寝られないでしょ」
──お化けカッター?
笑う場面ではないので、口を結んで「すみません」と答えた。
「部屋を覗くなんてやあねぇ。ちょうどベッドが空いてるから私の部屋に来なさい。今日の晩にはそこで寝られるようにしとくわ。はいこれ作業服」
「……ありがとうございます」
女性は千裕に作業服を手渡すと、返事も聞かずに去っていった。その話が現実になるなら、自分は後方の相部屋で過ごすことになるらしい。
一人になった千裕は、部屋で作業服に袖を通す。ちょうどいい丈だった。
*
夕方に訓練が終わる頃、千裕と草平は仲間の輪から少し早く抜けることを許された。
木原と他のメンバーが話をしている間に、地下駐車場の隅でブレードの手入れをする。刃がスムーズに動くように、定期的に解体して潤滑油を塗ることになっていた。互いの部品が混ざったり刃が当たったりしないよう、2人は距離を取って背を向け合う。
千裕は心の中で「サクラ」と呼びかけながら、ブレードを組み直して布とブラシで掃除をした。散歩の途中で愛する犬を撫でるように、手袋をつけた手で刃に触れる。
「ヨーコ」
背後で小さな呟きを聞いた。そっと呼ぶような、口の中で転がすような声色だった。
ヨーコとは山上陽子のことだろうか、と心の中で考える。千裕をライトワーカーに引き込んで、今は地下で後方支援をしていて、シャドウに曝露して味覚を失くしたという山上陽子。
千裕は自分のブレードに目線を落としたまま、背後の草平に「陽子さんがどうかしましたか」と尋ねた。
「……なんでもない。こっちの話」
少しの間があって、取り繕うような答えが返ってきた。
草平が前線に向かうことが決まった日、彼と陽子が玄関先で揉めていた光景を思い出す。
好きな人の名前ですか、という問いを飲み込んで、千裕は自分の作業に集中した。




