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ひかりのしごと  作者: 遠野なつめ
プロローグ
1/30

さよなら、世界

「おい遅川」


ベルトコンベアに向かって部品を組み立てていた青年、早川千裕(ちひろ)は、思わず手を止めて顔を上げた。機械の騒音の中でも、その4文字は妙にはっきりと耳に届く。声の主は、時々現場の見回りに来る工場長だった。


「早川です。名字で呼んでください」

「そんなら早く手え動かせ。周りの迷惑だ」


千裕が「すみません」と呟くと、工場長は大柄な体を揺らして歩き去った。


台車を押している従業員が、こちらを指差して笑っていた。視界の隅で何かを囁き合う気配がする。


千裕は唇を噛んで帽子を深くかぶり直し、作業に戻った。手袋を着けた指先が震えていた。


──嫌なことを思い出す。

小学生のとき、徒競走でビリから2番目になった。最下位の人は体が弱くて運動に制約があったから、あえて馬鹿にするような人はいなかったが、千裕は単に動きが遅いだけだった。


体育が終わって着替えているとき、同級生から半笑いで「おまえ今日から遅川な」と言われたのだった。千裕も含めてほとんどが地元の公立中学に進んだから、中学を卒業するまでその名で呼ばれ続けた。


受験勉強を頑張って少し離れた高校に進んだら環境が変わったし、大学では特に不自由なく過ごせていたが、就職して製造部に配属されてから悪夢が再来した。


決められた数の製品を時間内に作るため、ベルトコンベアのスピードが異常に速くて、組み立てるべき部品が手元に山積みになった。


教育担当の先輩にやり方を尋ねたこともあったが「慣れたらできるよ」と言うだけだった。実際、周りの人は難なくこなしているように見えた。


数か月経っても一向に慣れることはなく、先輩はしだいに千裕を見放して、工場長からは遅川と呼ばれている。歴史は繰り返す。


仕事が終わって更衣室に戻ると、幸いにも他に人はいなかった。脱いだ作業服をリュックに詰め込んで冷蔵庫を開ける。昼休みに飲めなかった缶コーヒーをリュックに戻した。


昼に飲むつもりで冷やしていたが、ベテランのパート職員に呼び出されて「工場長に盾突くな」と叱られて、コーヒーを飲む時間はなかったのだ。


休憩は1時間もらえるはずだが、実際はコンベアの都合に合わせて30分ほどで作業場に戻る。説教が終わってからトイレに走って、食堂でパンを口に詰め込んだら休憩が終わった。工場長に余計なことを言わず黙っていればよかった。


こんなとき兄ならどうするだろうと考えて、兄が「遅川」と呼ばれることはあり得ないなと考えを止めた。呼ばれても笑って受け流すかもしれない。


兄は中学高校と陸上で活躍して、スポーツ推薦で大学に入って実家を離れた。今はスポーツ用品の会社で営業をしていて、来月には結婚する。


早さというものを全て持っていかれた、と自嘲気味に笑って建物を出る。


とっくに日が落ちていて、敷地内の駐輪場を蛍光灯が照らしていた。ポケットに手を入れると、自転車の鍵がない。指先で鍵を探しながら自分の自転車を探して、どちらも見当たらないことに気づく。


自転車の鍵を挿したまま一日停めてしまい、昼の間に盗まれていた。


──会社に泥棒がいるのかよ。


駐輪場をうろうろした後、スマホで現在地付近の交番を調べた。駅とは反対側に歩いて15分。

今から交番まで歩く気にはなれなかったし、職場の出来事で警察が動いてくれるとは思えない。


千裕は諦めてリュックを背負い直した。


仕事ができないのも、自転車の鍵を抜き忘れたのも、自分が悪いのは分かっている。分かっているけど、自分が悪いと一度思い始めると頭がうまく働かなくなるし、手足が止まってしまう。そうなれば余計に叱られるだけで、良いことはあまりない。


誰だか知らねーけど盗った奴は殴る、と脳内で呟いて会社の敷地を出た。人を殴ったことはないしそんな筋肉もないくせに、とは考えないお約束。駅まで歩くための呪文みたいなもの。


自転車を盗られた千裕は、最寄りの駅に向かって数十分歩いた。規模の小さい工場や鉄工所、空き地や畑が夜の闇に沈む。駅の反対側には国道があるが、駅と職場の間にはコンビニ1軒なく、まばらに自販機と街灯が立っているだけ。


月のない夜だった。


駅に着くと、電車は行ったばかりで、ホームに人の気配はなかった。普通列車しか止まらないから、次の電車までしばらく待つことになる。


缶コーヒーを飲み干し、空き缶をごみ箱に捨てた。ベンチに座って目をつぶる。


帰ったらいつものように両親がリビングで喧嘩してて、自分はシャワーを浴びて、汚れた作業服を手洗いして干さなきゃいけない。


──あとは。


千裕は飼っている柴犬のことを考えた。


サクラは千裕によく懐いていた。先に寝ているような時間でも、千裕が帰ったら目を覚まして寄ってくる。


休日の朝になると、しっぽを振って散歩の用意を急かしてくる。早く早くという声が聴こえてきそうなのに、全く嫌な気はしなかった。


温かい舌ともふもふした毛並みを思い起こして、頬がわずかに緩んだ。明日は休みだから朝から散歩に行ける。


──早く帰ろう。


ベンチで目をつぶったまま、快速が通過する音を聞いていた。千裕の記憶は、そこで途切れている。

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