表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

陸の上の人魚の話

作者: 椎野


 ねえ、覚えてる?


 静かに打ち寄せる波の音に、白み始めた薄明の空。顔を出し始める太陽と、少し欠けた白い月。さらさらと揺れる銀色の長い髪に、透き通った海に浸かる翡翠色の鱗。

 太陽と月が一緒に出るなんて、不思議な日もあるんだなあ、なんて。差し込み始めた光に反射してキラキラ光る鱗を見ながら、ぼんやり考えていたぼくは、すっかりと話を聞いていなかった。


「すみません、人魚さん。聞いていませんでした」


 素直に謝れば、おへそから下の鱗と同じ、翡翠色をした瞳にぼくを写しその目元を緩ませる。


「海の国の話よ」


 人魚さんが住むのは、海の底の人魚の国。

 そこは色とりどりのたくさんの魚と、珊瑚でできた家。ぼくらの知らない海藻が育ち、ぼくらの知らない大きくて立派な魚を従える。

 太陽からの光は水を反射しながら海の底へゆらゆらと差し込み、キラキラと瞬くように昼を知らせる。夜は暗くなると体が発光する魚やクラゲが、ランプのように海の底を明るく照らすという。

 赤や黄色、緑に青と、瞳の色と同じ色をした鱗を持つ、たくさんの人魚が住んでいる。それが人魚さんの言う海の国。


「ね、思い出した?」

「ぼくは行ったことがないから、分からないですよ」


 静かに打ち寄せる波の音を聞きながら、人魚さんの話に相槌をうつ。

 腰まで伸びた、長く綺麗な銀の髪を指先でくるくると遊ばせながら、人魚さんは少し不満そうに唇を尖らせる。


「キミは忘れてしまっているだけだよ」


 軽くウェーブした銀の髪に覆われた白い肌。おへそから上はぼくと変わらない、まるで人のような体をしている。けれどぼくとは違い透き通るように白い肌は、空が明るくなってくるにつれあまりに綺麗すぎて、なんだか見てはいけないような気がしてつい目を逸らしてしまう。

 それに気がついたのか気がついていないのか、砂浜に座ったまま、下からぼくの顔を覗き込むようにして無理矢理視線を合わす。

 ニッコリと微笑む目元は、まるで三日月のようだった。


「キミのこと、やっと見つけたんだよ」


 ぼくが人魚さんとはじめて会ったのは、1週間くらい前のことだった。

 小さな港町に住むぼくは、貝殻を拾う仕事をしている。漁師だったお父さんは海で死んで、お母さんは小さい頃に流行病で死んだ。綺麗な海を売りに小さいながらも観光地となっているこの街は、貝細工が盛んだった。そのおかげで親のいない成人もしていない子供のぼくにも出来る仕事があるのだから幸運だった。

 いつものように人の少ない夜明けに合わせて貝を拾いに行くと、波打ち際に人魚さんが座り歌っていたのだ。

 

「どうしてぼくを探していたんですか?」


 初めて会った日も、人魚さんは「探したのよ」とぼくに声を掛けた。

 町の海岸沿いのその奥の、岩場の細い隙間を通り抜けるとある、小さな浜辺。そこは本当は立ち入ってはいけない場所だった。町では、岩場から先は危ないから行ってはいけないということになっている。

 いつものように早朝に貝拾いに出れば、岩場の奥から小さな歌声が聞こえてきた。こっちの岩場は漁港とは反対側だったので、夜明けにはぼく以外誰もいない。立ち入ってはいけないことは分かっていたけれど、どうしても気になってしまい岩場の隙間から奥へと入ってしまった。

 岩場の隙間はかなり狭く、禁止なんてしなくてもぼくみたいな小柄な子どもくらいにしか通り抜けられそうもなかった。引っかかる服を無視して無理矢理通り抜けると、そこには生まれて初めて見る、この世のものとは思えないほど綺麗な人がいた。


「キミが海の国の住人だから」

「ふふ、ぼくはどこからどう見ても、人間じゃないですか」


 このやりとりは、もう何回目だろうか。

 人魚さんは出会ったあの日から毎回のようにこの話を繰り返す。冗談か本気かは分からなかったけれど、ぼくはこのやり取りが嫌いではなかった。それどころか、本当に人魚だったなら良かったのに。今ではそう思っていた。


「だからね、忘れているだけなんだよ」


 ぼくが人魚を見たのは生まれて初めてだったけれど、ほんの数十年前まではもっと身近な存在だったらしい。

 小さい頃に死んだおばあちゃんは、人魚の友達がいたんだとよく聞かせてくれた。今では想像もつかないけれど、人魚と人間の子どもが海で一緒に遊ぶのはそう珍しくなかったのだと。

 今では、人魚は見つかったら捕まってしまう。だから滅多に浜辺に現れなくなっていた。


「海で死んだ人は人魚に、陸で死んだ人魚は人になるの」


 翡翠色の綺麗な目を細めて、まるで内緒話をするように人魚さんは囁いた。


「そんな話、聞いたこともないですよ」

「だって、秘密にしてるんだもの。陸の国の王が」

「どうしてですか?」


 人魚はこんな小さな町では滅多に見ることがなくなっていたけれど、首都では見ることができるらしい。

 人魚を見つけると、国に知らせなければならないし、国は人魚を捕らえて回っていた。捕まった人魚は、首都で見せ物になっていたり、施設の中で死ぬまで働くのだという。


「陸の国の王は欲張りでね、海の国を手に入れたいの」


 海で死んだ人は人魚に、陸で死んだ人魚は人に生まれるという。

 陸の国の王はそれを利用して、まずは人魚の数を減らすことにした。海岸に現れる人魚を一斉に捕らえて、陸の上で殺した。陸で死んだ人魚は人になるから、その翌年人魚の数が減り人が増えた。

 そして次は、海で死に人魚となる人を減らすために、国は漁港を規制し管理した。限られた人しか漁はできなくなった代わりに、今では海で死ぬ人はほとんどいない。


「でもね、陸で死んで人に生まれた人魚は、それでもやっぱり人魚なんだよ」


 見分ける方法があるのよ?人魚さんはそう言って、内緒話でもするように人差し指を唇の前で立て、首を傾げる。


「海に入ったことはある?」

「ないです」

「どうして?」


 ぼくが、海に入ることができない病気だから。そう答えると、不思議そうな顔をして、その綺麗な翡翠色の瞳にぼくを映す。


「そんな病気、聞いたこともない」


 だからそんな服を着ているのかと、人魚さんはぼくの履いている裾の長いズボンを引っ張る。

 海に入れない病気のぼくは、港町には珍しく年中分厚い生地の長ズボンに海水の染みないブーツを履いていた。これは幼い頃からの両親との約束だった。


「もっとうんと小さな子どもの時から、入らないようにって言われているんです」

「そう。でも、もう大丈夫」

「え?」


 呆気に取られている間に、とても女性の力とは思えないくらい強い力で腕を引かれる。歳の割に小柄なぼくはあっさりと体勢を崩し人魚さんの方へと倒れ込んでしまう。それを支えるように、手を引くように、まるで踊るように、海の中へと誘い込まれる。

 パシャリと上がる水飛沫が、太陽の光を浴びてキラキラと空を舞う。透き通った海水に、沈み込むように腰まで浸かったぼくは、突然のことにただ人魚さんの顔を見詰めることしかできなかった。


「ほら、言ったでしょう?」


 満足げに笑う人魚さんの銀色の長い髪は、海の上でゆらゆらと揺れる。まるで水にゆられるクラゲの足のようだった。

 初めて入った海は、想像していたよりも冷たくはなくて、少し温かいくらいで。濡れた服が張り付いて気持ち悪いはずなのに、そんなこと少しも気にならなかった。


「海に入れない病気なんてないのよ」


 ふと、すぐそばにブーツが浮かんでいるのが見えた。港町には珍しい、分厚くて硬い皮でできたブーツは、ついさっきまでぼくが履いていたもの。

 よく見れば、海藻かと思っていた近くを漂う黒い塊は、ぼくが履いていた分厚いズボンの左足側だった。いつの間にか左足はズボンから抜けていて、何も無くなった布地だけが濡れてクタクタになり波にゆられている。

 右足はと言えば、なぜだか布がパンパンに膨らみ、とても窮屈だった。


「ねえ。人に生まれた人魚は、どうやって見分けるのだと思う?」


 人魚さんは、内緒話の続きでもするように、ぼくの耳元で囁いた。


「人に生まれた人魚はね、海水に濡れると、元の体に戻るのよ」


 濡れている間だけだから、乾けば普通の人の体と変わらないけれど。そう言うと、悪戯が成功した子供のように目を輝かせて、その白くて綺麗な手で海の中のぼくの足を指差す。


「キミの瞳と同じ、澄んだ海の色だね」


 薄水色の鱗が、海の水に反射して白く光る。それに驚いて身体を震わせれば、太陽の光を浴びて更にキラキラと瞬く。

 右足だけがパンパンに膨らんでいたズボンを脱げば、そこには人魚さんと同じ鱗があった。


「…本当だったんですか?」

「言ったでしょう?海の国の住人だからって」


 この国は男女関係なく、成人すると数年首都に徴兵される。その時の身体検査で、人に生まれた人魚を選別し捕らえているのだと人魚さんは言った。

 ぼくの両親は、それまでの間だけでも、ぼくを守るために病気だからと海に入らないよう言い付けていたのだ。


「私はね、陸にいる人魚を助けたいの」


 海の民は争いを好まない。

 いくら陸の国の王が海を侵略しようとしても、人の体では、海の国へは辿り着けない。海で陸を飲み込めば、人なんてたちまち死んでしまう。だから人魚は陸に近寄らなくなっただけで、決して人に報復するようなことはなかった。


「だから、キミも手伝ってくれると嬉しいな」


 けれど、人に生まれてくる、陸で死んだ人魚のことは助けてやりたい。

 人魚さんはそのために、深い深い海の底からこの浜辺に上がって来たのだと言う。


「それで、みんなと一緒に海の国へ帰りましょう」


 これは、海の国の翡翠色の人魚と、陸の上の人魚のお話。


「ね?手伝ってくれる?」

「もちろんです」

「そうこなくっちゃ!」


 すぐに答えれば、人魚さんは満面の笑みを浮かべ、勢い良くぼくに飛びつく。

 人魚さんの体温は、人とは違い冷たくはないけれど、人よりももっとずっと低かった。でもきっと、海水に浸かり鱗をまとったぼくの体温も、同じように低いんだろう。


 それからというもの。

 海の魔法使いに人の足をもらった人魚さんと、首都を目指すことになったり。陸の国の全てが珍しい人魚さんが、行く先々で色々なことに首を突っ込んでしまったり。

 非力なぼくは、人魚さんを守るどころか、元人魚だとバレて捕まりそうになってしまったり。人魚だと気付かれることなく兵士となった人に、偶然助けられたり。まだ幼い人魚の子を、助けてあげられなかったり。


 全部全部、人魚さんとぼくの、ここから始まるまた別のお話。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ