↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/4

【解説】 生まれた家系 綾小路家の成立。

挿絵(By みてみん)

 

 綾小路家は宇多天皇の第八皇子、六条の宮敦美親王の第三子雅信王が源氏姓を賜い宇多源氏の一流と為したその庶流です。

 始祖、雅信王こと源雅信が従一位左大臣に昇り詰め娘倫子を藤原道長に嫁がせた関係から摂関家に近く宇多源氏の諸流の中でも最初から特に栄えていた一族でした。

 雅信の子時中、孫斉政、曾孫資通、玄孫政長と続きますが朝廷の主導権が摂関家や天皇、上皇等の皇室へ行ったり来たりするなかで段々と摂関家べったりの関係から皇室の侍読(教師)などを歴任した流れから皇室や院政を始めた上皇・法皇へと関係をシフトしていきます。

 

 政長の子有賢は白河上皇の四位別当として院司の責任者となり、孫の資賢も判官代を務めました。

 次代の鳥羽上皇の時代では資賢が四位別当を務め、上皇崩御の際には納棺役の一人に名を連ねるほどになります。

 

 しかし鳥羽法皇とその第一皇子である崇徳上皇の対立により政局は急変します。

 鳥羽上皇の崩御後崇徳上皇と後白河天皇による保元の乱が起きました。

 保元の乱により敗者の崇徳上皇は讃岐国へ配流、先の左大臣藤原忠実は罪名宣下は免れたものの氏の長者としての実権(荘園や人事権)を喪失し莫大な荘園群に支えられていた武力組織を解体させられました。

 結果、摂関家が軍事力を喪失し中央に軍事的空白を齎したことにより伊勢平氏の平清盛や河内源氏の源義朝等の武士の躍進を招きました。







挿絵(By みてみん)

 その後平治の乱で伊勢平氏一強を平清盛が実現すると、鹿ケ谷の陰謀で清盛と後白河法皇が対立します。

 翌々年の治承三年の政変は軍事力を以て平清盛が後白河院政を停止した事件であり、この政変で権大納言で按察使を兼ねていた源資通、子で右近衛権少将の源資時、但馬守の源信賢、孫の右近衛権少将の源雅賢が畿外追放となりました。

 

 この源雅賢は早世した右近衛少将岡崎通家の嫡男で院政期に院政の中心地となった白河の地が宅地化が進むに従って岡崎と呼ばれるようになり院の近臣として岡崎に居を構える事になった為、岡崎流と呼ばれます。

 岡崎流は早くに絶えますがその庶流に佐々木野流が生れ室町中期まで存続、郢曲や蹴鞠、馬術の家として楽の家の一流として王朝文化の一翼を担いました。


 源資通の子で三男でしたが母方の身分が高く嫡流としての扱いを受けたのが源時賢で資賢の長庶子、岡崎流と区別する為、居の場所を取って綾小路流と呼ばれます。

 時賢の子有資は伏見天皇を養育し伏見上皇に娘や孫娘を出仕させるなど院の近臣として力を奮います。

 しかし子には恵まれず、嫡男の政仲、次男の有経を早くに亡くし娘の子である外孫の藤原経資を養子とします。

その後信有が生れましたが、母方の身分が低い為嫡流は綾小路経資が継ぎ、庶流として信有が一家を建てました。

 もっとも家業の神楽や郢曲、琵琶・笛・筝・篳篥等の楽の家としての相伝は信有に伝えられ、綾小路経資は神楽のみ相伝します。

 その後信有は綾小路を名字とし、経資の孫重資が庭田を名字としました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。