雲の糸
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うーん、今日はいい天気だなあ。こうして寝転びながら空を見ていると、自分の抱えている諸々が、小さい問題に思えてこない? 海とかと同じでさ、面積も懐も大きいものを眺めていると、気持ちがすっと楽になっていくんだ。いずれも命がやってきた場所だからかな?
そして海に白い波があるように、空には白い雲がある。今はひとつだけだけど、馬鹿に大きい感じがしない? ひょっとして、地面に近づいてきているんじゃないかな、なんて。
雲は人の身近にあり続けた自然現象のひとつであり、おかげで雲を巡る、色々な昔話が存在しているのは君も知っているだろう。どうだい、今回はこうしてごろごろしつつ、話を聞いてみるっていうのは?
むかしむかし。税を京まで運ぶ役目を負った、ある運客の帰り道でのこと。
この運客という役目、食料を自腹で賄うことになるので、往復で何日もかかる場所から歩くと、大きな負担になる。餓死者が出ることも珍しくない道中で、実際、彼自身も昨日、今日と水と木の実でどうにか食いつないでいるという状況。自分の村まではあと一日、二日はかかるだろう。
都から伸びる官道には、ところどころに当時の情報伝達手段である、馬を備えた「駅」がある。そこの連絡員たちが泊まれる場所は存在したが、運客たちは基本的に利用することができなかった。
その日も彼は陽が傾いてくると、道端の木の陰に寄りかかって、ぽりぽりと木の実をかじっていたそうだ。すでに残りは一握りしかない。空は雲がひとつだけぽっかり浮かび、夕焼けで真っ赤に染まっていたという。
下手に動くと、余計に腹が減る。今日はもう休んでしまおうかとうつらうつらし始めた時、びゅっと風が身体に吹き付けて、顔に張り付いてきたものがあった。
冷たい。指で取ってみると、それは細い細い一本の糸だったんだ。一見、白髪と間違えてしまうが、彼自身、まだ髪の毛は黒い。そしてこの糸からはどうしたことか、焼いた肉の香りが漂ってくるんだ。
冷たい手触りに反し、熱気が顔に当たってくる想像さえしてしまう、香ばしい匂い。面妖な現象も、空腹の彼にとっては大した問題にならなかった。
はぷり、と彼は糸の先を口に含んでみる。見たり触ったりした限りでは、糸はさほど湿っているように思えなかった。なのに今、口の中にあるものはすすればすするほど、食欲をそそる肉汁が湧き出し、のどへ、腹へ注がれていく。口内を満たす焼き肉の香ばしさは、彼の鼻すらも内側からバカにする。
彼は本能的に糸を手繰り寄せた。更に食べようとしたんだ。つかんではくわえ、つかんではくわえを繰り返すが、糸は途切れる気配を見せない。顔をあげると、糸はどうやらはるか空より伸びているようで、根元は確認できなかったそうだ。
――これだけ美味いものはなかなか食えないぞ。余さずいただかないと、もったいない。
彼は糸を食べ続ける。やがて辺りが暗くなり出し、夜が更けて、東の空が白み始めても、その間、わき目もふらなかったらしい。
そして永遠に続くと思われた糸も、ふつりと切れる。彼は糸を掴みよせてきた手が空を切ったのを見て、「これが最後」とゆっくり咀嚼し、飲み下した。口元を握って立ち上がると、すっかり明るくなった官道には、すでにちらほらと人の姿が。都へ向かって砂ぼこりを巻き上げていく、早馬も見える。
糸を食べ尽くした腹に手をやる彼。都を出てより、お供していた腹の虫がなる気配はない。脚も意識もしっかりしている。彼は木から離れて、人々の中へ混じっていった。見上げる空は今日も良い天気だったが、あの大きい雲は、いくらか小さくなっていたんだ。
村へ帰った彼は、再び糸を口にしたいと切に願ったらしい。村の誰にも、この体験は話さなかったとか。もし話して、皆が糸に殺到するようなことが起これば、自分が再びあの糸にありつけなくなるのではと、心配してね。
それからいくつもの月が過ぎる。彼はあの日、糸に出会った時のことを思い出しながら、極力、その条件を満たそうとする。何度も空振りに終わったが、ついにその時を再び、呼び込むことに成功した。
まずは朝。晴れていることを確認すると、その日の本格的な飯を抜くことを決断。最低限の水分と、あらかじめ蓄えておいた木の実で、かろうじて空腹をしのいでいく。
昼過ぎには、どこからか来た白い雲がぽっかりとひとつだけ空に浮かび、動かない。時間と共に赤みが差していく空は、やがて雲そのものさえも紅色に染め上げ始めた。
――来た。
そう感じるや、彼は誰も周囲にいないのを確認し、そっと村を抜け出す。一本だけ原っぱに立つ、大きなクスノキ。その根元に背中を預けながら目を閉じ、下半身をだらしなく横たわらせながら、例の瞬間を待つ。
ややあって、ぴとりと頬へ触れるもの。手に取って目を開くと、握っているのは白く細い糸。顔を寄せるだけで熱気を感じてくる、あの焼き肉の香りも健在だ。
彼は戸惑いなく、ぱくついた。あの時のような腹減りに加え、知っていながら待ち続けたという時間が、なお食欲をそそる。引き寄せてかぶりつき、引き寄せてかぶりつき、数ヵ月ぶりのごちそうを前に、あの時以上にがっついた。
舌を伝う快感は、あっという間に腹の中から、身体中へ広がっていく。ひたすらこのうまさを享受するための器官になり果てた全身から、汗のように心地よさがしみ出てくる。もう寄りかかっている木も、寝そべっている地面の感触さえも、もはや感じることはなく……。
そこで彼ははっと、我に返った。糸を口にくわえたまま、ひょいと自分の背後を振り返ってみる。
木も地面も、消え失せていた。いや、厳密にははるか眼下にあり、自分の身体が届かなくなっていたんだ。そこから少し離れて見えるは、柵に囲まれた自分の村。かつてたどった都へ続く官道。そして上から見上げるばかりだった山々の頂が、今、自分の目線とほぼ同じ高さにある……。
彼は糸一本で、かろうじて宙に浮かんでいたんだ。頭上には赤々と色づいた雲が
糸を吐き出しながら戻ることは、もうできない。糸はすでに何度も歯で断ち切り、残っているのは口の中に残る分だけ。とても遠く離れた地面へは届かない。
上がるよりなかった。彼は両手で糸を掴み、ぐいっと引っ張ってみる。ひょっとすると、力をかけた拍子に糸がするすると伸びて、地上まで連れて行ってくれるんじゃないかと期待したが、それも無理。先ほどまでやすやすと手繰り寄せていた糸は、今は岩に結びついているのではないか、と思うほどに頑丈で、動かない。
彼はぎゅっぎゅっと手ごたえを確かめつつ、夢中で上がった。やがて視界には雲しか見えなくなり、そこを越えると今度は霧に巻かれ始める。
おそらく自分は、雲の中へと入り込んだ。何度か稲光が目の前を走り、雷が轟いて、思わず糸を離してしまいそうになること数回。
その中で彼が覚えていたのは、恐怖だけじゃなかった。
今、身体中を取り巻いている霧から感じるのは冷気。だがそれ以上に、糸をしゃぶっていた時の何倍にもなる強さの、肉の香りが満ちていたんだ。
――雲だ。俺が食べていたのは束ねられた雲の、本当に端の端にあるほつれだったんだ。
ぱくぱくと、勝手に口が開いたり閉じたりを繰り返してしまう。初めて糸を口にした時と同じ、抗うこと叶わない本能的な動き。周囲を取り巻くようになったごちそうに、身体が反応を続けて止まないんだ。
また身体が、すべてを快楽のために開いていく。糸を握る手の感覚すら緩んできて、「まずい」と思っても、身体はひたすらに食を求めていく。
霧がどんどん身体の中へ入り、その濃さが薄まって、赤い空の姿がほんのりとのぞき出す。もし、この糸が本当に雲のほつれならば、自分で自分の首を絞めていることになる……!
「待て待て。それ以上食べると、食い死にじゃ」
雷鳴に引けを取らない大声が、彼の耳を揺らす。一気に肝が冷えたけど、それも一瞬のこと。すぐに身体は、目の前の美味にくらんでしまう。
「待てというに。それ以上食うと、お前がこの先、吸う息がなくなるぞ……致し方なし」
声と共に、彼の手元からぶちりと、音を立てて糸がちぎれる。彼の身体は落ち始めたかと思うと、あっという間に霧を抜け、雲の広がる光景へ。それすらもどんどん引き離され、雲の周りを空が取り巻き始める。
動きが止まった。背中には地面の感触。彼が起き上がると、そこはクスノキの根元。先ほどまで自分がいた場所に、違いなかったんだ。
彼はもう一度、空を見上げる。固まっていた雲が中央から引き裂かれると、ほうぼうへ霧散していく。いくらもしないうちに、そこには赤い夕焼け空しか残らなくなっていたとか。
同時に、彼はとたんに息苦しさを覚える。必死に呼吸しようとするも、のどに何かが詰まっているらしく、満足に吸えなかった。
助けを呼ぼうにも大声を出せない。立ち上がるのも苦しく、彼ははいずりながら村までの道を行く。この態勢では近い距離とはいえなかったが、あと数十歩のところで他の村人に気がついてもらえたのは、幸いだっただろう。
家に運び込まれ、横になった彼。息苦しさは完全には取れなかったが、夜になるといくらか落ち着き、身体を起こせずとも、会話ができるほどになる。
彼は自分の体験を子細に伝える。そして今後、食欲湧かせる「雲の糸」を見かけても、決して口にしてはならないと戒めたようだ。きっとあの糸を成すものは、自分がこれから吸うはずの「美味い空気」そのものだから、と。
彼は話し終わった翌未明に息を引き取った。のどを押さえ、もだえ苦しんだ彼の最期の言葉は、「息が……」のひとことだったという。