5 不機嫌なティータイム
さて、何を話そうか。
正直何を話すか考えていなかった。
『私異世界から帰ってきたの!!』
追い出されるわ。
そんなの私でも追い出す。まだチョコレートケーキを食べてないのに困る。
そもそもこの世界で異世界という存在がどれほど周知されているのかがわからなかった。
だがここであなたにとっての異世界って何?なんて聞いたら確実に異世界絡みの存在だと悟られてしまう。今はまだ私はただ空から降ってきただけの存在だ。例え異世界についての知識があったとしてもまだそこまで察されてはいないだろう···多分。
「さて、ではアズサの話の前に少しおさらいをしておこうか」
「おさ···らい······?」
私の中で尋問始まりのゴングが『カーーーン!!』と鳴り響いた。
「君は異世界というものを知っているかな?」
···え?
「異世界とは、その名の通り『ここ』とは違う世界を指す。その存在自体は広く周知されているが、異世界に行くことは各世界ごとに様々な条件があり、容易なことではない」
トワがカップに口をつけた。
「各世界。と、わざわざ表記されている通り、『ここ』にとっての異世界はひとつではない、『ここ』にとっての異世界は七つ。つまり異なる世界は計八つ存在することになるな」
待って。
内心だらだらと汗を垂らしながらカップを手に取った。紅茶の良い香りが鼻をくすぐる。
真っ赤な紅茶。面白いことに紅茶の表面が波打っていた。
バレバレじゃないか。
ここまで知っていて一体何を楽しむと言うんだ。姉さんの話をそんな聞きたいのか?綺麗で優しくて完璧な姉さんの話をそんなに聞きたいのか?恥ずかしい、何を話すとかもうとっくにそういう話ではなかった。
紅茶の波打ちに釘付けだった視線を上げると、目が合ったトワはにんまりと笑った。それはそれは楽しそうでさっきまでの冷たい男とは別人のようだった。
私は苦い思いで紅茶を啜るしかなかった。美味しい。
「えっ、えっ、トワ〜お前なんでいきなり異世界の話なんてはじめたんだ?」
一人置いてきぼりを食らったコータは唇の端にチョコを付けながら声を上げた。見るとコータの前のお皿の上には一欠片のチョコレートも残っていなかった。まだ五分も経ってないのに、素晴らしい食べっぷりだ。
明らかに先程とは様子の違うトワは、コータの質問に答えることは無く、ニコニコニコニコニマニマニマニマしながら私のことを見つめていた。楽しくて楽しくて仕方がないといった態度だ。この人は、小動物を虐めて楽しむタイプだ、近づかないでおこう。
はぁ、とため息をついた。
何も隠すことはなかった、トワの態度から私を追い出す様子はない。
「あなたの考えている通りよ。私は七番目の世界から帰ってきたの」
降参だ。脳内で白旗を勢いよく振り回しながら、私は素直に話し始めた。
世界の数は計八つ。
八つの世界は生まれた順に一番、二番、三番···と呼ばれている。
私の居た世界は七番目。そしてこの世界は八番目、一番新しい世界だ。
「七番目の世界は薬と医療の世界。十年間居たからそこそこあの世界についてはわかっているつもり。なにか気になることがあるなら話すわ、美味しい紅茶のお礼に」
あと、未だ口にしてないチョコレートケーキの分は。
そう言ってそっと微笑んだ。あと出来たらいい就職口教えてくれないかな、という意味を込めた精一杯の愛想笑い。
···。
············。
···トワから返答がない。
あまりにも笑顔が胡散臭くて絶句しているのだろうか···。
顔を見ると、その顔からは笑みが消えていた。思わず上げてしまいそうになった悲鳴を飲み下す。失敗した、と背筋に冷たいものが流れた。
何がいけなかったのだろう。私があっさり認めたことが面白くなかったのだろうか。それとも私の口から飛び出たのが、トワの想定とは別の答えだったのか。
私が顔を青ざめていると、トワが「ああ、すまない···」と一言置いて、思案するように瞳を揺らした。
そして言葉を選ぶようにひとつ呼吸。
「来た、ではないのか?」
「来た···?」
確かに『来た』とも取れる状況だが、私はこの世界に永住するつもりだし、正確には帰ってきたが正しい。
「異世界から『来た』ではなく異世界から『帰ってきた』なのか?本当に?······ああ、でもそうだな。やけに君は落ち着いている。元の世界に帰ってきたという安堵から来るものか···いや、違う···君は······」
何故かやけにトワが動揺していた。
ぶつぶつと呟きながら、顎に手を当ててしきりに何かを考え込んでいる。
一方で私は首を捻った。
異世界から来たも異世界から帰ってきたも大して変わりがない気がするが、この世界の常識に反する行為なのだろうか。
トワに話し掛けても反応が無いので、横にいるコータに視線を移した。コータはそれはそれは幸せそうに茶色の菓子を頬張っていた。よく見ると手に『業務用チョコマシュマロ』と書かれた大きな袋を抱えている。チョコレートが好きなのだろうか。
私の視線に気がついたコータがマシュマロを飲み込むと小さく首を傾げた。全く話を聞いていなかったようだ。
「異世界から帰ってきたことと、異世界から来たことがどう違うかわかる?」
「お?おーー?そうだな〜」
コータはマシュマロをまたひとつ頬張った。咀嚼しているのを眺めていると、ひとつどう?と言わんばかりに袋を近づけられたので、有難くいただいた。久しぶりに食べたマシュマロは、甘くて柔らかい。
「アズサの知っての通り、この世界は治安わりーしそもそも異世界から人が来るっつーのが少ねぇな」
「初めて聞いたわね」
「おー、じゃあ今知れたじゃねぇか。よかったな!帰るのだって結構難しいのに、わざわざこーーんな世界に戻ってくる人間はいねぇんだ。いたとしても忽然と姿を消しちまう」
「八番目が治安悪ぃことを抜いても、そもそも異世界行きは自分に一番合う世界に行かせて貰えるんだぜ?普通帰ってなんてこねーよ」
自分に、一番合う世界。
陽だまりと、紅茶の香り。よく焼けたクッキーに『美味しいわ』と微笑む姉さん。山のような木の実を抱えて『よかったらこれジャムにしてくれないかな?』と照れくさそうに微笑むラウル。『アズサのお薬が一番効くの!』と親しげに笑う友人。親切な村の人達。
私の世界。小さくて、満たされていた、大好きだった世界。
ああ、本当ね。どこまでもあの世界は私に優しかった。
「つまらない!!!」
突然の大声に思考が遮断された。
驚いて前を見ると、トワが眉根を寄せ、不機嫌そうに紅茶を啜った。
「異世界帰りだと?冗談だったらよしてくれ」
「冗談でこんな突飛な話しないわよ」
「最悪だ。君を独占しようと思っていたのに、これでは機関に取られてしまう」
「···ん?」
彼が何を言いたいのかがいまいち読めない。
何故だろう、彼が嘆いているのは何よりも私が帰ってきたという一点に尽きている。
独占、機関、なんだか不穏な言葉だ。
「しかも七番目だと?あの世界には前々から興味があったんだ。足りない、機関が来るまでに君から聞き出せる情報だけで私が満足できるはずがない」
どうやら私の居た七番目の世界のこともご存知らしい。だが、それ以降に彼が口にする言葉はよくわからないものだった。
別に七番目のことを話してはならないという決まりもなかったし、トワが満足するまで話すくらい造作でもないのに。やはり、彼がよく口に出す『機関』という存在が、彼にとってなにか不都合を生んでいるのだろう。
「なぁなぁ、トワ」
「なんだ?私は今機嫌が悪い」
「さっきからトワ達がなんで異世界とか機関の話とかしてんのかさっっぱりわかんねーんだけどよぉ···」
果敢にも全身から不機嫌オーラを撒き散らしてるトワに話しかけたコータは、マシュマロの袋をテーブルに置き、トワの方へ身を乗り出した。
「なんなら機関から奪っちまえば?」
「コータ、お前は少し頭を使ってものを喋るといい」
そんなトワの言葉をものともせずに、コータは彼を小馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「お前の信条って、そんなもんなのか?」
にやりといたずらが成功した悪ガキのようにコータは笑った。
それに対してトワの周りからどんどんと気温が下がってくような、急激なトワの機嫌の悪化を感じた。私が話しているわけでもないのに、ぴくりと体が震える。
「そんなわけないだろう」
人間はここまで心を殺せるのか、と思ってしまうほどの冷たい声。そして氷のような瞳がコータを刺す。
「私の欲しいものは全部私のものだ」
大きく音を立ててトワが立ち上がる。
立ち上がった時、もうトワは先程までの不機嫌さを感じさせず、緩く微笑んでいた。
「ふむ、さすが私の親友。そうだったな、欲しかったら奪うのみ」
トワの手が伸びて私の髪に触れた。
私のくすんだ金髪を持ち上げて弄ぶ。
「アズサ」
「···なによ」
トワはくすりと笑った。なんだか悔しいが、彼はそんな姿がとても絵になる。
「私のものになるといい」