2 こんにちは、私の世界
ドアの先へ足を踏み出した。
そこは、十年前に私が捨てた世界。
ただ生まれて、息をしていただけの世界。慣れ親しんだ場所ではない。
気を引き締めていかないと。
と、決意を固めて飛び出したのだけど、なにか違和感を感じた。
なんだろう、と下を見ると地面がないことに気がついた。
ああそうか、地面がなかったのか···。
地面が···地面がない?
「えっ」
がっくん、と体から力が抜けてゆく。
目の前に広がる青空。
眼下に広がる街並みに舞い上がるドレスの裾。
落ちてるわね。
「ぎゃあああああああああああっっっ!?!?!?」
「もうちょっと可愛らしい悲鳴あげたら?」
視界の隅で、シルクハットを頭に載せた少年がにっこりと笑った。悲鳴をあげながら大慌ての私とは対照的に、余裕な態度だ。その様子は落ちていると言うよりも、浮いているという表現が似合う。
「こんなっ状況でよくっ···あんたねぇ······」
「覚えてない?十年前もこうやって一緒に落ちたよね」
覚えていない。あの時はとにかく必死で──。
と、そこであることに気がついた。
この人は、誰だ?
私が知っているのは、森の奥のドアで元の世界に帰ることが出来るということだけ。なのに私はこの人の顔を見た瞬間「ああ、よかった」と確かに思った。これで帰れる、と。胸に広がった安堵感は微かに残っている。
「オイラは、ソラだよ。今度は覚えておいて」
私の疑問に答えるかのようにそう告げると、ソラは楽しそうに私の周りをくるりと回った。本当に浮いているのではないだろうか。綺麗な白髪が後ろに見える雲の色と重なって見えて、今にも消えてしまいそうで不安になった。
「ってことで、オイラは帰るね」
「は?」
「近いうちにまた会おうね、アズサ」
バチーン☆という幻聴が聞こえるほど綺麗なウィンクをかましたと思うと、ソラは私に向かって恭しくお辞儀をした。
そして一つ瞬きすると、痕跡を残すことなく消えていた。思わず手品のようだ、と感心してしまった。あれが覚えられたらきっと便利だろう。どうすることも出来ない状況に遭遇してしまった時とか···例えば今とか。後は今とか。
ソラァ!!!!!
十年前は一緒に落ちてくれたという彼も今度は一緒に落ちるつもりはないらしい。薄情な。
こうしている間にもグングンと地上は迫って来ていた。不思議なのは体に空気の抵抗がほとんどかからないことだ。ただただ落ちてゆく。
ドアや異世界やでこれしきのことにはもう驚いてはいられないが、怖いものは怖いしこの高さでは死ぬ。頭から落ちなければ、運良く木に引っかかれば、もしかしたら助かるという話ではない。落ち始めの最初に米粒程の大きさに見えた民家は、今や手の平程の大きさになっていた。
そこでふと、あることに気がついた。いつの間にか民家はほとんど消え、私の体は段々と草原に近づいていた。そこは木の一本も生えない真っ平らな平原に見えた。
お終いだ。
こんなことなら昨晩姉さんが夕食に出してくれた『お姉ちゃん特製フワフワパンケーキ』をおかわりしておくんだった。姉さんのパンケーキはそれはそれは絶品で普段の私なら三、四枚はぺろりと平らげてしまうのだが、食欲もなく味のしないただふわふわの物体を口に詰め込むのが苦痛で昨日は一枚で食事を終わりにしてしまっていた。
記憶の中の姉さんがフライパン片手に微笑んだ。ああ、姉さん···姉さんのパンケーキ······。
いよいよ迫った地面に、現実逃避していた思考を引き上げ、目をきつく閉じ、祈るように手を組んだ。
姉さん、ラウル。一人で勝手に帰った上に、勝手に死んでしまうような、最後まで駄目な妹でごめんなさい───。
「よっと」
体全体に衝撃が走る。衝撃からか首から腰にかけてがじんと痺れていた。「はっ」と、止めていた息をようやく吸い込むことが出来た。
あれ、思ったより痛くない。
目を閉じたままに、小さく首をかしげた。もしかして私は頭から落ちたのではないだろうか?落ちた瞬間に絶命して、ここは···あの世?
恐る恐る目を開けた。
「おーい、生きてんのか?」
赤い瞳。
こんな色の宝石を昔見た事があった。そうだ、名前は確かルビー。ルビーを思わせる真っ赤な瞳。吸い込まれてしまいそうなその瞳と数秒間見つめ合う。
やがて赤い瞳は私から視線を逸らすことなく、柔らかいものになった。
「おー、生きてる生きてる。びっくりだぜ、空から女が落ちてきやがった」
「そうよね、驚くわよね···。私もなんだかよくわかってないもの」
「って、本人もかよ」
そう言うと、青年は顔に苦い笑みを浮かべた。苦笑いがとても様になっている。少しだけ落ち着いてきたので、失礼を承知で青年の顔を眺めた。
漆黒の髪は短く、寝癖にも見える短髪特有の毛先の跳ねた髪型。真っ赤な瞳は少し釣り上がっているが、顔立ちからどことなく人の良さを感じられる。歳は私より二つ三つ上といったところだろうか。ほんの少ししか会話していないが、気さくで優しい雰囲気を感じた。整った顔をしている為女性からは人気が高いのでは?と、ぼんやりと思った。
青年の顔を眺めていて、まつ毛が長いな〜などと今全く関係ないことにまで思考が及び、そこである違和感に気がついた。
はて、なんで私はこんなに青年の顔を間近で見ることが出来ているのだろうか。
そもそも私は何故助かったのだろうか。
下を見て謎がさらに深まった。私の体は未だに地面から僅かな距離があった。
──まさか······浮いている!?!?
やっぱり死んでいたのか!と、真っ青になって横を向くとそこには青年の肩。見上げると青年の顔。正面を向くと不自然に持ち上げられた私の足。もう一度見上げると「え?なんだ?」と困惑した青年の顔。
このシチュエーションには覚えがある。
たった今置いてきた元カレに「お姫様抱っこさせてよー!」と懇願され、ちょっっとだけケーキを食べすぎた私と、ラウルの非力っぷりが上手く重なり合い、私を持ち上げることが出来ず土下座された悲しい事件。
そう、未遂で終わったお姫様抱っこもちょうどこんな体制だったような···ようなというかまんまなような······。
お姫様···抱っこ······。
ぼっ!!!!!っと顔から火が出た。
ラウル以外の男性とこんなに接触するのは初めてだ。しかも、会ったばかりの男性に抱えてもらうだなんで···。
「青くなったり赤くなったり忙しいやつだな」
青年は余程私の狼狽える様子が面白かったのか、小さく肩を震わせた。青年に声をかけられたことで、私は、はっ、とさせられた。
そうだ、私はまだこの人にお礼をしていない。
状況に動揺しすぎて、人として最低限の礼儀をすっかり疎かにしてしまっていた。
私が空から落ちてきて、そんな不審人物を受け止めてくれた人。彼のおかげで私は今生きていると言っても、ちっとも過言ではない。
「あの、助けてくれて本当にありがとう。もう大丈夫だから下ろしてもらってもいい?」
よく見たらドレスの裾も土で汚れている。上空の旅(命懸け)により土はカラカラに乾いていたが、万が一彼に付いてしまっては申し訳ない。
その思いで青年に下ろしてもらうように乞うと、青年は私をじっと見つめた。
「·········立てんのか?」
「え?」
「震えてんのによ」
「嘘っ······」
きつく組んだままだった手を解き、見つめる。確かに少し震えていた。
あまりにもみっともない姿に今更ながら羞恥が込み上げる。
だけれど、上空数百メートルから落下し、命の危険を感じたのだから仕方ないような···。
私が黙ったままでいると、青年は口角を大きくあげて、目を細めてにっこりと笑った。ああ、やっぱり。笑った顔はもっと人が良さそうだ。
「オレはコータってんだ。あんたは?」
「えっと、アズサよ」
「そっか、アズサな!覚えた!じゃあ行こうぜっ!!」
青年コータはそう言うと私をしっかりと抱え直した。
「ど!?どこに行くってのよ······あああああああああっっ!!!!!??????」
そして走り出した。
尋常ではないスピードに本日2度目の悲鳴と言うより叫び声をあげながら、私はコータの肩に手をまわしてしっかりとしがみつく。
私の平穏ではない日常がはじまろうとしていた。そんな予感が、する。