1 さよなら、異世界
「はぁっ···はぁ······」
今日の天気は憎らしいほど良くって、太陽の光がさんさんと地面に降り注いでる。そんな中、光も届かないような鬱蒼とした森の中を私はひとり走っていた。
バシャリ!と土が跳ね返る音がした。前日までの雨の影響で土はところどころぬかるんでいた。そんなことには構わずに、がむしゃらに足を動かしていたせいで、上質な黒のハイヒールは泥まみれになっていた。少し視線を上げれば、今日この日の為に仕立ててもらった露出の多過ぎない上品な真っ赤なドレスの裾にも土がこびりついていた。乾いてしまっていて、落とすのは難しそうだ。
鏡を見ることは出来ないが、きっと髪もボサボサで、お化粧もぐちゃぐちゃ。おそらく私は今世界で1番見るに堪えない姿をしている。
それでも、足を止める余裕なんてなかった。
遠くから鐘の音が聴こえる、今日の良き日を祝福する鐘の音が。
急がなくちゃ。
急いで、急いで、速く、速く、速く速く、急いで、急いで、だって私は───。
「アズサ!!!!!」
ぐんっと腕を強く掴まれる。
突然のことに体はバランスを崩して転倒しそうになるが、ふんばった。ガッツの勝利だ。
腕を掴んだ人物は、足を止めたままに、しかし私の腕を離すつもりはないらしい。これでは動けない。むき出しの掴まれた腕は、熱くって、痛くって、涙が出てきそうだ。
「君は···どうして······」
「どうしてって、始めからこうなるのは分かっていたじゃない」
仕方ないので振り返ると、そこには予想通りの人物が立っていた。
翡翠を思わせるタレ目がちな瞳に人形のような整った顔立ち。一般男性よりも少し長めの肩までかかる艶のある髪。どこに出しても恥ずかしくない、見慣れた青年がそこに居た。
普段と違うのは、整った顔立ちはくしゃくしゃに歪んでしまっていて、髪は枝にでも引っかかったのかあちこちが乱れている。
今日の為に、あなたの為に仕立てられた真っ白なタキシードも泥でところどころ汚れてしまっていた。これはきっと村長さんに怒られてしまうだろう。もちろん、この人のお嫁さんにも。
呼吸を整えるために何度か深呼吸して、体ごと彼に向き直った。
「早く戻って、あなたが姉さんをひとりにするなんて思わなかったわ。それに、あなたがこんな大事な日に花嫁置いて昔の女追いかけてくる男だったなんてがっかりよ」
「アズサッ!俺は···君のことをまだ過去のことだとは思っていないんだ」
「私は思ってるわ。帰ってよ、いいから一人にして」
吐き捨てるように言うと、彼は今にも泣きそうで、この世に一人取り残されてしまったような顔をした。いつでも飄々としている彼のそんな顔は初めて見た。そんな顔でさえ絵になって、胸が激しく軋む。
手を伸ばしてしまうのは簡単だ。手を伸ばして、この人がいつものように柔らかい笑顔を浮かべるまで、泣き顔を包んでしまうことも難しくない。
だけど私はそれをもうやってはいけない、いけないんだ。
「わかった、じゃあアズサ、一緒に帰ろう」
「······私はこれから一人で帰ろうとしていたの」
「今の君を一人にするのは不安なんだ」
私の腕をそっと離すと「ん」と当たり前のように手を差し出される。こんな状況なのに小さく笑ってしまった。
幼い頃から彼はよく私の手を引いて歩いてくれていた。そんな彼のことが、恋愛感情を抜きにして大好きだった。
姉に、彼に、沢山甘やかされて育てられた私は二人のことが大好きだった。いや、今でも大好きだ。
でも、もう一緒には居られない。
幼い頃、大好きな姉と彼が婚約したことがとても嬉しかった。あと何日待てば良いのか姉に毎日尋ねて困らせていた遠い日々。
待ち望んでいたその日が来たのに、私は祝うことが出来ない。
私の胸にはドロドロとした汚い感情がヘドロのようにこびりついている。
『なんで私じゃないんだろう』
『なんで姉さんなんだろう』
『私の方がずっと彼のことを好きなのに』
こんなにも汚い私は、大好きな姉をいつ否定してしまうかわからない、それだけは嫌だ。
大好きで、大切な姉さん。
いつか漏れ出てしまいそうな感情が怖いから、蓋をして、私は、私は───。
「帰ろうと、思うの」
「だから、一緒に──」
「いいえ、違うわ。帰る場所が違う」
「私は元の世界に帰るの」
途端にサアッと彼の顔から血の気が引いていくのがわかった。
彼から顔を逸らし、急いで駆け出す。
「待ってアズサ!」
「嫌よ!!!」
「待って!僕は本当に、本当に君のことが─」
聞きたくない。
捕まってはいけない、私は今度こそきっと絆されてしまう。
走馬灯のように彼と、姉さんと過ごした日々が色鮮やかに蘇ってくる。まるで「本当にそれでいいの?」と、問われているようだ。
ギッと瞳を吊り上げて、大きく開く。泣いてる暇なんてない。
懸命に走る、走る、走る。
足をもつれさせながら、ドレスの裾をぐちゃぐちゃにしながら、それでも足を止めることだけはしない。
と、突然ふわりと優しく腕を掴まれた。今度は後ろからではなく正面から。
「······間に、あった…?」
足元ばかり見ていた視線を上げると、小さな飾りのようなシルクハットを頭に載せた少年は、にっこりと微笑んだ。
「ばっちり!じゃあ行こうか」
「ええ」
差し出された手に、今度はそっと手を乗せた。乱れた息を整えながら、少年に手を引かれ歩く。
さようなら、私の世界。
さようなら、姉さん。
森の中にポツンと豪勢なドアが立っていた。
本来は建物に備え付けられているようなドアが、ただドアだけのままそこに存在した。
深く暗い森にそぐわない煌びやかで豪勢なこのドアには見覚えがあった。確か十年前にも私をこの世界に送り込んでくれたものだった。
シルクハットを乗せた少年がドアを開くと、後ろには何も無いはずなのに、ドアの先には青空が広がっていた。
「待って、アズサ───!!!!」
悲鳴のような、叫び声が聞こえた。
ほんの少しだけ、と振り返ると彼は顔面蒼白で、涙をこぼしていた。出来ることなら、最後に見る顔は笑顔がよかった。
「さよなら、ラウル」
私の好きだった人。
どうか、姉さんと幸せに。
彼女はそういうと、ドアに吸い込まれて、消えた。
帰ってしまった。
その事実に体の力が抜けていくのがわかった。思わずぬかるんだドロドロの土の上に膝をついてしまう。こうなる前にいくらでも対策は取れたはずなのに。後悔しても遅い、彼女はもうここに存在しない。
アズサ・マルチド
彼女は、十年前異世界からやってきた。