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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ
9/37

【キセイバチ夫婦噺】・1




【キセイバチ】

 寄生蜂。

 分類群でのくくりではなく、ハチの中で他生物に寄生する時期を持つ種の総称。

 その為コマユバチ、ヒメバチなど科の違う昆虫も一様にキセイバチと表現される。

 寄生の対象は植物、哺乳動物、同じ昆虫、果てはキセイバチに寄生するキセイバチまでいる。

 昆虫に寄生するキセイバチでは、成虫になる過程で、宿主の体を食い尽くして殺してしまうケースが多い。

 これを捕食寄生といい、寄生というよりも捕食の変形と考えられている。




 ◆




 居酒屋『こまい』。

 東京池袋は花座横丁に暖簾を出すこの店は、元々はまだ池袋にヤミ市があった頃、簡単な料理や酒を提供していた掘っ立て小屋が始まりだ。

 それが戦後十年、横丁の一角に店を構えるまで大きくなったのだから、店主の努力は相当だろう。

 もっとも当時ヤミ市で食品を売るのは普通に犯罪なので、そういう意味では決して誇れることではないのだが。


 ただ青線地帯である池袋では大抵の店が似たようなもの。

 責める者はいないどころか、後ろ暗さからくる妙な連帯感まである始末。

 実際“蓼虫の弥太”みたくタチの悪い女衒も居酒屋『こまい』の常連で、店主一人で切り盛りするこの店は有り難くも結構な人気。連日連夜、真っ当ではないお客で大賑わいだった。


「……またかよ」


 ただ『こまい』の店主、哲史 (てつお)の日々は順風満帆とは言い難い。

 戦争を生き残り、非合法の花街とはいえ自分の城を持ち、足繁く通う常連もいて。

 けれど上手くいかないことも多い。特に、男と女の話に関しては。


「そう、嫌そうな顔をしないでもいいではないですか、哲史さん」


 不快げに歪んだ顔を女はせせら笑う。

 開店前、いつも通り哲史が仕込みをしていると、約束のない来客が訪ねてきた。

 彼女は不定期に、ふらりと店の暖簾をくぐる。此処に来る頻度はそれなりだが、あまり嬉しい客ではなかった。


「うるせえよ」

「あら怖い。元とはいえ妻なのですから、もう少し優しくしてくれてもいいのに」


 訪ねてきた女は、小舞こまいという。

 三十半ばの、ふくよかな女性。愛嬌のある顔立ちといえばそうなのかもしれないが、その目だけがいやに冷めている。

 侮蔑、それとも嫌悪? 

 女が哲史に対してよい感情を抱いていなのは確かだろう。


「なんの用だ」

「私が訪ねる理由なんて分かっているでしょう」


 思わず舌打ちをしてしまう。

 ああ、分かっている。小舞がこの店を訪ねる理由なんぞ、一つしかない。

 哲史は面倒くさそうに店の奥へ引っ込み、戻ってくれば持ってきた封筒を乱雑に投げつける。


「今渡せるのはそんくらいだ」

「ひぃふぅ……多少少ないですが、仕方ありませんね」


 封筒にはいくらかの紙幣が入っている。

 一人で店を切り盛りして稼いだ、大事な金銭だ。けれど小舞は満足しなかったようで「こんなものか」とあからさまに落胆している。

 それが余計に哲史を苛立たせて、浴びせる声は自然冷たくもなった。


「とっとと出てけ」

「言われずとも。では、また来ます」


 鼻で笑い、女は一切の振り返らずに出ていった。

 小舞は偶に店を訪ねては、金をせびって帰る。

 いつものことだ。そう思っても気分は晴れない。

 ぽつんと一人残され、邪魔者はいなくなったが、仕込みに戻る気力は残っていなかった。


「くそっ」


 店の椅子に力なく腰を下ろし項垂れる。

 こういう時は一人が有り難く、こういう時は一人が辛い。

 でも、昔は、違った。


 もともと哲史はヤミ市で働いていたが、その頃は独り身でなく、妻が陰に日向に支えてくれた。

 だから自分の店を出す時、暖簾の文字初めから決めていた。

 居酒屋『こまい』は愛する妻の名にあやかったものだ。


 小舞は、別れた妻だった。

 優しくて、いつだって哲史を助けてくれて。

 なのに───


「なんで、こうなっちまったのかなぁ……」


 人のいない店内では呟きも良く響く。

 答える者は、いなかった。






 花に惑いて虫を食い『キセイバチ夫婦噺』







 青線地帯は、非合法の娼館町を指す。

 世間様に認められた赤線と比べれば多少後ろ暗くもあるが、非合法だからと、なにも質が落ちるという訳ではない。

 どこの花街にも人気の娼婦はいて。

 東京・池袋は花座はなざ横丁を根城とする紗子さえこもその一人である。

 

 紗子は二十歳をいくらか過ぎたくらいの女性で、娼婦として勤めて既に六年が経つ。

 もともとは“蓼虫の弥太”がどこぞから買い付けてきた女らしく、にしては中々の美人、立ち振る舞いにも艶があると評判は高い。

 身を寄せる小さな娼館からも、「彼女なら仕方ない」とある程度行動の自由が許されるくらいに稼げる娼婦だ。


「お仕事は、どうでしたか?」

「普通にこなしたよ」

「それは結構。しっかりと働きなさい」


 しかしいくら美人で娼婦として優れていても性格はよくない、少なくとも紅葉くれははそう感じる。

 実際、今日の“お仕事”の結果を確認する紗子は酷く冷たい。

 年上で、同じく蓼虫の弥太が買い付けてきた娼婦。立ち位置としては先輩になるのだが、だからってこうも上から目線で来られては腹も立つ。

 自然と紅葉の態度は悪くなり、紗子もそれを諫めず、家主の離れた家の居間はたいそう重苦しい空気だった。


「紅葉さん。仕事が終わったとて、家に住まわせてもらっているのだから、掃除くらいはするべきではないですか?」

「はいはい、分かったよ」

「まったく。もう少し、弥太郎さんに感謝してもいいでしょうに」


 弥太郎は新しい女を仕入れに長野へ出かけた。その間は生活も仕事も、紗子が面倒を見ることになっている。

 実際は逃げ出さないように置かれた監視だ。そういった役割を任されるのだから、随分と信頼はされているのだろう。

 どういう訳かこの偉そうな先輩娼婦は、蓼虫の女衒を随分と“立てて”おり、事あるごとに「弥太郎さんに感謝なさい」と小言を下さる。

 同じく買い叩かれて娼館に売られた立場だろうに、物好きな女だと紅葉は内心悪態をついた。


「体調に、不都合は?」

「……まあ、それは」

「娼婦は体が資本。これからも続けていくのなら、自分を大切にしなさい」


 ただ弥太郎に対して好意的な分、その商品である紅葉の世話も決して手を抜かず、こうして体調も気にかけてくれる。

 そういう時には流石に『体を売る女が、どうやって自分を大切にするんだい』と食って掛かったりはしない。

 ああ、と濁った返答をして、後はやはり重苦しい空気が戻る。

 溜息だって出るというもの。どうにも心身ともに休まらない日々が続いていた。


「おぅ、帰ったぞ」


 だから玄関の方から物音が聞こえた時、思わずほっとしてしまった。

 ようやっと家主が長野から戻ってきたようだ。

 弥太郎の帰宅を喜んだのはこれが初めて。あれも善人とは程遠いが、性格の悪い女と二人きりよりは何倍もマシ。よくぞ帰ってきてくれたと礼を言いたいくらいだった。


「なんだ、二人とも居間か」


 数日ぶりに顔を見せた弥太郎は相変わらず飄々とした振る舞いを崩さない。

 普段なら癪にも思うこともあるが今回ばかりは助かったし、仕事を終えてきたのだから少しくらいはねぎらうべきか。

 紅葉が最初の一言を迷っていると、紗子の方が先に一歩前へ出た。


「お疲れさまでした、お出迎えできず申し訳ありません」

「そこまで気ぃ遣うよな男でもねえさ。それより済まねえな、紗子。今回は手ぇ煩わせた」

「いいえ。弥太郎さんの頼みならいつなりとも」


 紗子の声の調子があからさまに高くなった。

 言うまでもなく先程までの厭味ったらしい響きはない。男に媚びを売る、いかにも娼婦らしい態度だ。よくもまあここまで変わり身早くなれるものだと感心してしまいそうになる。


「はは、嬉しいこと言ってくれるじゃねえか」

「あら、冗談だと思っていますね? 本当なのに」


 紅葉は二人の遣り取りを黙って見詰めていた。

 花座横丁には多くの娼館がある。

 といってもそこは違法の花街。例えば一軒家を改造したものであったり、定食屋の二階がベッドルームになっていたりと、変わった店も多い。

 紗子も蓼虫の女衒に目を付けられ、そういう規模の小さい娼館に売り飛ばされた女性だと聞いた。

 にも拘らずあの気安さはどうだ。恨み節などは口にせず、傍目には弥太郎を慕っているようにしか見えない。

 勿論のこと、娼婦の振る舞いにどれだけの信を置けるかは別の話であるが。


「お前さんは良い娼婦だからな。話半分で聞くようにしてんだ」

「つれないお人ですね」

「ま、助かったは助かったよ。おかげで仕事も片付いたしな」


 娼婦の褒め言葉に気をよくするほど純朴でもなし、世辞は軽く流す。

 であれば弥太郎の機嫌が普段より良い理由は、紗子との会話ではなく背に隠れた小柄な人影のせいだろう。


「その、娘は?」


 僅かに紗子の目が細められた。

 白髪の、若いよりも幼いといった印象の少女。人目を惹く端正な顔立ちだが、白すぎる肌の色は奇異にも感じられる。美しくも少しばかり“はずれた”容姿は、蓼虫の弥太が好んで買い付けそうな娘ではあった。

 女衒に連れられても怯えた様子はない。穏やかというよりも、ぼんやりとした目で彼女はこちらを見ていた。


「仕事の結果さ。ちょいと話を詰めたいんで、礼はまた今度にさせてもらうが、構わねえか?」

「……分かりました。では私はこれで」

「おう、またな」


 不興を買いたくないのか、納得は早かった。

 紗子は小さく頭を下げて、二人の横を通り過ぎ玄関へと向かう。途中、背に隠れた娘を一瞥した。そこに籠められた意は、表情を見ることのできなかった弥太郎はもとより、黙したまま状況を眺めていた紅葉にも分からない。

 ただ、なにか。少しだけ、濁った光が宿ったような。


「んで、紅葉の方はねぎらいの言葉もなしか?」


 けれどその違和感もいつも通り弥太郎が振る舞うものだからすぐに霧散した。

 時機を逃してしまったせいで挨拶もできないまま。どうにも居心地が悪く、誤魔化すように紅葉はほんの僅か顎を引いた。


「やれやれ。相変わらずだね、お前さんも。ま、逃げなかっただけ良しとするさ」

「別に、最初から逃げるつもりなんてなかったけれど。監視も置かれていたし」

「はは。紗子は厳しいだろ?」

「厳しいっていうより、あれは単に嫌な奴じゃないか」


 紗子と反りが合わなかった紅葉は不満に頬を膨らませている。

 最近は娼婦の振る舞いが板についてきて、十代の少女らしさは鳴りを潜めていた。その分邪気のない仕草が殊更面白く見えたのだろう、弥太郎はくつくつと笑っている。


「いやいや、あれで案外可愛いんだぜ? それに娼婦としちゃ見習ってもらいたい部分もある」

「あの女みたく、甘ったるい喋りで媚びを売れって?」

「そうじゃねえよ。あいつくらいの骨っ節が欲しいって話さ」


 紅葉から見た紗子は、厭味ったらしい喋り方をするくせに男には媚びる、女の悪いところを煮詰めたような輩でしかない。

 骨っ節と言われても、あれに貫くような強い意志なんてあるとは思えなかった。


「思いっ切り納得いってねえ顔だな」

「そりゃあね。あんた女衒のくせに女見る目がないよ」

「手厳しいねぇ」


 反論もせず肩を竦めるだけなのは初めから取り合うつもりがないから。

 そういうところも腹立たしいが言っても聞かないと重々承知の上。そんな暖簾のれんに腕押す会話よりも彼の背後にいる少女の方が気になって、すっと視線を滑らせる。


「こん、にちわ」


 目が合うと、幼げな娘はぺこりと小さくお辞儀をした。

 たどたどしい物言いは緊張からか、喋り慣れていないのか。どちらにせよスレていない所作で、だからこそ紅葉は不快感を露わにする。

 まさかこんな小さな女の子まで攫ってくるとは。非道の女衒を冷たく睨み付けるが、当の本人はどこ吹く風。


「一応言っとくが、これでもお前さんより幾らか年上だぞ」

「……冗談だろ?」

「いや、掛け値なしに」


 なにせ少女……神の娘である彼女は、幼く見えても実年齢二十歳。

 既に成人しているのだから問題は欠片もないと、そもそも人買いに問題があるということも忘れて弥太郎はどこか自慢げだ。


「こいつは“りる”。しばらくはお前さんと同じくこの家で生活する。仲良くしろとは言わないが、喧嘩して怪我なんてのは避けてくれよ? 勿論お互いにだ」


 商品がキズモノになる前から傷物になっては買う側も興覚め。

 これからは共同生活をすることになる。紅葉の方は滅多な真似はしないと思うが、一応は釘を刺しておく。納得したのかしていないのか、どちらも黙ったままだった。


「さて、と。りる、お前はこれから娼婦として働く訳だが、ただでさえ田舎の村の出で、その上に箱入りと来た。色々と勝手が分からんだろうから、しばらくはこの家に住みながら娼婦の振る舞いを学んでもらう」

「私、を。抱くの、ですか?」


 容姿こそ幼いが成人しているのだから、そういった行為にも必要以上の拒否感はないのか。

 物怖じもせず、言い難いところを彼女はっきりと口にする。


「いいや、商品には手を付けないのが信条でね。それにおぼこい娘にゃ高値を付けるって紳士は結構な数がいらっしゃる。手慣れてるってのは魅力だが、手慣れてないってのも魅力なんだ」


 女衒としてはわざわざ娼婦の価値を貶めたくはない。

 処女なら高く買う客ばかりでもないが、娼婦は楽しませてこそというお方々は一定数おり、ならば折々を見ていい客を斡旋するのが自分の仕事だと弥太郎は考える。商品の質を下げるのは商人の一分に反するのだ。


「まぁ、初めての時は乱暴をしない、弁えたお客を斡旋するさ。ただお前さんの場合、まずは基本的なことから学んでいかにゃな」

「きほん、てきな」

「“人の中で生きていく”ってことさね。いつまでも、虫篭の中のお姫様じゃいられないだろ?」


 分かりましたと、やはりたどたどしくりるは頷いた。

 女衒に買われた少女は柔らかく微笑んでいる。紅葉からすると、妙に弥太郎と仲がよさそうにも見える。

 りる、といったか。

 見目麗しいのは間違いないが、なんとなく、腹の読めない相手だと感じた。


「このおっかない娘は紅葉。なんかあったら頼りな」

「おっかない娘って、あんた本当に失礼だね」

「事実だろ? だが頼まれごとを途中で投げ出すよな女じゃなし。りるの面倒、ある程度は任せるよ」

「信用してる、とでも言いたいのかい」

「信用も信頼もしてねえさ。言ったろ、ただの事実だってな」


 どっちにしろお前は同じ身の上の哀れな女に無体な真似はできないだろう。

 言外の指摘は確かに事実で、いい様に使われている自分に紅葉はほぞを噛む。


「そう睨むな。飢える心配がない程度には世話を焼くんだ、ちょいと手伝いしたって罰は当たらないと俺ぁ思うぜ?」


 こういうところが、紅葉はあまり好きではない。

 この男は鈍感ではなく、こちらの内心など察している。

 けれど特に声をかけたりはしないのは、結局、弥太郎にとって彼女らは商売道具でしかないから。

 大切に扱うし気も遣うが、情があるかと問われれば首を横に振る。

 女衒が売り買いする個々人にまで入れ込んでは商売にならない。恨まれ過ぎても後々困る。

 だから頭ごなしの叱責はせず、なるたけ軽薄に振る舞う。

 そこそこ、それなり、適当に。角は立てても怪我するほどにはぶつからず、くらいの距離。

 その手慣れた、しかし娼婦を蔑ろにした振る舞いが、紅葉には苛立たしく思えた。


「弥太郎さん、は。繊細で。とても、暖かい、ですね」


 なのに、りるという女は、涼やかに微笑んで呟く。

 繊細、暖かい。紅葉の抱く印象とはまるで違った。

 どうしてそういう感想が出てくるのか、理解できず少し戸惑ってしまう。


「おいおい、女衒に言うセリフじゃねえだろ。ま、繊細な男ってのは認めるがな」


 それに返す弥太郎は、相変わらず飄々としている。

 軽く流してそれでおしまい。お互い笑顔、和やかな会話、問題なく良い関係を築けている。

 それ自体は良いことだが、よく分からない二人のやりとりになんとなく疎外感があった。

 同時に、少しだけ。

 りるの透き通った目が苦手だと、紅葉はそう思った。




 ◆




 こうして、りるの池袋での生活が始まった。

 一応は娼婦見習いという立ち位置だが、実際にはしばらく客を取らせるつもりはない。

 なにせ神の娘だ。

 人の心に巣食う虫を視る、奇怪な特技をお持ちでいらっしゃる。

 そもそもが箱入りで、客の相手をいきなりさせるのも不安。色々慣れるまでは仕事をさせず、日常で“普通の感性”を身に着けてもらうつもりだった。


「よし、ではこれから朝食を作っていく。今日の味噌汁は大根だな」

「は、い。分かり、ました」


 その初めは朝食作り。

“男やもめに蛆がわく”とはいうが、娼婦を自宅に住まわせることの多い弥太郎は、炊事掃除に洗濯と最低限の家事くらいなら身に付けている。

 だからという訳ではないが、まず家事を覚えてもらう。 

 今まで何一つとしてやってこなかったりるには、こういった生活の為の技能から教えていった方がいいと思った。


「さあ頑張れ紅葉。初めてだから、ちょいと優しくして教えてやってくれ」

「いや、そこはあんたが頑張るところじゃないのかい?」

「俺はあれだ、監督兼味見役だから」

「ただ楽してるだけじゃないか」


 もっとも、実際に指導するのは紅葉である。

 この時代には珍しいが、別段弥太郎は「家事は女がするべき」とは考えていない。三十路手前で未婚の彼は、悲しいくらい台所に拒否感がなかった。

 それでも任せるのは、どうせなら女性陣に打ち解けてほしいから。

 どうやら紅葉は、りるに対して苦手意識を持っているようだ。

 なら早めに慣れておいてほしい。女二人でギスギスして自宅でくつろげないなど勘弁願いたかった。


「よろしく、お願い、します」

「ああ、うん」


 りるの方には何のわだかまりもないようで、しっかりとお辞儀して教えを請う。

 年齢では上の筈だが、容姿といい仕草といい幼く、毒気を抜かれたのか紅葉は小さく苦笑した。


「まあ、仕方ないか。いいよ、一から教えてあげるから」


 もちろん一回料理を一緒にしたくらいで仲良くなれるほど人間単純ではない。

 しかし共同生活をする以上、『内心はどうあれ顔を合わせれば普通に挨拶できる』程度の親しさは必要だろう。


「包丁の持ち方は、こう。そうそう、自分の指を切らないようにね」

「気を、付けます」

「ホントは色々並行してやるんだけど、慣れないうちは一つずつ片付けていこう」


 つまりこの料理指導は、りるの技能向上であると同時に、『これを契機に立ち振る舞いを考えてくれ』という家主からの要望だ。

 そういう言葉の裏を読んだのか、それとも自然体か。とりあえずは二人とも、表面上は諍いなく料理をしている。

 台所に並んで料理する姿は、仲の良い姉妹にも見える。どちらが姉でどちらが妹かは、言うまでもないが。


「うまく、いきそうか?」

「できるのをおとなしく待ってな」


 背中に声をかければ、つっけんどんな答えが返ってくる。

 できる、というのは料理のことか、もう一つの方か。弥太郎は肩を竦め、どちらにせよ言われた通りおとなしく待つ。

 とんとんと、食材を切る音。くつくつと、鍋の煮える音。かちゃかちゃと、食器の触れ合う音。眠くなりそうなくらい暖かな響きが耳を擽ってくれる。

 朝っぱらから酒を呑むダメ人間ではあるが、偶にはこういうのも悪くない。

 あくびを一つ。緩やかな朝を持て余しながらも寛ぐ。


「ほら、食卓に運ぶから気を付けて」

「は、い」


 しばらくして朝食の準備が整った。

 最後の運ぶところですっ転びぶちまけるなんてオチもなく、食卓にはきっちりと料理が並べられている。

 ごはんに大根のみそ汁。メザシに葉物のお浸し、後はたくあん。

 豪華ではなく手も込んでいない。けれど今まで家事の経験など一度もないりるにとっては重労働だったろう。

 それもどうにか完成して、表情はどこか満足げに見えた。


「おう、美味そうじゃねえか」

「ほとんど、手伝ってもらい、ましたから」

「まあ、初めはね。次からはちょっとずつ任せる量を増やすよ」


 言われずとも紅葉は引き続き面倒を見るつもりらしい。

 同じ身の上の哀れな女に無体な真似はできない。弥太郎の指摘は決して間違いではなかった。


「おし、じゃあ食べるか。っと、その前に」

「どうしたんだい?」

「ああ、今回行った村の村長さんからお土産に佃煮を貰ったんだ。メシの供にと思ってな」

「あんたに、お土産……?」


 大切な村民、いたいけな娘を買い叩いていく女衒に、お土産。

 伊之狭村の事情をまるで知らないから紅葉すると、奇妙な話と感じられる。

 弥太郎はいそいそと佃煮の瓶詰をとってきて、どんと食卓の中心に置いた。


「普段は酒の肴にするんだが、せっかくだし皆で食おう。酒の肴はだいたい米にも合う」

「へぇ。なら、ちょっともらおうか……ひぃっ!?」


 とまあ笑顔で持ち足してきた瓶詰は、長野の農村で作られた佃煮な訳で。

 長野では昆虫食が盛んであり。

 端的に言えば、お土産はイナゴの佃煮である。


「なっ、なな」

「イナゴの佃煮だよ。農村だと貴重なタンパク源だし、これが意外と味もいいんだ」


 数匹ではきかない量のイナゴが瓶の中にぎっしり。

 元々農村の出身である弥太郎はまったく気にならないのだが、紅葉は外見の醜悪さに思い切り引いてしまっている。

 当然りるも生まれ故郷で食べているので、なんの躊躇いもなく箸を伸ばし、普通に口の中へ放り込む。


「ちょ、りる! ぺっ、しなさい! ぺっ!」


 繰り返すが、りるは二十歳。紅葉よりも幾らか年上である。

 それを完全に忘れてしまうくらい動揺し切っていた。


「虫、おいしい、です」


 けれど、しっかりと咀嚼して飲み込む姿を、紅葉は信じられないと呆けた顔で見ている。

 続いて弥太郎も一口。

 濃い目の味付けで煮付けて、かりかりとした歯ごたえもよい。酒の肴には勿論、白い米とも相性は中々だ。


「うん、いける。やっぱ酒飲むかな……」

「ごはん、では。ダメですか?」

「そういう訳じゃないんだが、こう、濃い味を食べるとな」


 虫をつつきながら和やかにお喋りする二人

 食い意地が張っており、美味けりゃなんでも食べる。見た目の悪さは認めるも、昆虫食に対する拒否感は弥太郎には殆どない。

 実はこういうところが、心の虫を喰らう女に偏見なく接することができた大きな理由なのかもしれない。


「え、えぇ……」


 残念ながら紅葉はその輪の中に入ってはいけない。

 一緒に料理を作って、一緒に食卓を囲んで。

 初対面の時からすれば、りるとの会話もぎこちなさは減ったと思う。

 ただ笑顔でイナゴを食べる彼と彼女に、別の軋轢が出来たような気はしないでもなかった。




 ◆



 ここ数日、なにやら幸運が続いている。

 

「ほれ」


 りると暮らすようになって数日、紅葉も随分慣れてきて、今では二人に留守番させて外をぶらつく余裕もある。

 そういう訳で久しぶりに朝から居酒屋『こまい』へ。

 相変わらず閉店ギリギリを狙って行くので弥太郎以外に客はおらず、おかげでくつろいで一杯やれる。

 肴は漬物だけ。ゆっくりと酒を楽しんでいると、店主が注文していない皿を出してきた。 


「なんだこれ」

「いつものご愛顧に感謝してって、とこだな。別に金は取らねえよ」

「いいのか?」


 クロダイの刺身。無料で提供するにはちょいとばかり高級だ。

 怪訝な目で見れば、気にするなと店主は手をひらひら二度三度振った。


「実は昨日の夜、予約してた客が急に来れなくなったんだ。全額前金だから損はないが、食材が余っちまった。払いは済んでんだし、腐らせるよりゃ客に出しちまえってな」

「そういうことなら有難く。いやぁ、タダより旨い飯はありません、っと」


 そこで余った食材を売りつけないのは店屋の主の一分か、もしくは単に商売っ気がないのか。

 どちらにせよ、折角ご馳走してくれるというのだから野暮な突っ込みはなし。いや、タダでクロダイにありつけるとは、本当に近頃は幸運が続く。

 ちょんと醤油をつけて口に放り込んでは舌鼓。すぐさま酒を流し込み、朝っぱらからけっこうな贅沢だ。


「ん、うめえ。なんか最近ツイてんなぁ」

「刺身程度で大げさだな」

「いんや、今回だけじゃなくてな。客から菓子の詰め合わせやら酒やら貰ったり、失くしたと思ってた小物が見つかったり。思いがけない幸運ってヤツが立て続けだ」

「ほぉ、羨ましいこって。座敷童でも家に居付いたか?」

「神の娘なら、うちの居間でだらだらしてるけどよ」


 言ってから「なるほど、これも神のご加護だったか」などと薄く笑う。

 勿論のこと神仏など信じておらず、浮かんだのは単なる冗談にすぎない。そもそも悪辣を是とする女衒ならば、ご加護を得られるような輩でないのは重々承知の上だ。


「神の娘?」

「なに、ちょいと毛色の変わった女を仕入れてきたってだけさ。今度のは多少幼げな程度で、まっとうに見目麗しいぜ」

「そいつは珍しい」

「だろう? たまには上等な葉っぱもかじらにゃな」


 本人にそのつもりはなくとも、蓼虫の悪趣味は周知の事実。

 いっそ笑い話にと軽い調子で言えば、向こうも合わせてくれた。


「もう客はとらせてんのか?」

「いやー、どうにも、いいとこの箱入りでな。色々と下準備がいるんだよ」


 神の娘は、カイコのお姫様。

 何にもできない、人の手を借りねば生きていけない。そういう彼女だから、ただ娼館に売りつけても利用されるだけ。

 まずは最低限一人で生きているように仕込まねばならない。

 コオイムシの屋敷からりるを連れ出したならば、それが責任というものだろう。


“あなたは、最期には。あなたの大切なものに呪い殺される”


 ……いったい、いつまで面倒を見てやれるかも、分からないのだし。


「相変わらず、売り飛ばす前の教育までしてんのか。普段は万事適当のくせして、妙なところでマジメだな」

「マジメっていうか、職責ってヤツだ。ゲスの女衒にも一分はある」

「職責ねぇ。余計なもん背負い込まんでも、もう少し楽すりゃいいだろうに」


 地方で買ってきた女など、すぐさま売り飛ばす女衒がほとんど。

 そうしたって誰も責めないし、そうしなかったとて褒められもしない。だというのにわざわざ苦労を背負い込むのだから物好きなことだ。

 呆れたような店主の言葉に、とんとんと、弥太郎は自身の胸を二度ほど指先で叩く。


「なに、卵背負って泳ぐよりは楽な生き方だよ」

「は? 何の話だ?」

「コオイムシの話さ」


 いきなり虫の話をされて店主は怪訝そうな顔。

 しかしコオイムシのあれこれは既に終わったこと。特に説明はせず、すぐさま次の話題を持ち出す。


「ところで、しばらく花座を離れてたんだ。何か面白い話ねえかな?」

「数日で変わるかよ。いつも通り、池袋は下品なくせして活気だけはある街だ」

「はは、そいつぁなにより」


 誤魔化しのような雑談だったが、返ってきた答えに少しだけ気分も良くなる。

 日々を真面目に生きている方々すれば花街なんてものは、男が娼婦を買う品のない場所でしかないだろう。

 だが花街には独特の熱がある。

 下品であるのは間違いなく、女を売り買いするクソったれた奴らが集まるのも確か。


 しかし非合法のヤミ市から発展した池袋は、荒れた日本を支えてきた。

 まっとうな社会からあぶれた負け犬と謗られようが、それでもごみ溜めの中でも必死に生きてきた。

 一般の評価はどうあれ、弥太郎は青線での暮らしも、女衒としての生き方もそこそこ気に入っていた。

 けばけばしいネオンも、蒸れたような甘い香りも、剥き出しの野卑な情欲すら、慣れれば中々に風情があるものだ。


「そうだ、大将。件の娘っ子、今度顔見せに連れてくるから、美味い飯食わせてやってくれねえかな」

「そりゃ構わねえが、金は払えよ」

「当たり前だろ。後ついでに、お銚子もう一本追加しとこうかね」

「あいよ」


 気分がいいと酒も旨い。

 クロダイをご馳走になったことだし、もう少し売り上げに貢献しておこうと追加注文。

 というところで、乱雑に引き戸が開けられる。

 やけに音が大きく響いて、驚きにちょいと視線を滑らせれば、既に閉店にも拘らず暖簾をくぐって女性が店へ入ってきた。


「こんにちわ、哲史さん。……あら、まだお客さんがおられましたか」


 三十半ばくらいの女性。

 なかなか愛嬌のある顔立ちはしているが、娼婦のような“匂い”はしない。少し、雰囲気が冷たいか。

 店に誰もいないと思って入ってきたのなら、初めての客でもないのだろう。


「小舞……」


 それは顔を顰め、店主が女の名を呟いたところからも分かる。

 同時に若干低くなった声からすれば、あまり嬉しくない来客でもあるようだ。


「よう、大将。俺はもうちっと飲んでいたいんだが」


 なら常連としちゃあこれくらいの気遣いは必要。

“もしも、あの女を追っ払いたいんなら、俺を理由に使ってくれ”

 暗にそう伝えれば店主は少しだけ目尻を下げ、しかし首を横に振る。


「悪いな。今日はもう店じまいだ」

「えぇー、なんなら床に転がって、軽く引くくらい駄々こねるのもやぶさかじゃねえぞ」

「やめろ。いや、それは本気で」


 感謝は、するが。

 ぎこちなく付け加えて、結局ほとんど無理矢理に弥太郎は店を追い出された。

 多少以上に乱暴な扱いだったが別に腹は立てない。

 男と女のお話を聞かれるのはそりゃ嫌だろうし、こちらとしても無理に首を突っ込んで痛い目は見たくない。


「しっかし、大将も男だったわけだ」


 だから大して気にもせず、ぶらりその場を後にする。

 りるを紹介する時には多少落ち付いていりゃあいいな、そのくらいの心持ちだった。







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