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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ
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【コオイムシの屋敷】・4




 産まれてから家の外に出たことはなかった。

 父はねっとりと、甘い蜜のような口調で何度も何度も語る。


『ああ、“りる”。かわいい、かわいい私の子供』


『忌まわしきものの混じらぬ、美しき神の娘よ』


『どうか、そのまま』


『澄み切ったままに在っておくれ』


 私は神の娘だから。 

 外に出てはいけないのだと。


 向けられた言葉はまるで呪詛のようだ。

 染み渡り、私そのものを侵していく。




 だから、たぶん、わたし、は────







 囲炉裏の火に照らされて、居間は橙の色味に塗られている。

 村の富豪の屋敷は敷地こそ広いが豪奢といった風情ではない。

 居間も板張りの床に茣蓙ござ。額に入れた水墨画を飾り、桐のタンスが備え付けられ、中心の囲炉裏には自在鉤に鍋。電灯がなく火の灯りに頼った、落ち着いた内装だ。


「ふぅ、ごっそうさん」


 居間には三人。弥太郎と正義。そして買ったばかりの娘、りる。

 男どもが年頃の娘の家に押しかけて、どっかりと腰を据えて晩ご飯をかっ食らう。傍目には些か奇妙かもしれないが、とうの本人らは然程も気にしてはいない。仲良くとは言わないまでも、少なくとも険悪にはならず、実にくつろいだ食事風景である。

 麦飯に、漬物。魚の干物。うっすい味噌汁。 

 ご馳走とは言わないまでも、田舎の村にしては頑張ってくれた方だ。味はそこそこ腹も膨れたし、特に文句はない。

 食べ終えた弥太郎は茶碗を置いて、居間の入り口辺りに控えていた村の女へ声をかける。


「では片付けさせていただきます」

「いやぁ、すんませんね。据え膳上げ膳で」

「いえ」


 食事は村長の嘉六かろくが用意してくれたものだ。

 なんでも父を亡くしたりるの面倒は村長が見ているらしい。

 といっても実際の世話は村の女に丸投げ。内容も掃除だの風呂だのを世話して、食事を毎度のこと運ぶくらい。それでも働かざるを食わせているのだから、破格の待遇と言えるだろう。


『どうせあの娘の分も作ります。ついでと言ってはなんですが、どうぞ召し上がってください』


 しかも村に滞在する弥太郎らの夕食まで用意してくれるのだ、この点に関しては嘉六を擁護したくもなる。

 勧められたからには食べなきゃむしろ失礼というもの。

 しっかりご相伴に預かって、食べ終えれば村の女が三人分のお膳を片付けて出ていく。

 手慣れたもので無駄口一つ叩かない。真面目に仕事をしている、ばかりでないのは明瞭。女はりるに一瞬たりとも視線を向けなかった。


「しっかし、すげえ雨だなぁ」


 態度の冷たさの意味くらいはなんとなく察したから、敢えて大げさに溜息を吐く。

 弥太郎は食後のお茶を啜りつつ、屋根のあたりで視線をさ迷わせた。室内には遠く近く雨音が染み込んでいる。


「昼間は雲の一つもなかったってのによ」

「確かに随分と急だった。山の天気は変わり易いというが」


 夕暮れ頃から降り出した雨は、夜半さらに強くなった。

 日が落ちてからの山越えなどわざわざしたくはない。神の娘、りるの買い付けは滞りなく済んだことだし、一晩村で休ませてもらってから東京へ戻るつもりでいた。

 ところがしばらくすると雨が降り始め、夜が深まる頃には木造の家屋が軋むのではないかと思わせる豪雨へと変わった。

 これが続くなら足止めになるし、朝に上がったとして山道はひどいぬかるみだろう。どちらにせよ逗留は数日ほど伸びてしまうかもしれない。


「案外よ、お天道様も神の娘を離したくないって言ってんのかもな」

「ならこの雨は弥太のせいか」

「いやいや、過保護なお空の責任まではとれねえよ」


 まるで東京へ戻るのを邪魔するかのような雨だ。

 そんなにあの少女に行ってほしくないのかと茶化してみれば、意外にも正義が乗ってきた。

 男二人の馬鹿なやりとりを、興味があるのかないのか、りるはぼんやりと眺めている。借りた宿はそれなりに穏やかな空気ではあった。


「しかし、済まなかった。なし崩しで泊まる形になってしまった」

「大丈夫、です。私以外には、誰も、住んでいま、せんから」


 正義は年下のりる相手にもしっかりと頭を下げる。

 雨に足止めされて村で一晩を明かす羽目になったが、当然ながら田舎の集落に宿泊施設などはない。そのため彼らは雨宿りに神の娘が住まう神殿、つまり今は亡き富豪の家の屋根を借りることにした。

 屋敷の現在の所有者はりるなのだから、彼女を買った以上一晩二晩泊まるくらいは許されてもいい筈だ。弥太郎の無茶苦茶な物言いだが、当の本人が「どう、ぞ」と微笑みながら認めてくれたので、ありがたく体を休めさせてもらっている。


「実際助かった。あんがとよ、りる」

「いい、え。なにも、ありま、せんが。くつろいで、ください、弥太郎さん」


 やはり彼女と視線は重ならない。初めからずっと、胸の辺りを見詰めている。

 しかし視線を合わせたくない、それくらいに嫌っているという訳でもなさそうだ。

 蓼虫の女衒に対して、なんら含みはない。それどころか口の端には微かな笑みさえ浮かぶ。

 その柔らかさがあまりに自然だったから、弥太郎らは驚きに目をまん丸くした。

 

「おい、弥太。なにをした」

「いんや、なんにもした覚えは」

「ならなんで名前で呼ばれるようになっている」

「一応挨拶くらいはしたけどよ、ホントなんでだ?」


 男二人でひそひそと密談、声は潜めるが動揺は隠せていない。りるの態度は彼らにとってそのくらい奇異なものだった。

 なにせ非合法の娼館街を根城とする、悪辣な女衒ご一行。たいていの女性には蛇蝎だかつのごとく嫌われる。

 もちろん逆の場合もある。敗戦した日本は困窮し、日々の食事さえままならないご家庭だって多い。そういうところの娘ならば、娼婦であっても食えるだけマシと前向きに捉えたりもする。


 だが、りるは村の富豪の一人娘。今まで働かずに食べてきた。

 そういう娘は、人身売買など嫌悪してしかるべき。それが二人の見解だった。

 にも拘らず、たどたどしい語り口ではあるが和やかに応じる少女……いや、実年齢ならば二十歳。であれば女性と呼ぶが正しいか。ともかく、この幼く見える娘は意外過ぎるくらい現状を受け入れており、弥太郎に対し僅かながらも親愛を見せる。正直に言えば、ここまで好意的に応じられるとは思ってもみなかったのだ。


「なぁ、単純な興味だから別に答えたくなかったらいいんだが。てめぇを売りさばこうっていう男が憎くはないのかね?」


 クズだという自覚はある。世間様に顔向けできない職業だと、十分以上に理解していた。

 だからこそ柔らかな振る舞いが気になり問うてみれば、やはり柔らかさは変わらないまま、りるはゆったりと頷いてみせる。


「特には。むしろ、感謝、しています」


 意味が分からず「なんでだ?」と問いを重ねたが、今度はなにも返ってこなかった。

 ただ、りるの答えに嘘はないように思えた。それが余計に不思議で、どうにも居心地が悪くなって自然と会話は途切れる。


 しばらくは沈黙が続いた。

 空気が重い、という訳ではない。ただ特にやることもなく、会話もないとなれば、居座った静けさに殊更雨音が耳を突く。

 正義も同じらしく、どことなく憂鬱そうに呟いた。


「この雨勢うせいでは上がってもすぐに帰るのは難しいかもしれないな」

「だな。仕方ねぇし、ちょっとした骨休めだと思おうぜ。お互い急いで帰る理由もねぇだろ?」


 なにせ女衒と無職。二人して真っ当とは言い難く、のんべんだらりで誰かに怒られるようなこともなし。

 紅葉を一人にしておくのは気掛かりだが、ぬかるんだ山道は危ない。無理を押して命を落とすなんぞごめんだった。


「なあ、りる。布団は借りたいんだが」

「はい。お客、さま用の、ものがあります」

「んじゃ寝床の準備をするか。ってことでマサ坊、頼んだ。俺はだらけんのに忙しい」

「ああ」


 雑事は全部押し付ける、そういう契約なので素直に正義は従う。りるの案内で居間を出ていき、弥太郎だけが残された。

 のっそりと体を起こし、改めて室内を見回す。

 お値段のしそうな水墨画だな、とか。家具も上等そうだ、とか。下世話なことを考えつつ部屋の様子を観察し、目に留まったのは桐のタンス。正確には、その上に置かれた小物たちだ。


「お、なんだこりゃ、ブサイクな人形」


 近付いて、そのうち一つを手に取った。

 決して精巧ではない、むしろ作りの荒い木彫りの人形。そういえば村役場にも似たようなものがあったか。そんなことを考えつつ指先で触れてみるがホコリはつかない。

 部屋の中も散らかった様子はなく、床もくすんではいない。りるの世話をしているのは村の女だと聞いたが、意外と掃除は行き届いている。


「もっと適当な扱い受けてると思ったんだが、意外とそうでもないのかね」


 神の娘。

 富豪の子供として今まで一切の苦労を負わず、働かずに飯を食って育った箱入り。

 実に疎まれやすい立ち位置だ。事実、食器を片付ける時の態度を見れば、りるに対する村民の感情は透けて見える。

 それでも飯は運ばれてくるし、家だって清潔。扱いが悪いという程ではない。


 となると、父を殺したというのは。


 父は、私が殺しました。

 例えばそれが事実だったとして。

 件の富豪を手に掛けたのが、りるだったとして。村の中心人物を殺しておきながら、こうもまともに世話をしてもらえるものなのか。


 まさかだ、そんな訳があるか。

 恨まれて当然、下手したら私刑に遭ってもおかしくない。しかし現状はせいぜいが疎まれる程度。その扱いには多少以上に違和感がある

 だとすれば本当は殺していない?

 それはそれで、何故あんなことを言ったのか分からなくなってくる。


「なんだかなー、楽に仕事終わったと思ったのによー」


 結局うまい答えは出ず、思考も視線もあちらこちら。

 肩の荷が下りたと思ったら、今度は肩を落とすような状況。我が肩ながら忙しのないことだと、弥太郎は大きく溜息を吐いた。




 ◆




 正義は二十代後半の精悍な青年で、働き盛りの年頃でありながら定職にはついていない。

 無精髭を生やし、衣服はいつもくたびれていて、いかにも非合法の娼館街に出入りする男といった風情である。

 しかしその実、彼は青線をねぐらとする割には、いささか真っ当過ぎる男だった。

 日雇いとはいえ仕事は真面目にこなす。

 世話になった相手であれば義理も果たす。

 金で女を買う女衒にも、様々な理由で娼婦へと身を墜とす女にも思うところはある。

 正義の感性は花街に染まった弥太郎とは違い、ごくごく一般的なものだ。

 

 だから女衒に目を付けられてしまった、りるという女性に対しても同情はしていた。

 ただ同時に目を付けたのが弥太郎でよかったとも思う。

 非合法の娼館街だけに花座横丁に出入りする業者には、女を物扱いする輩など掃いて捨てるほどにいる。その中で“蓼虫の弥太”は面倒見がよく、乱暴を働いたりはせず使い潰すような真似もしない。そういう意味では、りるは運が良かったのかもしれない。


「この布団でいいのか?」

「はい。どうぞ、つかって、ください」


 別室の押し入れにしまわれた布団を担ぎ、居間へと戻る。

 りるの住む家は無職のアパート暮らしからすれば田舎とはいえけっこうなお屋敷だ。けれど彼女以外に住む者のいない。踏んだ廊下を冷たいと思ったのは、雨のせいばかりではないだろう。

 ふと正義はりるの横顔を盗み見ようとして、しかしどうやら向こうも様子を窺っていたらしく、はたと目が合う。

 けれど一切動揺はなく、表情もまるで変わらないものだから、逆にこちらが居た堪れなくなってくる。


「どうかしたか?」


 じっと見つめ続けてくる少女へ苦し紛れに問えば、本当に小さな、口の端が緩む程度の微かな笑みが滲んだ。


「あなたの、胸に。うじが」


 正義の胸元を見ながら、短く、たどたどしく、りるはそう呟く。

 蛆? 驚いて目線を下げたが、別に何もついていない。何度も確認したが間違いない。

どこについている、と聞き返そうとするも、今度は一切目をくれず軽やかに進んでいく。

 いったい、なんだったのか。

 りるの振る舞いに正義はただただ戸惑うばかり。

 整った容姿だが喋りはたどたどしく、何を考えているかまるで読めず、何より神の娘と呼ばれる理由も分からない。

 結局、彼女は何者なのだろう。

 今一つすっきりしないまま、その小さな背中の後を追った。




 ◆




「おうマサ坊、ごくろう。りるも手間かけたな」


 ブサイクな人形を手で弄っているところに、ちょうど布団を抱えた二人が戻ってきた。

 声をかければりるは小さく頷いて、「ああ」とだけ短く答えた正義は言われずとも寝床の準備を始める。 

 こいつらの一対一じゃ、話し盛り上がんねえだろうな。

 道々のやりとりを想像できず、弥太郎は思わず苦笑してしまう。

 

「なぁ、りる。このブサイクな人形、村役場でも見たんだが、なんなんだ?」

「オザシキさん、です。家にいる神様で。いわれは、くわしくは分かりません、が」

「ふぅん。あれか、土着の神様ってやつか」

 

 世間話程度に聞いてみれば、人形はブサイクなくせして神様を象ったものだということ。

 別に田舎の集落では珍しくもない。

 そういや俺の生まれ故郷でも似たような神様はいたかな、などと考えながら人形をタンスのへ戻す。

 その間に正義が布団を二つ敷いて寝床は確保。りるは自室があるのでそちらへ戻るから、男二人で今晩は過ごす。

 多少むさくるしいがそこは仕方ない。

 それに、りるにいられても困ると言えば困る。寝る前に少しだけ内緒の話をしておきたかった。


「んじゃ、今日は色々ありがとな。そろそろ、休ませてもらおうかね」

「分かり、ました。なにか、あれば。お声をかけ、て、ください」


 富豪の娘が下働きのような物言いをする。

 謙虚なのは親の教育かこの子の資質か。それとも、今迄もそういう扱いを受けていたのか。


「お声を、ね。なら、一緒に寝るかい?」

「買われた身で、あれば。お望みなら」

「いや、やっぱお望まねえわ。単なる冗談だ、気に留めんな」

「……? そう、ですか? では、これで。失礼、いたします」


 試しに誘ってみたが、こうも簡単に同衾の誘いを受けられるとは思っていなかった。

 勿論冗談なのですぐ訂正すると不思議そうに小首を傾げ、ゆったりとお辞儀をしてから素直に退室する。

 娼婦として買われた意味もよく理解していて、割に敵愾心は持ち合わせていない。

 なんというか、やはりよく分からない女だった。


「なぁ、マサ坊。お前さん、あの娘をどう見る?」

 

 敷いてもらった布団に倒れ込み、耳を澄ましては、足音が離れていくのを確認する。

 遠くなった頃合を見計らって、弥太郎は問い掛けた。


「どう、と言われても。……あー、白い? というか、薄い?」

「うん、まあ、その通りなんだが。聞きたいのとビミョーに違うなぁ」


 ただ返ってきた答えは少しズレている。

 確かに肌が白く、長い髪も白で、全体的に色素が薄い。だがそういうことが聞きたいのではない。

 こやつ、意外と天然なのかもしれぬ。あまり必要のない知識を一つ得てしまった。


「すまない、外見でなく接した印象、とかの話だったか? なら、なんというか、少し変わっているとは思った」

「ほほう、その辺り、詳しく聞きてえな」

 

 気の抜ける発言はなかったことにして、改めて表情を引き締める。

 弥太郎は布団の上での転がったまま、しかしその目付きだけは妙に鋭い。就寝前のなんでもない雑談ではなく、彼にとってこれは非常に重要な話だ。


“虫は、呪いと為る”

“美しきも、醜きも、残らず平らげて。少しずつ、少しずつ虫は育ち、いずれ人を殺す呪詛へと至り”

“あなたは、最期には。あなたの大切なものに呪い殺される”


 死の神託を告げた神の娘。

 既に弥太郎の中では、りるはことわりから外れた存在となってしまっている。

 そういう凝り固まった頭でいくら考えても、まぁ九割は間違った答えへ向かう。

 だからこそ偏見のない正義の正直な意見が聞きたかった。


「詳しくと言っても、本当にただの印象だぞ? 整った容姿、喋り方はおぼつかない。箱入りだったというが我儘ではなく、物怖じした様子もない。女衒相手にも嫌悪せず、むしろ妙に弥太を気に入っている様子だった」

「あー、確かに」

「変というか、よく分からない子だな」


 言ってから、あのナリでも二十歳なのだから“子”は適切でなかったかとも考える。

 けれどそこ以外は正義の素直な感想だ。

 顔立ちは幼げだが整っている。農作業をしないので肌は日に焼けていない。容姿という意味なら優れているのは間違いない。

 しかし魅力的と感じるよりも少し変わっている、といった印象の方が先に来る。

 たどたどしい口調といい、立ち振る舞いといい、どうにも掴みかねていた。


「そういえば先程、胸元にうじが付いていると言われた」

「よっしゃマサ坊、近寄んなよ」

「いや、確認したがついていなかった。あれは、彼女なりの悪戯、だったのかもしれない」


 だからなにという訳でもないが、子供っぽいところもあるのか。やはりよく分からない。

 うまくまとめられず不明瞭な説明になってしまったと正義は反省するが、弥太郎はあまり気にしていなかった。


「しかし、胸元にウジムシ、ね」


 むしろそういう話が聞きたかったのだと、真剣な顔で一つ頷く。

 小さな呟きは聞き取れなかったが、なにやら悩み込んでいる様子だ。

 

「……なあ」

「あん?」

「気になっては、いたんだが。神の娘というのはいったい?」


 それを邪魔するのも悪い気はしたが、正義は困惑したままに問う。

 ここに来るまで何度も“神の娘”という言葉を聞いた。それが、りるを示すのだとも知った。

 けれどその意味に関しては分からないまま。どうにも喉の奥に魚の小骨が刺さったような、すっきりとしない感覚が残り続けている。


「おお、初めてじゃねえか? マサ坊が買われる女に興味を持つのは」


 正義は女衒仕事を好んではいないが、手伝いをしてくれている。

 そういう立ち位置だから、今迄あまり深くは事情に立ち入らなかった。しかし今回は違うらしく、それが少しだけ意外と感じられた。


「いや、話せないならいいんだ」

「そんなこたねえさ。別段秘密にするようなもんでもないしな」


 実際、弥太郎も村長の使いから前もって聞かされている内容だ。

 村にとっても隠すようなことではなく、ならば誰に知られようが然して問題はない。


「んじゃ、まずは、そうだな。……話は、村一番の富豪だっていう爺様がまだ生きていた頃にまで遡る」


 そうして弥太郎が語るのは、別段大したことのない、笑い話に分類されるような下らないものだ。


「昼間に見た療養所、覚えてるだろ?」

「ああ。りるの父親が経営して、伊之狭村の財政を支えていたという話だったか」

「それそれ。富豪の爺様は、この村にとっちゃなくてはならない中心人物。生前は村長さん並みの権威だったんだろうな」


 長らく援助を続けてきた富豪。

 おそらくは誰もが彼に感謝し、豊かさは保たれて。狭く小さいながらに穏やかな日々が此処では流れていた。

 同時に、狭く小さいからこそ余計な隙間・・がない。

 他の何かが入り込む余地など僅かもない程に、この村は良くも悪くも安定していた。


「んでだ、その爺様には婚約者がいた。当時は五十半ばで、女の方は十代だから、年齢差は四十歳くらいだ」 

「それは、また随分な」

「まぁ地方の集落じゃ然程珍しくもねえ。歳なんて関係ない純愛か、スケベ爺のお楽しみか。或いは金目当ての女のあさましさだったのかは、今更分からん話だわな」


 ただ件の富豪は村の権威であり、二人の真実に関わらず、彼が望んだならば女側の意向がどうあれ断れはしなかったろう。事実として、祖父と孫娘ほどに歳の離れた二人の婚約は村の総意を得て結ばれた。

 なにせ富豪が妻を娶るのならば、いずれは子が産まれ、村の生命線である診療所の後継となる。婚約は伊之狭村の今後を保証する、誰もが望むものであった。


「話は順調に進んだ。あれよあれよと式の日取りまで決まって──さて、ここで問題が起こる」


 しかし、そうそう上手くはいかないのが世の常で人の常。

 弥太郎はにたりと、心底面白そうに口角を吊り上げる。

 

「なんと婚約者の女は、初夜を迎える前に懐妊したそうだ」


 富豪は年若い娘を妻にと求めた。

 これで後継が産まれればめでたいと村人も喜んだ、その矢先の出来事である。


「無論、爺様はまだ手を出しちゃいない。こらどういうこったと問い詰めりゃ、“私は誰かと寝たことなんかありません”と弁明する。つまり娘は、処女のまま子を身籠ったのさ」

「処女の、まま。冗談だろう?」

「まあ、あり得ねえわな。おおかた間男に孕まされたってだけだろ」


 当時の村人たちもそのように考えた。

 婚約者を裏切り、間男の子を孕んだ女。話としては然して珍しくもない。

 問題は発覚が結婚より早かったこと、裏切った相手が長らく村を支援してきた人物だったこと。なによりここが田舎で、狭くとも一つの社会を形成していたこと。

 村社会というのは仲間意識が強い反面、食み出る者には容赦しない。「意に添わぬ」は十分過ぎるくらいに迫害の理由となる。


 望まれていたのは結婚自体ではなく、その結果産まれる子供が、富豪の後継となり村を支え続けてくれるという将来。

 それが浮気で破談などということになれば、村民の不興を買い、村八分になってもおかしくない。


 つまり隙間がなかった。

 ほんの少しずれただけで、枠組みから弾き飛ばされてしまうくらいに。

 だから事実はどうあれ、女は不貞などしていないと言い張った。信じるものが誰一人いなくとも、現状は覆らないと分かっていても、そう言うしかなかった。


「だが富豪の爺様はその弁明を認めた。彼女に不貞はなく、男と“まぐわう”ことなく孕んだ。腹ン中の赤子は奇跡としか言いようがなく、故に結婚は予定通り執り行うと。結果、夫婦となった二人の間には、玉のように可愛い女の子が産まれたそうな」

「では、その女の子が」

「神の娘。処女受胎によって生を受けた、尊き御子って訳だ」


 報いだったのか、妻は子を産んで程なく死んだ。

 富豪は遺された娘を神が授けてくださった“神の娘”とし、大切に育てたそうだ。

 尊き者が下賤と触れ合ってはならぬと屋敷に囲い、農作業もさせず診療所にも近付かせず。可愛がるというよりは殆ど軟禁と言っていい。


 そこまで娘を溺愛していた?

 不貞の子が衆目に晒されるのを嫌った?

 もしくは本当に、神の娘と信じていたのだろうか。


 根底にあった感情は今更知る由もない。

 ただ結論だけを示すならば、神の娘は俗世から隔離され、正しく尊き“神の娘”として扱われることとなる。


「それが、もう二十年も前になる。んで赤ん坊は“りる”と名付けられ、なんやかんやで今に至るって訳だ」

「……富豪は、本当に処女受胎など信じていたのだろうか」

「さあて。ただ、桃から生まれたモモタロさんは英雄になって鬼退治をする。仁王立ちの武蔵坊弁慶は、おっかさんの胎ん中に三年近くもいたという。人の理から外れた才ってのは、人とは違う産まれ方をしてくる。そういう考え方は結構あるんだ」


 異常生誕を経て現世に現れた者は、人の枠組みから外れた存在となる。

 ならば逆説的に「それが人でないのならば、異常生誕を経た」という論理が成り立つ。

 生まれてきたのが普通の子供だったなら、単なる不貞の結果かもしれない。

 だが普通の子供ではなかったなら。“神の娘”であったのなら異常生誕……処女受胎は肯定される。


「だから子供を神の娘として扱った。特別な存在であれば、特別な産まれ方をしたとしてもおかしくないから」

「そこは俺の想像だけどな。爺様は妻の不貞を認めないが為に、産まれたガキを“神の娘”として扱った……ってなオチじゃないかね」


“俺は浮気なんてされていない”

“だって婚約者は処女のまま妊娠した、浮気なんてされていない”

“ほらみろ、子供だって特別な神の娘だ。やっぱり処女受胎の結果だからだ。俺が正しかったんだ”


 こうして、りるは神の娘となった。

 なけなしのメンツを保つ為に祭り上げられた、哀れな女のお話だ。


「なんと、いうか」


 聞き終えた正義はなんとも言えない表情をしている。

 神の娘という響きの神聖さとは裏腹に、蓋を開けてみればドロドロとした男女の経緯があっただけ。根が真面目な彼だけにどういう顔をしていいのか分からないのだろう。

 しばらく押し黙り、しかし何かに気付いたらしく、不思議そうに首を傾げる。


「ん? 今の話が神の娘の経緯なら、りる自身は単なる普通の女性ということにならないか?」


 ひどく嫌な話ではあった。

 ただそれはあくまで両親の事情。りるに焦点を合わせれば、愛した夫婦から生まれようが不貞の結果だろうが、人の親から生まれたという意味では然程の違いもない。

 神の娘などという大層な呼ばれ方に反して、実際は神秘的な要素の介入などまるでないということになる。

 そして、その指摘は紛れもない事実だった。


「ああ、そうだな。てか、俺が買いに来たのは“不貞によって産まれ、村人から虐げられた哀れな娘”だ。そういう女なら不都合なく話も進むだろう、ってな」

 

 弥太郎自身、なにも神の娘などという幻想的な響きを頭から信じた訳ではない。

 疎まれ虐げられた女。誰も味方がいないというのは実に気楽な相手だ。

 だから話に乗った。

 ワケアリの女というのは、女衒にとっては扱いやすい商品でもあるのだ。


「だがどうやら神の娘には、もうちょい面倒臭い裏がありそうだ」


 しかし此処に来て事情が少しばかり変わってきた。

 りるは自分が父を殺したと語る。

 神の娘というのも、単なる虚名とは言い難い。

 不貞の結果で片付けるには気になる点が多すぎた。

 

「明後日、だな」

「明後日?」

「ああ。この雨だ、ぬかるみはひどいだろう。出立は二日遅らせるとしようぜ」


 その意を間違えるほど正義も鈍くはない。

 弥太郎は、二日でその裏を調べると言っている。

 もともと単なる荷物持ちでついてきただけ。雇われの立場としては否応もない。

 ただ一つだけ気になったので、一応は雇い主殿に伝えておく。


「……弥太は、普段ちゃらんぽらんなくせして変なところで働き者になるな」

「そういうマサ坊は時々辛辣ですよねー。はいはい、そんなこと言ってないで、もう寝ちゃいなさい。明日も早いんですよ」

「お前の立ち位置はどこだ」


 何故か半笑いでお母さんぶってみせる蓼虫の女衒。

 なんだかんだ、二人の間柄は良好だった。


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