【花とコガネムシ】・6(了)
「十年経った今だから、分かることもある」
長い長い昔話も終わりが近付き、心はようやく現在に辿り着く。
自然、弥太郎は自嘲の笑みを零した。りるはおとなしく聞いてくれたが、あまり楽しい内容ではなかった筈だ。
それでもこの娘には。
蓼虫の弥太と呼ばれた女衒の無様な過去を、知っていてほしかった。
「俺ぁ、中根さんのところに行った方が花は幸せになれるって思った。余命が短いなら、貧しいより豊かな暮らしの方がいいに決まってるってな」
気持ちを汲んでくれたのか、そうでないのか。りるは決して目を逸らさない。
そういう真っ直ぐさに少しだけ気後れもしてしまう。だけど、伝えたいことから逃げてはいけない時もあるのだと思う。
今迄逃げ続けてきた弥太郎だからこそ、今度こそ、ちゃんと向き合いたかった。
「花もそれを受け入れた。治らない病の自分を抱え込むより、代わりに大金を得た方が、俺が幸せになれるって思ってくれたんだろう。……だがよ、あいつは失敗した。花は、俺の負担にならないよう中根さんのとこへ行くと決めた。なら平気なツラして出て行かなきゃならなかった。なのに、俺に幸せにならないでほしいなんて言っちまった」
別れの際、花は自分を殺し切れなかった。
私以外の誰かの隣で笑わないでと。
遠く離れた弥太郎の幸福を、自分のいないところで幸せになる未来を彼女は願えなかった。
「俺だってそうさ。そんな花に何も言えなかった。本当にアイツを想っているなら、なんの気兼ねもなく中根さんとこで暮らせるように。突っぱねて、偽悪的に振る舞って、未練を断ち切るぐらいじゃなきゃいけなかったのに」
それは弥太郎も同じだった。
花が何不自由なく暮らせるよう手配した筈が、最後の最後に突き放せず。
お互いの望む幸せを取り違えて。
そのくせ、それを最後まで貫くことすらできなかった。
「結局な、俺達にゃ、幸せになる才能がなかったんだよ」
弥太郎は思う。
結局のところ、幸せになるというのは、一種の才能なのだ。
才能のあるヤツは、貧乏でも金持ちでも関係なく、積み重ねる日々を愛おしく思い、そこに幸福を見出せる。
逆にないヤツは、どれだけ恵まれていても、この程度の幸福では自分には見合わないと、ないものねだりをしてしまう。
そして弥太郎は後者だった。
弥太郎には、『たとえ悲劇が待っているとしても、貧しさに喘いでも、最後まで花と一緒にいられたなら幸せだ』とは思えなかった。
幸せになるには、たくさんのモノがなきゃいけないと、考え違いをして。花を幸せにする自信なんて欠片もなくて。
彼は、中根が提示した、分かりやすい幸せの形に飛びついてしまった。
……本当は、花も、弥太郎自身も。「傍にいたい」と願っていた筈なのに。
「いつか、てめえの無能のせいで未練を抱いたまま死んでいった女がいる。それを忘れて幸福だなんて、口が裂けても言えやしねえよなぁ……」
つまりはコガネムシの話だ。
コガネムシという虫がいる。
甲虫目コガネムシ科の昆虫。“黄金虫”と書き、童謡では「コガネムシはお金持ちの虫だ」と歌われたりもする。
丸っこい外見で可愛らしく、人を害するような毒も持たない。
ただしこの虫は食葉性で、広葉樹の葉や花弁を食べてボロボロにしまう。
更に土に卵を産み、生まれた幼虫は植物の根っこを食べて成長する。その為、コガネムシは幼虫も成虫も害虫に分類される。
コガネムシは、花を食い荒らす害虫。
であれば、そいつは自分のことだ。
目の前の小金に飛びついて花をダメにした、弥太郎こそが、コガネムシだった。
「だから、弥太郎さんは。今の生活を、幸せではなく、楽だと呼ぶの、ですね」
「ま、な」
りるは、ほんのわずか悲しそうに目を伏せた。
そういうのは、ちと困る。あまり気にしないでほしいと、弥太郎は殊更におどけてみせる。
「そんな顔すんなよ、別に今の暮らしが嫌いな訳じゃねえぜ? 美味いもん食って、浴びるほど酒を飲んで。紗子や藤吉さん、マサ坊に紅葉。勿論、お前さんのことも悪くねえと思ってる」
朝寝朝酒昼寝に夜遊び、どこに出しても恥ずかしい駄目人間。
弥太郎は、その暮らしを改めはしない。他人を踏み躙り、搾取して生きていく。昔から願っていた、理想通りの生き方だ。
働かずに食べる飯は最高に美味い。彼は嘘偽りなく、池袋での生活を十二分に楽しんでいた。
「ただほんの少し、忘れられない景色があるだけさ。俺の今は、借金みてえなもんだし」
「借金、です、か?」
「おう。自分で言うのもなんだが、俺はそれなりに裕福だ。“商売”も上手くいってる。だがよ、それも元を辿れば花を売り飛ばした時の金のおかげ。だからだろうな」
花を売り飛ばして得た金で、貧しいご家庭から女を買い漁り。
タチの悪い業者に売っぱらって、てめえの懐を満たしてきた。
良心の呵責はない。故郷の村を離れた時から正しさなんぞ捨てている。
ならば、もしもそこに「わだかまり」を感じるのならば、理由はたった一つ。
「俺の豊かさは、花からの借金みたいなモンだって、心のどっかで思ってんだよ。……つまりは“未練”ってやつだ。それを返さなきゃ、どうにも落ち着かねえ。返すアテもねえくせに、そんなことばっか、ずっと考えてんのさ、俺は」
もう取り戻せないと知っているのに、今も胸の奥でぞわぞわと蠢くもの。
死者に囚われ、失われた景色に縋る弱い心にこそ、未練は巣食う。
それが心臓に刻まれた呪いの正体。
花と過ごした日々が大切過ぎて。重ねた歳月に、無意味なものへと変わってしまうことが耐えられなくて。
弥太郎は花の遺した最期の言葉を、真実の呪詛へと変えてしまった。
───俺の今は花を手放したことで得た間違いみたいなもの。
彼女の犠牲の上で成り立つならば、自ら捨てるなど許されず。
ならば、ただ無為に生きて。
彼女の望み通り、報われぬままに野垂れ死ぬことこそが報いとなる。
自分が報われるのは、花の遺した呪詛が成就したその瞬間だけ。
そう思い込むことで、いつかの日々を守ろうとした。
「なあ覚えてるか、りる。伊之狭村で初めて会った時こと」
「は、い」
「あの時な。俺にはお前が、借金取りに見えたんだ」
だからこそ弥太郎にとって、りるとの出会いは運命だった。
「『大切なものに呪い殺される』……その預言が、俺には嬉しかった。神の娘は、積み上げた間違いを取り上げに来てくれた借金取りだと。お前だけが、俺の心臓の呪いを。花の意味を肯定してくれたんだ」
りると出会った時。
死の預言を受けた時、弥太郎は思った。
ああ、まるで借金取りみたいだ。
惚れた女を売り飛ばして手に入れたもの。
いつかの過ちの果てにで得てしまった、間違った豊かさを。
りるは身ぐるみはいで奪い取りに来てくれた。
弥太郎には、それが堪らなく嬉しかった。
そう、本当は。
虫籠の集落の出会いで救われたのは、りるではなくて。
大切なものに呪い殺されると告げられた弥太郎の方こそ、あの瞬間に救われたのだ。
「りる。例えば、俺の胸にいる虫をお前が食ったとして。俺は、今を幸せだと思えるようになるもんかね?」
「きっと、心は、軽くなります。けど……そうなったら、あなたは」
弥太郎の問いに、りるは答えられず俯いた。
その態度に、形に出来なかった言葉を知る。
「ああ、やっぱか。なんで家出するくらいに余裕なくなったのか不思議だったんだが。この未練がなくなったら、俺はお前のおとっつぁんみたいになるんだな」
こんなとこまでコオイムシ代理かよ、と思わず苦笑する。
以前、家出する程にりるが追い詰められた理由は、結局そこにあったのだろう。
彼女の父は、心の支えである屈辱を失った時点で生きる意味を見失い、老衰し死を迎えた。
たぶん、りるには弥太郎が、父と同じに見えていた。
故に弥太郎の死は確定している。
未練を食われた時点で彼は生きる意味を失い、虫を放置すれば呪い殺される。
勿論、老齢だった彼女の父のように、すぐさま死ぬ訳ではない。けれど彼は、未練をなくせば、無気力に無感動に死ぬまでの時間を潰し続けるだけの人間になってしまう。
他ならぬ神の娘が、最期の女がそうと断じた。
つまり最初からこれは、そういう話だ。
弥太郎は死ぬ。
悪辣を是とした身ならば応報もまた理のうち。
そこには何の裏もない。勘違いや小癪な叙述トリックなどではなく、ただただ当然の帰結として彼は命を落とす。
他者を食い物にしてきた女衒はその所業に相応しく、惨めな終わりを迎える。
りると出会う前から。花との選択肢を間違えた時点で、彼の末路は確定していたのだ。
「私は、それが怖くて。だから……」
神の娘は、蓼虫に足を引っ張られて只人へと近付いた。
その分、今迄のようにはいられなくて、近しい人の死に心を痛めるようになってしまった。
かつての預言は今も彼女を苦しめているのだろう。
「俺を呪ったのは俺自身。お前にゃ、何の罪もねぇ。むしろ逆だよ。お前が死を告げたその時に、俺は救われたんだ」
それを見かねた弥太郎は一呼吸おいて、少しだけ恥ずかしそうに。
しかし、ちゃんと真っ直ぐにりるを見詰めて、心からの笑みを浮かべた
「だから、りる。お前が余計なもんを背負う必要はないんだぞ」
さんざん長々と語っておいて、伝えたいことなんてその程度。
弥太郎は、りるに会えた時、運命だと思った。
けれど死の預言を告げられた時、確かに彼の心は救われた。
であれば、たとえどんな末路を迎えたとしても、この呪いのままに死んで行けるなら幸福なのだと。
りるには、決して咎はないのだと、ただただ穏やかに彼は言う。
その言葉に、りるは呆然としていた。
涙を流すでも、哀しみに顔を歪めるでもない。
どうすればいいのかと戸惑って、無防備な表情を晒している。
「お前はなぁんにも気にしないでいい。昔の女を引き摺ったヤツのことなんざ、みっともないって笑ってやりな。……俺は、そういう無様な男として死んでいくのが望みだ。それでこそ、花の供養にもなるだろうしな」
死にたい訳ではない。
適当に遊び歩く生活の方がいいに決まっている。
だけど、どうせ死ぬのなら。
ちゃらんぽらんの、クソったれた、人に謗られるクズのまま。誰にも惜しまれず、へらへら笑って野垂れ死にしたい。
そういう終わりを迎えてこそ、多分、幸福になれる。
自らを呪ってしまった男は、ずっとそう信じてきた。
「そんで、お前さんら若いのは、そういう古臭いモンを踏み躙って生きていかなきゃな」
なのに、余分というヤツは増えるものだ。
ちょっと適当が過ぎたらしく、いつの間にやら心残りができちまった。
このままじゃ、りるや紅葉が気掛かりで、幸せな死を迎えられそうにない。そんなことを考えてしまうくらい、弥太郎は今の暮らしを気に入っていた。
滑稽な昔話なんぞをしてみせたのも、それが理由だ。
バカみたいな毎日を、楽しいと感じたから。クソみたいな男の死が、最後の最後に「楽しい日々」を台無しにするなんて、我慢がならないと思えてしまった。
「だから、まあ。こないだみたく出て行くのは勘弁してくれ。お前のことも、紅葉のことも、ちゃんと路頭に迷わねえよう手配はするからよ」
だから、言葉を紡ぐ。
俺は死の預言通りに死ぬことこそが望みだ。りるとの出会いを後悔などしていない。
終わりを迎えるその時まで、こんなバカみたいな毎日をもう少しだけ続けていたい。
そして、その後には。りる達が、蓼虫の女衒の死なんかを、悲しむことなどありませんように。
なにも特別ではない、ごくごく簡単なこと。なのに、伝えるのはこんなにも難しい。
まっすぐ想いをぶつけるなんて真似をするには、弥太郎は歳を取り過ぎた。回りくどく、言い訳がましく、それが彼に出来る精一杯だった。
「弥太郎、さん……」
胸にあるこの心は、ちゃんと伝わっただろうか。
彼女の抱えた荷物を、少しくらいは軽くしてやれたか。
そんなもの弥太郎には分からない。表情から窺い知ろうにも、りるは俯いてしまった。
だけど、ふと考える。
いつか言えなかった「傍にいられるだけでいい」という願いの形が、巡り巡ってここで零れる。そう思えば、人生ってのは奇妙なもんだと、なんとなく面白い気持ちになったりもする。
同時に差し込む、少しの未練。
ああ、もしも、花との別れの際に。
こうやってうまく言葉を紡げたなら、何かが変わっていたのだろうか。
弥太郎は浮かんだ仮定をすぐさま捨て去る。そんなもん、今更どうだっていい話だ。
花を忘れることはない。だが、「うまくいかなかった」からこそ、マサ坊やら紅葉やら、りるとだって出会えたのだ。
であれば、才能のなさもそんなに悪いものではない筈だ。
弥太郎は小さく笑った。
蓼虫と呼ばれた女衒には似合わぬ、自然で、穏やかな笑みだった。
◆
虫の知らせというものがある。
特に理由も脈絡もなく、通常ならば知る筈もないなにかを悟ってしまう。
そういう瞬間は、確かに存在している。
虫篭の集落で出会った神の娘。
最後の最後にこの命を終わらせる、運命を握る四人目の女。
もっとも、今はそう思ってしたことを多少なりとも反省している。
そうやって自身の運命を押し付けたことが、りるを追い詰める結果となった。
いい歳こいた大人が、てめえの責任を年下の娘に預けようなんざ、情けないにもほどがある。
てめえの失策を後悔できるくらいには、なんだかんだ、りるや紅葉との共同生活を好ましく感じている。
幸福になる才能もなければ努力もしてこなかった。そんな男の口の端が、ふとした瞬間に柔らかく緩むのだから、変われば変わるもんだと弥太郎は独り言ちた。
「私、は……」
「おん?」
昔語りも一段落ついて、淹れ直したお茶をすすりつつ、居間でぼんやりと時間を過ごす。
しばらく経って、ぽつりと。りるがおずおずと口を開く。
「あの集落で、朽ちていく筈、でした。心の虫に、巣食われた、偽物の神の娘として」
コオイムシの屋敷に囚われながらも守られていた娘は、たぶん本当なら、なにも為さぬまま朽ち果てていくはずだった。
そこは神の娘。オザシキさんの化身ならば、人の手を離れた時点で土に還るのみ。
少なくとも、彼女の父や伊之狭村の村長は。なにより、りる自身がそう考えていたのだろう。
「そうかい。でも、俺ぁ神の娘に救われた。世の中、どう転がるかは分かんねぇもんだな」
「は、い。人の世は、分からないこと、ばかりで。私は、本当に、何も知りません、でした」
けれど何の因果か、蓼虫の女衒に手を引かれて、りるは違法の花街に出てきた。
幸か不幸かは、判断が付かない。その答えが出るのはもっと先の話で、おそらく弥太郎はそれを見ることができないままに死に絶える。残念と思わなくはないが、それも仕方ないと苦笑を滲ませた。
「もう……貴方は。決めて、しまったの、ですね」
りるは言う。その意味を、弥太郎は間違えない。
「ああ、そだな。年貢の納め時ってのは、どうしたってあるもんさね」
弥太郎は答える。最近は、虫の引き起こす奇妙な出来事に遭遇し過ぎた。
だから彼は当たり前のように、胸のざわめきを受け入れ、一つの覚悟を決めてしまった。
「ただいま……どうしたの?」
主語のない曖昧な遣り取りの後、話すこともなくなったのか二人は押し黙る。
そうしてしばらく、妙に重い空気の漂う中、それを全く読まずに紅葉が帰宅した。
一仕事終えても顔に疲れが出ていないのは、情事に慣れたのか。こいつもなんだかんだ花街の女になったと、何やら感慨深いものがあった。
「なあに、なんでもねえさ」
「ふぅん……」
挨拶もそこそこ、とぼけて誤魔化せば、深くは突っ込んでこなかった。
といっても不満があるのは表情を見れば分かる。文句は言わないが半目になって口を尖らせる、そんな子供っぽさが妙に微笑ましい。
「ちょいと昔話をしたんだが、どうにもりるは蓼虫の所業がお気に召さなかったらしくてな」
「あぁ、そりゃあね」
それでも追及をしないのはこちらを気遣ってなのか。弥太郎の冗談に小さく頷くと、紅葉はそこで話を打ち切った。
代わりに、という訳ではないだろうが、彼女は手にした便箋をひらひらと見せつける。
「なんだ、そりゃ?」
「手紙。弥太郎さま当て、だってさ」
「ほぉ、そいつぁ珍しい。誰からだ?」
昔話を続けるつもりはなく、ちょうどいいと弥太郎は手紙に話題を移す。……そのくらいの、軽い気持ちだった。
けれど便箋に記された文字と、紅葉の声が重なり、一瞬意識が真っ白になった。
「中根って人から」
手紙の主は、中根。弥太郎のよく知る、金貸しだった。
虫の知らせというものがある。
特に理由も脈絡もなく、通常ならば知る筈もない“なにか”を悟ってしまう。
そういう瞬間は、確かに存在している。
ああ、虫が、ざわめく。
だから弥太郎は理解する。
俺は、もうすぐ死ぬ。
【花とコガネムシ】・了
次話【嬬恋撚翅】
弥太郎は戦後の時代に遊び惚けられるくらい金持ちだけど、女衒やり始めた元金が惚れた女を売っぱらって得た金。
そのため自分でどんだけ稼いでも、食うもの飲む酒全部「花から借金して買ってる」という意識が拭えなかった。
だから、りるに「お前死ぬよ」って言われた時、すごく嬉しかった。
今の自分を否定されると、花と一緒に過ごした日々が肯定されたように感じられるから。
つまり弥太郎は基本的に、未練がましいうえにクッソ面倒臭い男。




