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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ


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【花とコガネムシ】・5




「よう、花。調子はどうだ」

「うん、もう大丈夫だよ。なんだったのかな、昨日は?」

「疲れが溜まってたんだろ。今日は一日、ゆっくり休んどけ」


 昨日、結局花はまともに指を動かすことができなかった。

 たぶん寝不足で疲れているのだろう。きっと一日寝て過ごせば元に戻る、そう思って弥太郎らはひとまず花を休ませた。

 実際、今日になれば多少は体調も戻ったように見えた。普通に歩いているし、昨日とは違い箸を持って食事もできる。

 やはり疲れていただけだ。弥太郎は花の様子に安堵していた。


「弥太郎さん、花は?」

「おお、なんか大丈夫そうだ。とりあえず今日も寝てもらうけど、いいよな?」

「勿論だ。彼女の体の方が優先だよ」

 

 花を寝かせ、部屋から出てきたところで声を掛けられる。

 藤吉も心配していたようで、ほっとした様子でこちらの提案に頷いてくれた。

 彼等は三人で娼婦の斡旋を生業としているが、花の役割は売春ではない。主だった仕事は弥太郎の補助や娼婦の管理であり、一日くらいなら抜けても問題ない。

 今日は休んで、また明日からしっかり働いてくれればいい。疲れが抜ければ本調子に戻るだろう。

 そう、思っていた。


「え、あっ」


 翌日、起きてきた花は、何もないところでふらついた。

 顔色は普通、熱もない。本人曰く、痛みも感じていない。なのに、うまく歩くことができなかった。


「花、とりあえず医者に行くぞ」

「やだなー、大袈裟だよ。ちょっと疲れがまだ残ってて」

「いいから!」


 どう考えてもおかしい。

 流石に見過ごせず、弥太郎はほとんど無理矢理に花を医者へと連れて行った。

 しかし原因は不明。

 当然といえば当然だ。戦後間もない日本では、精密検査をするだけの設備がない。

 花は体が動かせないだけで、他は特に問題なく正常だった。あからさまな病態が出ていないため、推測でも病名を診断できず、手の打ちようがなかった。

 結局『どこか内蔵系の病気かもしれない。これ以上はここでは分からない』と追い返されてしまう。


「なんだ、あのヤブはよ!」

「そう言わないの、弥太郎。今は日本中が大変なんだから」

「だけど」

「私なら、ちょっと休めば平気。あんまり心配しないで、ね」


 そう言って笑うけれど、花の足取りは危うい。

 帰路は弥太郎の腕にしがみ付き、家に戻ればすぐに布団へ入る。病気ではない、怪我でもない。ただ、やはり体がうまく動かないようだ。

 医者に診せたがいい結果は得られなかった。すぐさま命の危険があるという訳でもなさそうだが、一抹の不安が残る。

 そしてその不安は的中していた。


「なんか、体が重いなぁ」


 その日から、少しずつ。少しずつ、花の体は悪くなっていった。

 相変わらず熱もない、痛みもない。

 しかし箸をうまく使えず、匙で食事をとるようになった。

 寝起きは特につらいらしく、起き上がるにも一苦労。

 歩く速度はゆっくりになって、それでも不安定だ。

 そもそも体調が悪いのではない。なのに段々と、本当に緩やかにではあるが、彼女は動けなくなっていった。




 ◆




 花の状態が心配ではあるものの、それでも働かねばならないのが辛いところだ。

 人手が減った分、生活の為にも弥太郎は働いた。今迄花が担当していた娼婦の管理も彼が行うようになり負担は大きくなった。しかし不平不満は言わずそれをこなし、並行して医者も探した。

 だが前者はともかく、後者はうまくいかない。

 食べ物を求めてヤミ市に群がるような戦後の日本では、まともな医者にかかることは難しい。

 結局大した手立てはなく、今では花は殆ど外出しなくなった。

 それもあって、近頃の弥太郎は仕事を終えれば、すぐさま帰宅する。

 体が動かしにくい以外は至って健康なのだが、「なにかあったら」という不安はぬぐい切れなかった。


「ん、中根さん?」

「ああ、弥太郎くんか」


 その日も弥太郎はまっすぐ家へ戻り、すると珍しいことに中根の姿があった。

 確か藤吉との打ち合わせは昨日終わらせたはず。これまで中根が仕事以外の理由でこの家を訪ねたことはなかったが、いったいどうしたのだろうか。


「あー、藤吉さんに何か御用でも?」

「いや、今日は花くんに」


 それはまた、重ね重ね意外な。

 二人の間に個人的な付き合いは今までなく、そもそも最近花は外に出ないので顔を合わせる機会も無かったろうに。

 不思議に思い首をかしげるが、中根の方は相変わらずの淡々とした口調。表情も一切変えず、「では」と一言さっさと帰ってしまった。 

 

「おう、花」

「あ、おかえりー」

「今、中根さんと出くわしたけど。なんかあったか?」

「ん……特には。様子を見に来てくれただけだよ」

「ふぅん、そか」


 花に聞いても明瞭な答えは返ってこない。

 誤魔化しだとは分かった。けれど突っ込んで聞きはしなかった。一瞬だけ伏せられた目に、聞かれたくないのだと察せた。


「で、どうだ。調子は」

「大丈夫だよ、弥太郎は心配性だなー。痛いところはないし、気分も悪くない。食欲だってあるよ」


 そこは事実だろう。

 こうして見ていても顔色は悪くない。ただ少し動きが鈍くなり、疲れやすくなっただけ。

 命に別状はないのだ。そう自分に言い聞かせても、やはり弥太郎の胸には不安がある。


「ならいいさ。早く仕事に戻ってくれよ? 今のまんまじゃ俺に負担がデカすぎる」


 それを隠して笑うのは、なけなしの男の意地というヤツだ。

 なにより不安は花にだってあるのだから、傍から見ている側が情けない顔は出来なかった。

 

「分かってるって」

「おっし、なら体力戻すためにも明日はなんか美味いもんでも買ってきてやるよ」

「ほんと? なら、ごってりシチューがいいです!」

「うぇ。マジかよ」


 しゅたりと、というには緩慢だったが。手を挙げて、花は明るく笑ってみせる。

 対して弥太郎は思い切り顔を顰めた。

 ごってりシチューは値段こそ安いが言うほど美味いものでもない。つい最近コンドーム入りを食べただけに、あまり嬉しくないご要望だ。


「せっかくの土産なんだから、もうちっといいの頼めよ……」

「えー、私あれ好きだけどなぁ。弥太郎だってよく食べてるし」

「いや、そりゃ値段から考えれば十分食える味だが、別に好物って訳じゃねえぞ」

「あはは。でも、なんか時々食べたくなるんだよね」


 なのに花は、弥太郎の苦い顔さえ楽しそうに、鼻歌を歌いそうなくらいご機嫌な様子だ。


「いっぱい働いて、お腹空かせて。今日は当たりだ外れだなんて言いながら食べるシチュー、あれも此処でしか味わえない楽しみだって思わない?」


 とどのつまりが、花はまた一緒に働いて、一緒にご飯を食べたいと言ってくれているのだ。

 そう邪気のない言い方をされると気恥ずかしく、弥太郎は照れ隠しに殊更おどけてみせる。


「いんにゃ。俺ぁ普通に寿司の方がいいかね」

「ねえ、そこは感動して同意するところじゃないの? 可愛いヤツめ、みたいな」

「自分で言わなきゃ、ちっとはな」

「もう、せっかく……」


 せっかく、素直になったのに。濁した言葉はそんなところか。

 あの夜以来、花は少しずつでも向き合おうとしてくれている。なのに、少しからかい過ぎた。

 弥太郎は反省し、頬を掻きながら、彼女のまっすぐさに報いるように笑ってみせた。


「まあ、なんだ。シチューよりも、今度一緒に寿司食いに行こうぜ。奢ってやるから」

「寿司はご禁制でしょ? 高いよー」

「いいさ、お前が元気になるんなら安いもんだ。……俺だって、一人の飯は寂しいしよ」

「あれ、藤吉さんは?」

「そういう揚げ足取りするかね、ここで」

「へへ、ごめんごめん」


 じゃれ合うような会話が心地よい。

 きっと、花も同じように感じてくれていて、だから彼女はそっと目を細めた。


「私ね。此処に来てよかったと思う。」

「おう? どうした、いきなり」

「いきなりじゃないよ、ずっと思ってた」


 懐かしむように、慈しむように。

 花の横顔は、年下の少女とは思えないくらいに透明だ。


「普通の暮らしをしていた頃は、いつも息苦しかった。なのに、今は穏やかに呼吸ができるの。……花街って、不思議だね」


 騒がしくて下品で、お世辞にも綺麗とは言い難い。

 けれど今まで居場所を得られなかった花にとっては、なんでもかんでも受け入れてしまえる花街での暮らしは、初めての心地良さだったのだろう。

 その気持ちが弥太郎にも分かる。

 たぶん二人は、同じ穏やかさを共有していた。


「ダメだなぁ、私。悪いことやってご飯食べてるのに、こんな風に思うなんて」

「なぁに、俺だって似たようなもんじゃねえか。今更お前だけ善人ぶらねぇでくれよ、共犯者」

「ふふ、そっか。私達、共犯者だ」

「おうよ、一蓮托生さ」


 娼婦の売買を生業とする。世間一般からすれば、弥太郎も花もクズに違いはないだろう。

 だとういのに、そんな後ろ暗い繋がりが嬉しかったのか、花は無邪気に笑顔を咲かせた。


「じゃあ、共犯者らしく、一緒に悪いこと出来るよう元気にならなくちゃね」


 その願いが叶うことは、結局なかったけれど。




 ◆


 

 

 花の容体は少しずつ悪化する。

 再び、三度と医者にかかったが原因は分からず。やはり痛みはなく気分が悪い訳でもなく、ただ動きが鈍くなっていった。

 だからと言って弥太郎の生活は然程変わらない。

 彼女を心配すれども働かなければ飯は食えない。であれば、日常に大きな変化はなかった。


「弥太郎くん、少し時間をくれ」

「あや、中根さん?」

「話がある」


 変わったことと言えば、時折中根が様子を見に来るくらい。

 それだって取り立てて騒ぐような話でもなく、ただその日に限っては、中根が嫌に真剣な顔をしていた。

 どうかしたのか、と思いつつも反論を許さない雰囲気に敗けて素直に従う。

 向き合うや否や中根は淡々と、端的に本題から切り出した。


「弥太郎くん。よければ、私が引き取ろう」

「……は?」

「君達は娼婦の斡旋を生業としている。そちらの流儀に合わせた言い方をすれば、“花くんの身請けをしよう”という話だ」

「花を、めかけにって、ことですかい?」

「ああ、そうなるのか。そうだな、妾としてウチに迎えよう」


 いつも通りの無表情、感情の乗り切らない口調。

 中根は「花の身請けをしたい」という。それがあまりに突飛と思えて、弥太郎は上手く反応できなかった。


「へ、はは。中根さん、なんの御冗談を」

「冗談は得意ではない。病人の世話を続けるのは負担じゃないか?」

「病人って、ちょっと体調崩しているだけで」


 いつかは、治る筈だ。

 そう信じていたかった。けれど中根は冷たいまでの現実を突きつける。


「仕事柄、私は色々な職業の人間と関わりを持つ。顧客の医師に聞いたことがある。ただ筋肉が衰えていく病気もあるのだそうだ」

「っ!? な、中根さん、それ本当ですかっ!? だったら、その医者に診せりゃ」

「無駄だろう。原因は不明、治療法も確立されていない。薬で進行を遅らせることすらできないらしい」


 筋肉が衰えていく病気。

 花のちぐはぐな病状の答えが、意外なところからもたらされた。

 しかしそれを教えてくれた本人が、もはや打つ手はないと告げる。昂った感情にすぐさま冷や水をぶっかけられて、弥太郎は寒暖の差にくらりと立ち眩みを起こした。


「そん、な。でも」

「このままいけば全身の筋肉が衰え、呼吸さえままならなくなる。そして、心臓も」

「その話、花は」

「既に伝えてある」

 

 いきなりすぎる事実に考えがまとまらない。

 もしかして嘘なんじゃないか。冗談で、からかっているだけで。

 そう思い込みたかったが、あくまでも中根は冷静で。一切揺らがないその目に、彼の言葉がすべて真実なのだと察してしまった。


「だから、私が引き取ろうと言った。君達は今後、治る見込みのない寝た切りの少女の面倒を見続ける羽目になる。厄介を背負い込めるほどの余裕もないだろう?」


 続く淡々とした物言いもまた、どうしようもないくらいに真実だ。

 人身売買、娼婦斡旋。悪銭とはいえ稼いでいるが、弥太郎らの生活は裕福とまではいかない。

 そもそもが中根に金を借りている身分。「女一人くらい面倒みられる」なんて、まかり間違っても口にできない。


「少なくとも、その方が花くんの負担は少ないと思う。私ならば頻繁に医者を呼んでやれるし、妾の一人を養うくらいの甲斐性はあるつもりだ」


 貸金業で既に一定以上の資産を得ている中根の家で暮らす方が、花にとっていいのもまた事実。

 体が動かなくなったとしても専門の世話役を雇うくらい簡単だろうし、清潔な環境で栄養のある者をしっかり食べられる。


「勿論、君達の意思は尊重する。身請けするのだから相応の金も払う。そういう選択肢もあるということだけは覚えておいてくれ」


 ただ、中根の言葉は決して強要ではない。

 今の話はあくまでも提案であり、どうするかは弥太郎らに任せるという。

 中根は戦後に貸金業で成り上がった。嫌なヤツではないが、まるきりの善人という訳でもない。

 そういう男が善意だけで花を引き取るなんて言い出したとは思えず、かといって無理を通そうという強引さも見られない。


「中根さん。あんた、どういうつもりで、花を引き取るだなんて言うんだ」


 金に汚い貸金業者が、金を払ってでも不治の病の娘を引き取りたいと願い出る。

 なのに、強い執着は感じさせない。

 そこにある理由を、根底にある感情を今一つ理解できず、ほとんど無意識に弥太郎は問うていた。


「惚れてるんだよ。幸せにしてやりたいと思うじゃないか」


 返ってきた答えはあまりに簡素。

 その時、弥太郎は初めて中根の笑顔というものを見た。




 ◆




「……あ、弥太郎」

「……おう」


 中根を見送った後、重い足取りで花を訪ねる。

 迎える顔が暗い理由は、たぶん先に聞かされた話のせいだろう。彼女は、自身の末路を知ってしまった。


“お前の体は今後よくなることはなく、弥太郎らと共に暮らしても迷惑をかけるだけのお荷物にしかならない”


 そうと聞かされて無邪気に振る舞えるほど、彼女のツラの皮は厚くなかったようだ。笑顔を作ろうとしても強張って、唇は微かに振るえている。


「あー、なんだっけか」

「……聞いた?」

「ん。まぁ、聞いた」

「そっか」


 会話というには拙い。二人して短い音を発して、後は二人して押し黙る。

 一時間か、一分か。長いか短いかも分からない沈黙が続き、それでも意を決したのか、おずおずと花の方から切り出した。


「ごめん……もう、共犯者になれそうにないや」


 ああ、そういや、花って年下なんだよなぁ。

 こんな時になって、弥太郎はあらためて思い知る。

 花街に住んでいるはいえ、まだまだ少女と言える年齢だ。色んなことがあって、頭の中がぐちゃぐちゃになって、頼りなく瞳は揺れて潤む。


「しばらくしたらさ。私、本当に動けなくなるんだって。歩けなくて、手も動かせなくて。呼吸するだけになって、最後には心臓も、動かなく、なって……」


 もう治らない。死ぬのが怖い。このままだと迷惑をかけてしまう。

 そんな類の弱音は出てこなかった


「それで、ね。中根さん、私を身請けしたいって。あはは、妾の子を妾に……なんか、変な感じだね」


 だって、既に選択肢は提示されている。

 結末の変わらない彼女に与えられた道は二つ。 

 弥太郎らと共に暮らすか、中根の下に身を寄せるか。

 もっとも、どちらを選んだところで花に出来ることはない。

“治らないと分かりながら世話をしてもらい、ただ死を待つ”……問題は、誰に負担を強いるかだけの話だ。


「どうしたら、いいと、思う?」


 おいおい、なに言ってんだ。

 何のために人身売買やってると思ってんだ。

 弱者を踏み付けて金を搾り取ってんだ、お前の面倒見るくらい余裕だよ。

 そう言いたくて、でも喉の奥から言葉が出てきてくれない。

 代わりに頭の冷静な部分が囁いてきやがる。


 全身の筋肉が衰える奇病。これから花は、自分では何もできなくなる。

 メシは食べさせてやらなきゃいけない。

 風呂にも入れない厠にも行けない、清潔を保つのもこちらの役目。

 顔の周りの筋肉が駄目になったら喋ることも儘らなくなる。

 意思の疎通ができない彼女の面倒を、心臓が止まるその時まで見続けなきゃならない。

 そこまでしても、ただ金銭的負担が増えるだけで、見返りは何一つない。

 だというのに、お前に、花を引き取ることができるのか。 

 中根の家で暮らす以上の安寧を、彼女に与えてやれるのか?


「俺は……」


 言葉に詰まった。その時点で、答えは出ていた。

 だいたいからして、お互いに分かっていた。弥太郎には花を引き取るだけの余裕がなく、花もそれを理解している以上弥太郎に迷惑はかけられない。

 だから本当は選択肢なんて一つしかなくて。


「ごめんね。弥太郎、私……」

「やめろ、そいつは、俺のセリフだ」


 だけどせめて、彼女には言わせない。

 花が選んだ、なんて形にしてたまるか。そいつは、男のすることじゃない。

 なにもできないなら、責任だけは、背負わないと


「実はよ、中根さんが、お前を大金で買いたいって言ってんだ。だから売っぱらうと決めた。構わねえよな?」

「……はい、わかりました」


 弥太郎はひきつった笑みを浮かべて「お前を男に売る」と言った。

 金持ちの中根の家で余生を送る方が、治らない病気を患った彼女は幸せだと思った。


 花は穏やかに微笑んで頷いて見せた。

 彼の心遣いを察したから、素直に従うと決めた。 


 それで二人はおしまい。


 弥太郎は思う。

 もしも人生において転機というものがあるのなら。

 それは分かれ道ではなく、切り立った崖の方が近いのではないだろうか。

 選ぶ以前に、気付いた時にゃ崖から真っ逆さま。踏ん張ろうにも地面がないし、てめえの意思どうこう関係なく結末まで辿り着いちまう。

 ……それが情けのない男の、下らない自己憐憫だとは本人も自覚している。

 だが、少なくとも当時の弥太郎には、花との結末はそういう『どうにもならなかったこと』だった。







 金を持ってりゃ許されることってのは多い。

 他が飢えていようと自分だけは贅沢できる。

 病気になっても医者に診てもらえる。

 多少の犯罪ならもみ消せる。

 人間様を買ったって、文句の一つもつけられない。


「よう、花。準備は出来たか」


 結局、花は中根に身請けされることになった。

 病気は治らない。だが貸金業で成り上がった中根には莫大な資産がある。女一人養うくらい屁でもないだろう。

 だから多分、これが一番いい落としどころなのだ。


「うん、大丈夫」


 へにゃりと笑う少女は、別段美しいということもない。

 女性としての豊かな隆起も然程。

 まあ愛嬌はある、と思う。そこは贔屓目も入っているので、他の男がどういう評価を付けるかは今一つ分からなかった。

 しかし中根は花を買う為に、死を待つだけの少女の為に結構な金を積んだ。

 ならば少なくとも、あの男にとっては相応の価値がある娘なのだろう。


「ならよかった。やっこさん、お待ちだぜ」

「分かってるよー。ふふん、これであたしもお金持ちの愛妾かー。いい暮らしして、いっぱい美味しいもの食べれて、暖かい布団で眠れるね」

「そうして売った金で俺も豪遊と。成金のおっさんもキモチよくて、いや、全部が全部丸く収まるいい商売だ」


 妾の子として生まれた。なのに、今度は自分が妾になる。なんとも奇縁だと花は笑った。

 そんな女を売り飛ばして大金が手に入ると、弥太郎も笑った。

 もちろん、お互いに本音とは程遠い。嘘っこの表情を張り付けて、心にもない言葉をかけあう、上滑りするようなやりとりだった。


「あー、売ったお金で豪遊とか本人の前で言うかなぁ」


 不満そうに頬を膨らませる

 おそらく、今生の別れになる。

 だというのに言葉は軽すぎるくらい軽い。


「言うさ。隠したところで変わんねえしな」

「そりゃあそうだけど。酷いと思わないの?」

「思わねえよ。前も言ったろ? 俺は、弱者を踏み付けて生きていくんだってな」


 ああ、そうだ。

 弥太郎の言うことは何も変わらない。惨めな生活はいやだ、搾取される側に回ってでもいい暮らしがしたい。

 そういう彼の弱さを花も知っていた筈だ。


「……なら、さ」


 だから、その言葉に、花は俯いて───




 * * *




 たぶん、これでもう、弥太郎には会えなくなる。

 私はそれを知っていった。


 中根さんは私を身請けし、妾にすると言った。

 だったら目的は当然“そういうこと”だろう。

 そして一度あの人の家に行けば、もう帰ってこれない。それも承知の上で、この話を受けた。


 だって、仕方ないじゃないか。

 弥太郎たちには迷惑をかけられない。ただのお荷物として、お世話されるだけなんて耐えられない。

 それなら妾として売られて、金銭的にでも弥太郎たちの助けになりたかった。

 傍にいて負担になるより、そっちの方がよっぽどいい。


 そうして選んだ道の筈なのに。

 別れの際に、心が揺れる。

 自分で決めたくせして、未練がましく恨みがましい感情が沸き出てきてしまう。


 ああ、私は不幸なのだと。

 どんな理不尽でも当然と受け入れられたのに。

 弥太郎たちから離れてしまうことを、私は不幸と感じてしまった。


 なのに彼は、どこぞのおっさんに、私を売りつけて。

 そうやって得たお金でこれからを楽に生きていく。

 私がクソみたいな男に抱かれて喘いでいる時も。 

 酒を飲んで美味しいものを食べて。 

 我が世の春と人生を謳歌するのだ。


 それを、許せないと思うのは、いけないことだろうか。

 最後の最後になって、ちりと黒い情念か花の胸を焦がす。 

 私は不幸になるのに、彼は幸せになる。許せないじゃないか。

 ああ、結局人の心なんてそんなもの。共に暮らしたこともあったが、この男の……弥太郎の未来が許せないと。


 そして私は気付けば。

 彼に、一つの呪いをかけていた───




 * * *




 弥太郎は、花を中根に預けると決めた。

 花の余生は短い。

 ならば貧乏人の自分よりも、金持ちの男の家で医者に診てもらい、何不自由なく暮らす方が彼女にとってもいいだろうと考えた。

 花もそれを受け入れた。

 どうせ死んでいくのを待つだけの身。なら余計な負担にはなりたくなかった。

 今回の件は、歪ではあったが、お互いがお互いの為に選んだ決断だった。


「呪いをかけてあげる」


 けれど最後の最後。

 別れ際、ぎこちなく振り返った少女は、穏やかな微笑のままに呪いをかけた。


「私を踏み躙って生きていく貴方が……どうか報われないまま、孤独を抱えたまま死に絶えますように」


 そっと花は傍へ寄り、弥太郎の胸元に小さな頭を預けて。

 表情は見えない。でも心は分かり過ぎるくらいによく分かる。


「あなたが、幸せに、なりませんように」


 だって彼女の肩は震えている。

 胸元で囁かれる呪詛は、その奥にある心臓を侵していく。


「だから、お願い。どうか。私が、いないのに、幸せにならないで。そうじゃなきゃ、私達の日々は……」


 もしも他の誰かと幸せになれるなら、あなたにとって、私はなんだったのかと。

 二人で笑い合えた日々に、どれだけの価値があったのかと、花は縋るように声を絞り出す。

 呪いを掛けられた弥太郎は、何も言えず立ち尽くした。

 優しい言葉をかけてあげたかった訳ではではない。

 本当は、辛辣になじって「てめえと離れられてせいせいするよ」とでも言ってやらなければならなかった。

 花が中根の家で気兼ねなく暮らしていけるよう、ここで未練を断ち切ってやるべきなのに。

 彼は何も言えなかった。





 ……想い合うが故に選んだ道の筈だった。

 なのに、最後の最後で互いの幸福を願えなかった二人。

 もしも「幸せになる」というのが才能だとするならば。

 彼等には、致命的なまでにその才能がなかった。


 ───傍にいなくても、遠く離れていても、あなたが幸せでありますように。


 弥太郎は、花も、そう祈ることができなかった。




 別れの際にどんなやりとりがあったところで末路は変わらない。

 花は中根の妾となり、その一年後には弥太郎の下へ彼女の訃報が届く。

 この一幕に関して人に聞かれると、彼は決まって偽悪的にこう答えた。


『ああ? 花なら成金男に売ったよ。“すぐに死ぬから処分に困らねえぜってな”。ははっ、実際すぐに死んだらしいがな』


 花の為になんて、口が裂けても言えなかった。

 そうして、慕ってくれた少女を売っぱらって得た金で、彼は人身売買業者として地位を確立する。


“蓼虫の弥太”と言えば、難のある娼婦ばかりを商う、親しい女でも笑って売り飛ばす悪辣の女衒だと。



 

相手の幸せの為に非情な選択をしたくせして、最後まで冷たい態度を演じきれなかった見っとも無い男女のお話。

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