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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ


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【花とコガネムシ】・3




 花という少女への周囲の評価は、だいたいが似たようなものだ。


“いつも笑っている”、“明るく無邪気”。

“嘘が苦手”、“人の悪口を言わない”、“裏表がない”。

“誰とでも親しくできる”、“まだまだ子供っぽい”。

“色気が足らない”、“深く考えないタチ”。

 

 総じて年齢相応の、人見知りしない明るい普通の女の子、といったところ。

 娼婦特有の艶っぽさはないが、その分あどけない振舞いがウケて、お客様にはそれなりに人気の嬢だった

 誰とでも仲良く、いつだって笑顔だから、「悩みなんてなさそう」と言われてしまうこともある。

 ただ、そこは花街の女。噂されるほどお気楽に生きている訳ではない。




 そもそも花は、父親の死を契機に玉の井へ流れてきた。

 彼女の父は大金を稼げる有能な男で、しかし女癖に関してはあまりよくなかった。結婚してからもそれは治らず、常に一人はめかけがいた。

 一応避妊には気を遣っていたようだが、何事も完璧とはいかぬもの。

 迂闊にも妾を孕ませてしまい、生まれたのが花だった。


 おまけにお相手の女性はすぐ病気で亡くなった。責任を感じていたのだろう、父は花を引き取り……その先は、まあ、よくある話だ。

 父親と、母親と、その子供。仲のよい家庭に紛れ込んだ、余所で孕ませた妾の子。

 父は仕事で家を空けがち、継母とその子供には疎まれて。

 はっきりと言えば、花の居場所なんてどこにもなかった。

 

 それでも何とか生活は出来ていたが、父親が徴兵され、戦地で死亡したことで状況は一変する。 

 父が死んだ以上、継母にとっては妾の子なんぞ何の義理もない他人に過ぎない。


『金も家も、あの人が遺した全ての権利は私達にある。お前に渡すものなんて、一つだってもあるもんか』


 継母は激しく怒り、その子供はにやにやと嘲り。

 いとも容易く花は家を追い出された。

 年端もいかぬ少女に真面まともな働き口なんてある筈もなく、落ち着いた場所は迷宮の私娼街。

 花は玉の井の、お座敷ストリップを主とする料亭に転がり込んだ。



 恵まれているとは言い難い生い立ちであっても、花はそれを嘆かない。

 追い出されたのは事実だが、逃げ出したいとも思っていた。ならば利害は一致しており、ストリップも あの家での扱いに比べれば悪くない仕事だ。

 時に本番を強要するお客様もいるし、周囲の蔑みも理解している。それを踏まえても、玉の井での暮らしは平穏とさえ言っていい。

 決して幸福とは呼べないけれど。

 花は、非合法の娼館街で、初めて安息の日々を得た。


 それはとても嬉しいことの筈で。

 しかし逆に言うのならば。

 彼女は此処での安息の日々を、幸福だとは思えなかったのだ。




 ◆




 座敷を照らす行燈の灯りに女給の肌が染まる。

 瑞々しい肢体が露わになる度、男どもから下品な歓声をあがった。

 もっとも女給は十代半ば。小柄で、色気も今二つ。煽情的というには些か艶が足りていない。

 しかし幼さや拙さを残す少女が衣装を脱ぎ捨てていく様は、“いけないもの”を覗き見るような心地にさせて、興奮は否応にも高まった。

 迷宮の私娼街、玉の井の夜は独特の熱を帯びている。

 花街には似合わぬ若さの娘……花の裸体を男達は食い入るように見つめていた。




“ごちそう”を堪能した後は、熱に浮かされた男達も帰路を辿る。

 彼等は揃いも揃って興奮冷めやらぬといった風情だ。

 戦時中にも関わらず零れる、締まりのない満足げな表情は、確かに女給たちの功績だろう。

 いつ空襲が始まるか分からない。この国にいる以上、命は明日とも知れぬ。

 不安に眠れない夜もあり、それを忘れさせてくれる花街の女性は、誰に蔑まれようと男達にとっては女神のような存在だった。


「じゃあ、先帰るけど戸締りお願いね」

「はーい、お疲れ様でした」


 もっとも、美しき女神も控室に戻れば普通の女性。

 一仕事終えた心地良い疲れを感じつつ、お客さんから頂いた差し入れを土産に、料亭を後にする。差し入れが美味しいお菓子なら言うことなしだ。


「おう、着替え終わったか?」

「あ、弥太郎。うん、準備できたよ」


 花だってそういう一人。

 座敷でおしげもなく肌を晒し、挑発的な笑みを浮かべる少女も、一息つけば純朴な素顔を見せてくれる。

 ちゃっちゃと着替えた後は、他の女給達が帰るのを待つ。そうすると仕事終わりの弥太郎が控室に顔を出す。そこから近場の食堂に遅めの晩飯を食べに行くのが二人の恒例となっていた。

 花にとって、それはちょっとした楽しみだった。







 そして、弥太郎にとっても。

 当時は気付けなかったけれど。

 何気ない帰り道を、きっと彼は尊いと思っていた。


「晩ご飯は奢り?」

「勘弁してください。つーか、お前の方が稼いでるだろうが」

「うーん、なら私の方がごちそうを……」

「それはそれで男の矜持ってやつがな」

「弥太郎は面倒くさいなぁ」


 けらけら笑ってからかう花に、弥太郎は小さく溜息一つ。

 けれど口の端は緩んでいて、寒い冬の夜道はそれなりに暖かい。


 料亭から定食屋までそう離れてはいない。

 この短い距離を二人で幾度も歩いた。


 会話の内容を思い出そうとしても、多すぎて全ては汲み取れない。

 何気ないこと、あの店のあれが美味しいとか、仕事のちょっとした愚痴。

 星が綺麗な夜には空を見上げたり、場のノリだけで下らない冗談を言ってみたり。

 悪化する戦況に逼迫していく生活。形にならない不安を零しては、根拠のない「大丈夫」に縋ることもあった。

 銘酒屋の灯りを標に連れ立つ夜道。

 花街の香りに包まれながら、弥太郎と花は、本当に色々と話をした。


「私? 私が玉の井に来たのは、お父さんは死んじゃったから、かな。帰る家もないし」


 そうして親しくなれば、生い立ちに触れることもある。

 定食屋、いつもの席。和やかな夕食をとりながら、ふとした瞬間の失言に、花の過去へと話は転がった。


「そいつは、戦争で?」

「うん。戦地に行って、それでも遺骨は帰ってきたから。まだ恵まれてた方だと思うよ」

「ま、そうだわな。帰ってこれない男の方が格段に多い」


 てめえの不用意さは恥じても、彼女の境遇に同情はしない。

 このご時世、戦地で死ぬ父親なんざ、どこにだって転がっている。在り来たりな不幸を聞かされても今更感慨など湧かず、弥太郎の応答はみそ汁をすすりつつの適当なものだ。


「ただ、私はお妾さんの子供だったから。お父さんが死んだら家にもいられなくて。お金もなかったし、流れ流れて、こういう街に収まりましたー」


 花の方だって別に憐れんでほしかった訳ではないだろう。

 実際本人も大して気にしていないようで、語る過去の重さに反して、物言いはぺらっぺらの紙切れみたいに薄くて軽い。

 けれどほんの僅か瞳に滲む憂いが、おちゃらけた態度の奥に潜むモノを教えてくれる。

 薄くて軽い紙みたいなら、たぶん迂闊に手を伸ばせば指先が切れてしまう。そういう危うい繊細さが彼女にはあった。


「そいつぁ、納得いかねえ話だな」

「そう? でも仕方ないよ。私、嫌われてたし」

「だとしても、オヤジさんの遺したもんに対する権利くらいはあるだろうに」

「あー、そこは。うん、そうだけど」


 妾の子が父と共に暮らしていた。

 ならば血の繋がらない母親からの扱いなんて容易に想像がつく。

 そして父が死んだら家にはいられないと。つまるところは、父親が亡くなった後、母親に追い出された、というところか。

 当然、親の遺した金なんざ、欠片も貰えずに。

 お金はない、住むところもない。食うに困った少女は玉の井に流れて、今や立派な花街の女。

 けれど彼女の母親は、きっと今ものうのうと生きているのだろう。


「ったく、嫌になるな。理不尽ってのは何処にでもあってよ」


 たとえば、無駄に歳を食った“蓼虫の弥太”ならもう少し気の利いたことを言えたかもしれない。

 しかし今の彼は、まだ若く青い“弥太郎”。口を突いて出るのは花への慰めではなく、世の理不尽に対する反感だった。

 搾取され続け、母の今際に粥さえ用意してやれない自分。

 居場所を追われ、ストリップ嬢に身を墜とした少女。

 正しく生きるだけでは報われない。悪辣だろうがなんだろうが、持つもの持ってる奴だけが幸福を甘受できる。なんでか知らないが、世の中ってやつは、そういう風にできているのだ。


「弥太郎?」

「あん? どうかしたか」

「……そういえば、弥太郎はあんまり昔のこと話さないね」

「まあ、気持ちのいい話じゃねえしな」


 そっけない返事になってしまったと思う。

 なのに彼女は変わらずに笑顔で、「そっか」と一言相槌を打つと今度は夕食に舌鼓。

 

「でも、あんまり溜め込むくらいなら、吐き出してもいいからね」


 そうして無邪気に、何も知らない少女は、喜劇役者のようにおどけてみせる。

 後になって、振り返って、ようやく分かる優しさがある。思えば弥太郎は、年下の花に随分と甘えていた。

 それに気付けないくらい、彼の目は曇っていた。




 ◆




 ささやかな触れ合いをかき消すように、戦況は悪化の一途を辿る。

 おそらく日本は連合国軍に敗ける。少しずつ困窮していく生活に、きっと誰もが敗戦を肌に感じていた。

 もっとも、それとは関係なしに弥太郎の毎日は忙しい。 

 懸命に働き。経営者には従順なふりして、色々と手伝いながら花街のイロハを学んで。

 ボロアパートに帰ったら勉強したりも。

 戦争に敗けたらこの国はどうなるのか。過る不安から目を逸らすように、彼は懸命になった。


「今日は、あまり集中できていないね」


 ただ、ひたむきになれない時だってある。

 弥太郎は、ほんの小さな何かが胸に引っ掛かっているのを自覚していた。


「……え、あぁ。すまねえ。せっかく藤吉さんが時間割いてくれてんのに」

「いやいや、そういう時もあるさ。今日はこのくらいにしておこうか」


 隣の部屋に住む藤吉とは随分と親しくなった。

 年齢差、先輩後輩なんて関係なく友人同士。初めての酒を教えてくれたのも彼で、親類のいない弥太郎にとっては数少ない頼れる人だ。

 今晩だって勉強を見てくれて、しかしどうにも乗らない気分を見抜かれてしまった。

 授業はここで中断となり、残りの時間は取り留めもない雑談に使われる。


「仕事で不都合はなにかあるかい?」

「いんや。先輩にも、藤吉さんにも良くしてもらってる。多少のしんどさはあっても、十分働きやすい職場だよ」


 例の女口調の先輩とは違い、藤吉は料亭で厨房を担当。

 その為勤務中の絡みはあまりないが、本当に二人には助けられている。ここまで辞めずに働けたのは間違いなく彼らのおかげだ。


「なら、その憂鬱は花が理由かな?」


 ただ厄介なのは、藤吉の気質というか。

 このお人は基本穏やかで優しく、よく周りを見ていて、気遣いも忘れず。なのに時折痛いところを的確に突いてくるから油断ならない。


「あーと、だ。藤吉さん、そいつは、どういう……?」

「おや、違ったかい?」


 弥太郎はぎくりとして大きく目を見開く。

 しかし指摘をしてきた当の本人は、のほほんとお茶の準備なんてしているのだから、こちらとしても反応に困ってしまう。


「最近は随分仲がいいじゃないか。なのに時折、彼女を追う目が少し陰る。そこに恋慕とは違う何かを邪推するのは、そんなに不思議かな」


 出がらしのお茶を差し出しながら、攻めの手も緩めない。

 本当に、よく見ている。

 藤吉の言に間違いはない。弥太郎が花へ向ける感情は、惚れた腫れたよりも、もっと複雑な何かを含んでいた。


「喧嘩でも?」

「いいや、そういう訳じゃないんだけど」


 にへらと笑って誤魔化せば、藤吉はそれ以上踏み込んで来なかった。

 たぶん何も言わずにいればそこで話題は終わる。そうと分かっているのに、一拍子二拍子と間を置いて、弥太郎はぽつりと答えた。


「やっぱさ、思ったんだよ。正しく生きても、報われないんだなぁ、って」


 結局のところ吐き出したかったのかもしれない。

 鬱屈とした感情を抱えたままでいるには彼は若過ぎて、相談とも独白ともつかない言葉を垂れ流す。


「花はさ、多少やかましいが、いい子だよ。なのに妾の子だって家を追い出されて、花街に落ちて。なあ、藤吉さん。それを理不尽と思うのは、俺が田舎モンで、世の中を知らないからなのかな?」

「いいや。優しくて、若いからさ」


 それを聞く藤吉は真剣ではあったが、どこか微笑ましそうにもしている。

 

「弥太郎さんは妾の子だといじめられるのは理不尽だという。なら、幸せに暮らしていた女性が、夫の浮気相手の面倒を無理に負わされるのは理不尽じゃないのかな」

「そらっ……それは」

「このご時世だ。妾の子のせいで大切な息子がお腹を空かせるなんて耐えられない。納得いかなくても、母親としての行いなら、責められるようなことではないと思うよ。遺産を奪い、追い出すことも含めてね」


 だからそれを理不尽に思うのはまだ若いからで、花の不遇を慮れるくらいに優しいからだと、藤吉は言う。

 返ってきた答えは、花の母親に対する擁護でもあって、それが弥太郎には面白くない。

 母親の方にも事情がある。その指摘は正しいのだろう。だけど、だからって、花を虐げていい理由になるのか。

 奪われても、事情があるなら許してやらなければいけないのか。

 もう花のことだけではない。脳裏には理不尽に奪われ死んでいった母の姿が映し出されている。


「……俺は、そんなの分かりたくねえ。事情があったら、理不尽が許されるのか? だったら踏み躙られたもんの気持ちは何処へ行くんだよ。情状酌量なんてクソ食らえだ。どんな理由があったって、奪われたもんは、返って来ねえんだ」


 理由は罪科を軽減しても、被害を補填はしない。

 搾取した側に事情があって、それが同情に足るものだったところで、死んじまった母ちゃんが生き返る訳じゃねえだろうが。

 反感を覚えた弥太郎は、情動のままに睨み付けた。


「別に納得しろとか、許せとか、そういう話ではないよ。正直に言えば、僕も花の母親の行いを快くは思っていない」


 しかし藤吉は変わらず穏やかなままだ。

 こちらの態度が悪くても不機嫌にはならず、叱責もせず、教師のように諭そうとしてくれる。


「だけど君みたく憤れもしない。身につまされもするしね」

「それって、藤吉さんも似たような経験があるって話か?」

「さあ? でも僕は君より十年は齢を重ねているからね。その分、母親の方の立場も理解できてしまうんだ。……つまり、歳をとったってことなんだろうなぁ」


 最後の一言は、問いに答えたというより、単なるボヤキに聞こえた。

 考えてみれば、藤吉も三十路くらい。今は独り身のようだが、過去にはあれこれあったのかもしれない。

 そうと思えば荒れた胸中も多少は落ち着き、だが反感は残っている。

 矛先は藤吉ではなく、ありふれるくらいに転がっている理不尽へ向く。

 どれだけ言葉を尽くしたとして、弱者として生きてきた弥太郎には、奪う側の都合で「仕方ない」と終わらせられなかった。


「ただ、そんな無駄に歳をとったおじさんの目線から言わせてもらえるのなら。花の不遇に自身の嘆きを重ねるのはやめた方がいい」


 そういう蟠りの残った胸中を一点に突き刺された。

 いきなりすぎて何を言われたのか一瞬理解できず、弥太郎はおたおたとまごついてしまう。驚きに藤吉を見返すも、その態度があんまりにも普通過ぎるから戸惑いは増した。


「だってそうだろう? 今の君は、花の境遇にかこつけて、自分の不満をぶちまけているだけだ。他人を隠れ蓑にして安全なところから責めるのは卑怯者の行いだと思うよ」

「卑怯って。……きついなぁ」

「はは、性格悪いからね」


 辛辣な物言いでも不機嫌にならないのは多分自覚があったから。

 指摘は正しい。弥太郎の内心は、花の不遇を憂うばかりではない。彼女を通してテエメの不幸を嘆いた。


“この子はこんなにかわいそう、だから世の中は間違ってる!”


 なるほど。自分よりも年下の少女をダシにして周囲に当たり散らすなんざ、確かに卑怯者だ。


「まいった、藤吉さんの言う通りだ。自分の不満をぶちまけんのに、花を言い訳にしちゃいけねえよな」

「そうやって諫言を飲み込んで、素直に自分を正せるのが弥太郎さんの良いところだね。図星を指されると躍起になって否定する人の方が多いから」


 思ってもみないところで褒められて、なんとなく居心地が悪いような。

 どうにも据わりが悪くなって、にへらと誤魔化すように笑いながら弥太郎は立ち上がった。


「っと、悪いな。長居しちまって。そろそろ帰って頭冷やすよ」

「そうかい? これに懲りずまた来てくれると嬉しいな」

「勿論さ」


 今日はもう勉強なんて気分でもない。

 そそくさと逃げ出すように玄関へ向かう途中、「そうだ、あと一つ」と気楽な調子で呼び止められる。


「人間歳をとれば、小さな頃には気付けなかった些細なものに目を向けられるようにもなる。でもね、老いて初めて分かることがあるのと同じく、若くないと見つけられない景色だってあるんだ」


 ぴたりと足を止めて振り返れば、当の本人はいやに柔和な表情。

 声も一段は優しくなり、微笑ましいとでも言わんばかりの生暖かい目をこちらへ向けていた。


「僕は歳をとったから花の母親の苦悩に共感もできる。その分、花にだけ肩入れは出来ない。でも弥太郎さんはそうじゃない。ちゃんと、花の心に、哀しみに寄り添ってあげられる」

「んな、大層なこっちゃねえと思うけど」

「大層なことさ。少なくとも僕にはできない。……君は若い。視野が狭く、世の理不尽を割り切れない。だけどそういう君にしか注げない優しさも、僕はあると思うよ」


 弥太郎は上手い返しも出来ず口を噤んだ。

 藤吉が何を伝えたかったのか。まだ“蓼虫の女衒”に届かないただの“弥太郎”では、その意を正確には汲み取れない。


「だから尚更、弥太郎さんはちゃんと花に向き合わないとね。嘆きにばかり耳を傾けていると、たぶん、大切な言葉を聞き逃す」


 それでも響くものはある。

 歳をとることで、ぼやけて見えなくなるものがあるのなら。

 きっと、今でないと花の姿を捉えられない。

 弥太郎は藤吉を信頼していた。だからこそ、意味の分からない言葉も心の片隅に残った。

 もう一度花と話をしてみようか。

 今度は、世の理不尽に目を曇らせず、しっかりと。

 そう、素直に思えた。




 にも拘らず、弥太郎がその機会を設けられたのは随分と後の話になる。

 母が死に、流れ着いた東京。迷宮の私娼街での暮らしは思った以上に穏やかで。

 けれど心を交わすような悠長な真似は出来なくなってしまった。




 空を仰げば、薄暗い雲に映し出される機影。

 B-29が東京の空を覆い。

 そして、たくさんの、爆弾を。

 



 昭和二十年 3月10日。

 東京大空襲 当夜。

 花に色付いた迷宮の私娼街。

 大切な少女と共に過ごした玉の井は、一夜のうちに焼失した。








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