【蓼虫】・4
「蓼虫の、俺は言ったよな? 借りは返せって」
「はい、しっかりとお聞きしました」
「まさかよ、義理堅いお前が返し終わる間に頼みごとしてくるなんざ、想像してなかったぜ」
「いやはや、御怒りはごもっともで」
どういう訳か知らないが、この岩本という不良警官は、それなりに弥太郎を買っているらしい。
いきなりの頼みごとに文句は言えど、そこまで腹を立てた様子はない。あんみつを食べながらなので、あまり威圧感を感じないだけかもしれないが、
「取り合えずだ、その逃げ出した娘っ子をどうにかしたいって訳か」
「はい。俺に出来る謝礼なら、なんでも……とは言えませんが、出来る限りさせていただきやす。どうか、お力添えを願えないでしょうか?」
ともかく、頼れるのはこのお人だけ。
喫茶店で人目もあるが、誠心誠意頭を下げてどうにかこうにか助力を願う。
その必死さに違和感を覚えたのか、岩本は片方の眉を吊り上げた。
「“蓼虫の弥太”が、たかだか女一人の為に随分食い下がるじゃねえか。そんなに件の娼婦は金になりそうか?」
「いえ、あー、どうでしょう。相変わらずの、品選びなもんで」
「なんだ、結局はゲテモノかよ」
白い髪に白い肌、幼過ぎる容姿。話術も拙く常識に疎く、美しくても一般受けするような女性ではない。
ご愛顧してくれる客はおそらく、外国人を好むヤツか、色んな意味で“子供好き”なお兄さんか。
然るべきところに放り込めばそれなりの値にはなるだろうが、費用対効率で論じれば、決して良いとは言えない筈だ。
「ゲテじゃありませんが、キワには違いなく。ただ、なんといいましょう。花街で管巻く蓼虫にも、譲れないものがあるんでさ」
そうと知っているのに拘るのは、利害以外の何かがあるから。
きっと誰に話しても理解はしてもらえない。
しかし諦めるつもりもない。
あれは、自分を終わらせる女。言ってみれば借金取りだ。
だから色々なものを返さなくちゃ、最期は迎えられない。そうと自分に言い聞かせる。
「ほぉ、じゃあよ」
そういう潜めた熱を察したからか、岩本はイヤらしい笑みを浮かべる。
「その女が助かったら、俺の前で股開かせろや」
助けてやるから、後で抱かせろ。
それを野卑な申し出だとは思わない。性欲剥き出しの男どもに、幾度となく女を捧げてきた。
そうやって得た金で遊んで暮らしてきた男だ、今更激昂するのは間違っている。
「無理矢理はご勘弁を。ただ口説くのならご随意にどうぞ。あいつが納得すりゃあ、俺ぁ、別に構いませんぜ」
なにより、思った以上に、心は平静で。
誤魔化しではなく、素直に穏やかな言葉を紡げた。
だからこの胸を染めるのは惚れた腫れたの艶っぽい色味ではなく。昔から抱えてきた、古びた大切なもので。
同じくらい大切な、新しく生まれた願いなのだと信じられた。
「……はん、冗談だよ。蓼虫のが扱う女は、俺の趣味にゃ合わねえんだ」
岩本は前言を翻し、つまらなそうに吐き捨てた。
そうして食べていたあんみつの最期の一口を放り込んで、ゆっくりと重い腰を上げる。
「おら、行くぞ」
「え?」
「だから、その娘っ子、取り返すんだろうが。とっとと済ませてやるから、今後この店のツケは全部お前が支払え」
「え、ええ! そんくらい、いくらでも!」
「ったく、この店のアイスとあんみつ、白玉ぜんざいとミックスジュースに感謝しろや」
「……岩本の旦那、甘党だったんすね」
「余計なこと言ってんじゃねえ」
頭をはたかれても、口元は緩んでしまう。
真っ当な味方とは言い難いが、これでりるを取り戻すのは容易になった。
そいつが嬉しいのか、他に理由があるのかは分からないが、足取りはひどく軽かった。
「あのクズがよくもまあ、ああも変わったもんだ」
だから後ろからついていく不良警官の呟きを聞き逃した。
◆
『子供を愛さない親なんていないと、俺は思うよ』
いつだったか、なんて思うほど昔の話ではないけれど。
蓼虫のくれた言葉は真実だったのではないかと、今更ながらにりるは考える。
尊敬できる父親ではなかった。屈辱に苛まれ、娘を軟禁し。呪詛のように「お前は神の娘だ」と繰り返す。
結果として、りるは化生へ堕ち。そんな親を慕える筈がなかった。
それでも、コオイムシの屋敷は怖くなかった。
何もしなくても、何も考えなくても、生きていられた。
閉じ込められてはいたが、守られてもいたのだ。
虫篭を出て、人の世界に紛れ込んで、ようやくそれを思い知りもする。
『……お前さんにゃ、まだまだ味わってほしいもんがいっぱいあるんだ。その中に、虫より旨いって思えるもんがあるといいな』
見えていないものが多かった。
そういうものを、彼はちゃんと教えてくれようとしていたのだと、気付いてもいなかった。
それを「日々精進だ」と得意になって、少しずつだけど視野は広がって。
広がった分、見たくないものが視界に映り込んでしまうことさえ、分かっていなくて。
だから、そうと理解した時に、ひどく怖くなって逃げ出した。
つまりは神の娘だ。
オザシキさんの御子は、それこそ蚕のように、誰かに利用されるのを待っていなければならなかった。
そうすりゃ多少は役立ったろうに、光に憧れ飛び立とうとしたのが運の尽き。
退化した翅では羽ばたけず、現実という風に吹かれて、あらら残念地面に落ちた。
結局は、落ち着くところに落ち着いたというだけ。憐れむような話ではない
「りるちゃん、お茶でもしないか?」
ならば、どれだけ恐ろしかろうと、この男の手から逃れようとは思わなかった。
なんの思惑かは分からないが、水無瀬三千年は行き倒れていたりるを拾い、自宅へ連れ帰った。
正直に言えば、嫌悪感はある。
彼の胸元では、今も黒い影がカサカサと。
見ているだけで背筋が寒くなり、悲鳴を上げてしまいそうになる。
しかし命を助けられたのは事実だし、この身がカイコならば、誰かの手の中で利用されるのが似合いだろう。
どのような扱いを受けたとして、りるは、それを受け入れるつもりでいた。
「は、い」
「なあ、君は今迄どんな……いや」
「どうか、され、ました、か?」
「いや、なんでもない。君がいいのなら、いつまでも此処にいていいからね」
そういって三千年が浮かべる笑顔は、ちゃんとりるを気遣ったもので。
はい、分かりました。そう頷こうとしたちょうどその時。
────呼び鈴が、鳴った。
◆
水無瀬三千年は真面目で、自分なりの正義感を抱いた、世間的に見れば善人である。
多少の視野の狭さはあるが、それでも間違いなく、悪食の女衒なんぞよりは信用される真っ当な人間だった。
りるを助けたのも、別に幼い娘と“いたす”趣味があるとか、貧乏人に施しを与えて悦に浸るとか、そういった下劣な思惑があった訳ではない。
彼は自身の心に従い、女の子を助けただけだ。
「こんにちは、水無瀬さん。お邪魔させてもらいますぜ」
だから逆に、守られるべき女の子を食い物にする輩なんぞ、疎ましくて仕方がない。
蓼虫の弥太とかいうクズはその筆頭。顔を見るだけでも怒りが込み上げてくる。
「また、貴方ですか」
性懲りもなく訪ねてきたうすら笑いの男、弥太郎に対して三千年は毒づく。
なにせ、りるを攫ってきた女衒だ。ああまで男性に怯えるのは、おそらくこいつに酷い扱いを受けたせいだろう。
それを考えれば、殴り掛からないのを褒めてもらいたいくらいだ。
「ええ、俺です。りるを返してもらおうと思いましてね」
「だからそんな娘は知らないと」
「おや、俺ぁ娘だなんて言いましたっけ……なんて上げ足取りはいいとして。あの子は、うちの従業員でして。それを勝手に攫われちゃあ、こちらとしても困りますよ」
「……本当に警察を呼ぶぞ」
適当なことを並べ立てる弥太郎に心底苛立つ。
けれど相手は相変わらず飄々と、バカにしたようににやつくばかり。流石に我慢できず、怒鳴りつけてやろうと一歩を踏み出せば、気勢を削ぐようにポンと柏手一つ。
「おお、そりゃあいい案だ。さっそく呼びましょうや」
それを合図に、どこに隠れていたのか、ずいと警官服の男が視界へ入り込む。
四十に届こうという年齢の、ガタイのいい。しかしこちらもお世辞にも真っ当な警官とは言い難く、警棒を手で弄びつつ、嫌らしく口角を吊り上げている
「ねえ、川原の旦那?」
「おお、此処が件の誘拐犯の塒か? いけえねえな、人様の店で働いてるお嬢さん攫って監禁たぁ、重罪じゃねえか」
川原とかいう警官は、弥太郎に同調してうんうんと頷いている。
なにを訳の分からないことを。いきなりの展開に、三千年は今一つついていけない。
ただ、警察のものが、これを誘拐として扱おうとしているのは分かる。だから慌てて弁明をし出した。
「ちが、私は、誘拐なんて」
「ならよ、家探しさせてもらうぜ。潔白なら。嫌たぁ言わねえよな?」
「それはっ」
誘拐ではないにしろ、少女を連れて帰りして、現在家で保護しているのは事実。
この女衒はなにを吹き込んだのかは知らないが、後ろ暗い気持ちはなくとも外聞が悪いのは間違いない。
それでも、弥太郎の下に返すという選択肢はなく。どうにか抵抗しようとするが、目配せする二人の様子に彼は遅ればせながら気づいた。
「あんたら……っ!」
考えてみれば当たり前だ。
まともな警官が、女衒の申し出にホイホイとついてくるものか。
だったら、こいつらはグルで。自分を誘拐犯に仕立てあげて、逃げた娼婦を連れ戻そうとしているのだ。
「ああ、一応書類も持ってきましたんで、どうぞご確認ください」
言いながら取り出した紙切れには、りるが弥太郎の店で働いている二十歳の女給だということ。
労働に応じて給金を支払うこと。
後見人の許可を得ていることなどが書き連ねている。
「間違いねえな。んで、水無瀬さんよ。てめえが女攫ったってのも事実、だよなぁ」
「攫ったって、私はただ、彼女を保護した」
「ああ、分かってる分かってる。危ない趣味の奴はみんなそう言うんだ」
あんな書類、あの娘の幼さを考えれば単なるでっち上げだと分かる。
なのに受け入れてしまっているのは、最初から抱き込まれているから。
「だが保護したっていうならよ、店のもんが迎えに来た時点で返すのが筋ってモンだろ」
「何を言っているんだ、あんたは!? あの男は、クズの女衒で」
「ほぉ? 俺にゃよく分かんねえなぁ」
とぼける姿に殺意さえ湧いてくる。
確かに、普通の店で働いていたのならば、返すのも道義だろう。
けれどあの男は人身売買を生業とする。そんな男の下に戻したなら、あの小さな娘がどうなるか。
だから保護しようとしたのに、警察官までが抱き込まれ悪辣を是とする。
「大人しくしてろよ。誘拐犯として、人生棒に振りたいなら別だがな」
正義は自分にあり、紛れもなく弥太郎が間違っていて。
その筈が、官憲には逆らえば誘拐犯として逮捕される。
どうにもならない状況に縛られ、物理的にもがっしりと肩を捕まえられて、三千年は身動きもできなくなってしまう。
「じゃ、お後お願いしますぜ、川原の旦那」
「おおよ。さっさと、女連れてこいや」
こんな無法が許されていいのか。
勝手に自宅へ入っていく弥太郎の背中に罵倒をぶつけても、振り返ることはなかった。
◆
「悪いな、水無瀬さんよ。たぶんあんたは多少頭は固くても、いい人なんだろうがなぁ」
断っておくが、弥太郎は三千年を責めてはいない。
むしろ正しいことをしていると思っていた。
悪辣の女衒に攫われた娘を匿い、生活の場を提供した。追っ手が来ても誤魔化して、その後の面倒も見ようとした。
冷静に考えれば、悪人は自分で、彼は読み本に描かれるような救い手だろう。
或いは、りるも。こういう金持ちの家に貰われていった方が幸せなのかもしれない。
それを追ってきたのは、彼女を慮ってではなく、単なる私情だ。
だから水無瀬三千年は悪人でなく、弥太郎こそが不逞の輩。
その事実は覆らない。
「おうよ、お嬢ちゃん。もう逃げられねえぜ」
ならばせいぜい、無法に振る舞おうではないか。
三下のちんぴらがするような下品な笑みを張り付けて、彼は水無瀬邸の一室へ土足で上がり込む。
そこにあるのは、白細工。
せっかく人に近付いたのに、その日々を忘れてしまったのか。
伊之狭村で出会った時のように端正な造形の少女────神の娘が飾られていた。
「弥太郎、さん……?」
しかし傍と目が合えば、僅かながらに色が戻る。
一度外に出た以上、良くも悪くも、虫篭の中のお姫様ではいられない。
人の世界で暮らしたりるには、おカイコさまを気取りつづけることは出来なかった。
「ったく、さんざん手を煩わせやがって。おら、とっとと戻るぞ」
安心して、ほうと息を吐いて、必要以上に乱雑な物言い。
悪辣の女衒らしい振る舞いを心掛けてみたものの、険しい顔は作れていないので、多分ドスは利いていない。
「いや、です……。戻りたく、ありま、せん」
とはいえ多少は効果があったのか、りるは肩を震わせて怯えている。
恐怖に敗けて泣きそうになるくらい。まるで本当の少女のように、怖くて怖くて仕方がないのだと、その瞳が訴えかけていた。
「ああ? りるよ、ちょいと勘違いしてねえか? そもそも、お前さんに選択肢なんざねえよ。女衒に買われるってな、そういうこったろうが」
この構図は、まさしく悪い男と攫われる女だなぁ。
なんて、当たり前のことにしみじみとしてしまう。
そうやって感傷に浸るのは、どれだけ内心に蓋をしても、結局は従うだけの娼婦とは見ていなかったことの証左なのかもしれない。
まあ、仕方ないか。あいつは、俺の運命を握ってるんだからな。
舌の上で転がした言葉は、きっと誰にも届かなかった。
届かないまま片膝をつき、りると視線を同じくする。
「なあ、なにが嫌なのかは分かんねえが、多少は融通きかせてやるぜ? だから、とりあえずは戻りな」
「いや、です」
「おいおい、我儘言うなよ。あんま続くと、俺も優しくはいられねえぞ」
脅し付けるような一言に、彼女のは一際大きく反応した。
ようやく真っ直ぐ、こちらの目を見て。真っ直ぐなままに、心の中をぶつける。
「嘘、です。戻れば、あなたは、優しく、しようと、します」
「あぁ?」
「だって、その左目。見えて、いないのに。誰も……私を、責めようと、しません、でした」
虚を突かれた形になった。
ひどい扱いが嫌なのではなく、優しくされるのが嫌だという。
加えて、少しばかり侮っていたか。上手く隠していたつもりが、見えなくなった左目にも気付かれていたらしい。
「ウジムシに、潰されて。それなのに、普通に、振る舞って。今もこうして、迎えに、きてくれました」
動揺の隙間へ滑り込むように、怯えながらもりるは語る。
何も言わなかったのは、この娘と正義の負担にならぬよう。余計な荷物はいらないだろうと、なんでもないように振る舞った。
その行いこそが、彼女を追い詰めていたのか。
「そんじゃ、なにか? お前さん、俺の迷惑になると思って、逃げたってか?」
りるは、こくんと。小さく頷きで返した。
「いやいやいや、おかしかろうに。この目、普通に俺が下手打ったせいだし。だいたい、俺が死ぬって預言しただろうが。それを今更一緒に居たら迷惑かけるとか」
予想外の答えに弥太郎は慌ててしまう。
元々、始まりには神の娘の預言があった。いずれこの命を終わらせる女。そこに運命を見たからこそ、弥太郎はこの子を買ったのだ。
りるだって、いずれ死ぬ輩だと知った上で付いてきた訳で。
それを土壇場になって、なんでまた逃げ出すという発想に繋がるのか。
「私、には。“虫”が、見えます。だから初めて、会った時から、分かっていました。あなたは、いつか、誰かの心に食われて、死ぬのだと」
そんなもの、別に特別な<力>なんぞなくても知っている。
そりゃあ死ぬのは怖いが、他人を食い物にして遊んで暮らす男の末路にゃ似合いだと納得もしていた。
「それでも、救いの手を差し伸べてくれたから、光が見えたから。何も考えず、飛びついてしまった」
りるだって、コオイムシの屋敷で朽ちていくよりはと、そこに救いを求めた。その筈だった。
「でも、一緒に暮らして。色々と、教えてもらうたびに。いつか、貴方を殺すもの。それを形にするのが私の、神の娘の<力>だと思うのが、怖く、なりました」
そういう道を選べたのは、きっと何も知らずに守られていた、虫篭の中のお姫様だったから。
でも知らないものを知る度に、色んなものが怖くなった。
今迄は誰も傍に居なかった。そのせいで、気付かなかったのだろう。人が死ぬという本当の意味に。
「虫が肉を、傷つける形を持ったのは。きっと、私のせいです。あなたは、死んでしまう。一緒にいてくれたのに、手を引いて、頭を撫でてくれたのに。心の“虫”に食われて。私には、それが、見えて、しまうの」
今日まで笑い合っていた誰かが、明日には居なくなるその重さを。りるは考えようともしなかった。
それが当たり前だったのに、人の世界に降りてきて。沢山の暖かさを知ったから、離れた瞬間の寒さを想像するだけでも怯えてしまう。
「自分で、口にしたくせに。いつかが訪れる時が、怖くて。いてもたっても、いられなくて」
「だから、逃げたって?」
そうして気付いた時、一目散に逃げ出した。
なにも知らぬ娘を傷付けまいと、目が見えないことを黙っていた優しさも。
いずれ訪れる死という、致命的な瞬間も。
なんなら、今の幸福な日常がほんの少しでも脅かされることだって。
怖くて怖くてたまらなくて、けれど親に何も教えてもらえなかった彼女ではどうすればいいのか分からなくて。
結局は全部を投げ捨てて、逃げるしかできなかったのだ、
「ああ……なんつーか、お前さん、バカなんだな? いや、違うか。馬鹿なのは俺だ」
懺悔をするような独白に、溜息が零れる。
呆れは自分に対して。
生憎と人は、サナギを作らない。それを紗子の時に思い知ったくせして、またしても同じ失敗をやらかした。
傍に居ながら、この娘の成長に気付けていなかった。
「傍に居る奴が死ぬのを想像して泣きたくなる。それくらい大きくなれたのに、俺ぁ何にも見えちゃいなかったな」
黙っていれば、気付かずにいれば、傷付かないで済むのだと。
いずれ訪れる別れだって、いつか父を亡くした時のように、ちゃんと受け入れてくれると思い違いをしていた。
心は変わる。
伊之狭村で崇められていた化生は汚い女衒に足を引っ張られて、<力>を残したまま、ただの人間に近付いたのだと。
弥太郎は、ようやくその事実を思い知った。
「弥太郎、さん……」
初めて会った時から、借金取りみたいだって。
この身を終わらせる女だって。そうやって手前勝手なもんを押し付けて、ただの“りる”を見ていなかった。
しかし、今は違うと言い切れる。
此処にきてようやく、弥太郎は女衒だから運命がどうとか、さんざん蓋をしてきた本音を取り出す。
そうすれば、願ったモノなんて、案外単純だった。
「悪かった。ちょいと、配慮が足りなかったよ」
「そうじゃ、ありません、私が、わたし、は」
自然と手が伸びて、二度三度、りるの頭を撫でる。
そう言えば最初の頃、彼女とは視線がうまく合わなかった。
胸元ばかりに、心に巣食う虫ばかりに気を取られているから、この子は他人とまっすぐに向き合うことが出来なかった。
「その上で、もう一つ済まねえ。俺は多分、どうあっても先に死ぬ。寿命ってことじゃなくてな」
「それ、は。私の、せい、で」
「違えよ。会う前から、分かってたんだ。俺は、真面な死に方なんざできないって。……どうせいずれは、お前さんが抱いた想像と同じ末路を辿ることんなる」
目を合わせられなかったのは弥太郎も同じだ。
てめえの過去にばかり気を取られて、変わろうとするこの子の現在に無頓着だった。
だから、こうやって膝をついて視線を交わそうとしてさえ、見えていないものがあった。
「まあ、なんだ。今更だが、色々と話をしよう。最期を迎える前に、伝えたいこと、受け取って欲しいもんが山ほどある。つまり、だな」
だけど無駄な回り道をして、さんざんバカやって。
ようやく本当に、目と目が合ったように思える。
紺碧の海が揺れている。あれ、こんなに綺麗だったかな。そう感じてしまうぐらい、しっかりと、りるの瞳を見詰めることができた。
「帰っておいで、りる。結末がどうなるとしても、俺はお前と日々を過ごしたいって思うよ」
女衒の職責だなんだと誤魔化してきたけれど、つまりはそういうこと。
今ならきっと、嘘偽りのないこの想いも、真っ直ぐに届いてくれる。
おそらく一緒に居られる時間は短いが、その分、大切なものを預けていこう。
コオイムシ代理だからではなく、運命を終わらせる女だからではなく。
この身がいずれ終わりを迎えた後、彼女が幸せな日々を、笑顔で歩いていけるように。
それが、ただの“弥太郎”の願いだ。
「……っ」
「おっと」
そうやって遠回りして、やっと向かい合えたのに、すぐに視線は外れてしまう。
だって仕方ないだろう。
りるが、胸に飛び込んできたのだ。虫が巣食っているであろう弥太郎相手に、躊躇いもせず。
それを拒むなんて、悪辣の女衒ですら為せない悪魔の所業だ。
「私の、<力>は。虫は、いずれ、あなたを、殺します」
「違うね。俺が死ぬのは、そういう生き方をしてきたからだ。男が拘った生き方を、勝手に奪ってくれんなや」
「怖い、です。あなたが、いなく、なるの」
「そこは、謝るしかねえなぁ。だが逃げる前に、俺に当たり散らしてほしいもんだ」
「きっと、これからも、いっぱい迷惑を、掛けます」
「ならその分は働いて返せ。借りて返して。人の社会で生きるってのは、そういうこったろうが」
「それ、でも……」
「なんだ、まだあんのか」
必死にしがみ付いている。その時点で答えなんて分かり切っているが、それを奪うような真似はしない。
だって彼女はこれからを。神の娘ではなく、人として生きていく。
その為には少しくらい、厳しくしないと。
どれだけ誰かに寄り添っても、一人で立たないといけない日が来ると、ちゃんと教えておかなければ。
「それでも、貴方の傍に居たいと、願っていいですか?」
「勿論さ。ま、どっちにしろ、攫ってくんだけどな」
代わりに上手くできたなら『よくできました』と、厳しくした分いっぱい褒めてあげよう。
抱え上げて、甘やかして。ああ、そういや、黙って出てったことに説教するのだったような。
まあ、それは今度でいいか。
今はようやく初めの一歩を踏み出せたこの小さな娘を連れて、我が家に帰るとしよう。
あの家は、帰る場所なのだと。
そう、素直に思えた。
前話までに使っていた「帰る」という部分を微妙に修正しています。




