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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ
3/37

【コオイムシの屋敷】・2




 花座横丁の近くには多くのホテルが乱立している。

 青線周辺のホテルは当然“そういう目的”での利用がほとんど。弥太郎からの斡旋で客をとる紅葉はもっぱらこういった場所でのお仕事になる。

 夜の街といいつつも、お天道様の目が届く時間から興じるお客も少なくない。

 今日の紅葉の相手もそういう輩で、まだまだ日も高いのに元気よく盛っていらっしゃる。

 ベッドの上でぶくぶくに太った中年と絡み合う。肌を這う指に体が震えたのは、心地よさよりも怖気のせいだ。

 金を貰っている。仕事だと分かっている。それでもそうそうに割り切れる訳でもなく、笑みを作ろうとしても頬が引き攣る。火傷で半分が爛れているうえに表情もぎこちないのだから、傍から見れば間違いなく醜い女だろう。

 なのに太った男は真正面から紅葉と向き合い、にたりと笑って貪るように彼女の体を求めた。


(なんで、だろうね……)


 出会ったばかりの名も知らぬ男に抱かれて、けれど紅葉は別のことを考える。

 娼婦に身を墜としたが、自分のような女では客など付かないと思っていた。

 それがどうだ。蓋を開けてみれば、弥太郎の紹介とは言え、こうして連日連夜お客様と閨を共にしている。こんな太った男までも、だ。

 秀麗とは言い難い容姿でも、花街では太った男というのは存外にモテる。戦後困窮した日本で太るまで食べられるというのは、それだけで懐具合の豊かさを示しているからだ。実際前金を気前よく払う辺り、成程、いい客ではあるのだろう。

 ただ、それはあくまで弥太郎にとって。紅葉からすればまた感想は変わる。

 力任せの乱暴な責め方はしないが、視線や手管に粘つくようなねちっこさがある。有り体に言えば気持ち悪い抱き方だった。

 そういう客であっても金さえ払えば平気で預けるのが弥太郎だ。

 あの男にとって紅葉は金を稼ぐ為の道具に過ぎない。肌を這うナメクジのような舌の感触に、内側へ染み渡る熱にそれを今更ながら強く実感する。

 ぎり、と奥の歯を強く噛み締める。

 音は客にも伝わったらしい。屈辱に歪む表情も堪らないと、男は昂りをぶつけてくる。

 都合四度。行為は紅葉が気を失うまで続いた。




 ◆




 戦後数年が過ぎ、あれは十歳になったくらいだったか。

 埼玉のとある家庭に産まれた少女は、いつものように父親と喧嘩をして殴られた。

 戦後も良い職にはありつけず。貧しい家庭の大黒柱は風に吹かれりゃ軋むくらいに弱くて、よく苛立ちを娘にぶつけた。喧嘩というよりも単なる暴力の方が正しい。

 その日の原因は覚えていない。思い出せないくらいに些細なものだったのだろう。案の定彼女は殴られて、ただ勢いが強かったせいで予想よりも大きくよろめいた。

 倒れた娘は火鉢に顔を突っ込んで、酷い火傷を負ってしまった。

 医者にかかれる程の金がある筈もなく、出来た処置は水で冷やす程度。そこそこ整っていた面には大きな火傷の跡が残った。

 赤黒く肉の焼け爛れた顔。伸ばした髪で隠しても、ふとした瞬間覗けば皆一様に気味悪がった。

 顕著だったのは周囲の男達だ。男はやはり美人が好きらしい。醜い娘は距離をとられ、時には罵倒を浴びせられた。


 あんな顔じゃ貰い手もあるまい。

 見たか? 化け物みたいだったぞ。

 気持ち悪い、こっちを見るな。


 五月蠅い。黙れ。

 耳を塞いでも雑音は聞こえてくる。それは外にいても、家に帰っても同じだった。


 この役立たずが。


 火傷が出来てから父親の態度は更にひどくなった。

 嫁の貰い手がないというのは、貧しい家庭には厄介なお荷物が出来たと同義。自分のせいだというのも忘れて父は娘を責める。

 母も庇ってくれはしない。同情はしたし暴力も振るわないが、意見としては父と同じだった。

 働きに出ようともしたが容姿のせいで結果は芳しくない。

 外では気味悪がられ、家でも責められて。

 居場所なんてどこにもなく、紅葉はただ心を擦り減らしていく。


『おう、お嬢ちゃん』


 鬱屈とした日々は長く続いた。

 少女も花の盛りという年の頃になり、そんな時期にふらりと訪れたのが弥太郎という男だった。

男は女衒だと名乗った。

 貧しい女を買い取って、性風俗業者に売りつける人でなし。少女の暮らしていた町はまだ復旧が十分ではなく、おそらくそういう所から若い娘を一人二人攫って行こうというのだろう。

 いくら困窮しようと守るべき倫理はある。家族を売り物にしようとする女衒へ、人々は厳しい目を向ける。娘のいる親たちはそれが顕著だ。


『四十万、ってとこかな。どうだい御両人、この娘、俺に売らねえか?』


 もっとも、その視線はすぐに和らぐこととなる。

 弥太郎が興味を抱いたのは、若く美しい娘達ではなく、火傷で顔が半分爛れた醜女。

 何でそんな女を、とは誰も言わない。自分の子供が無事ならそれでいい。

 彼女の両親もむしろ喜んだ。なにせ嫁の貰い手もないと思っていたお荷物を、わざわざ大金で買い取ってくれるのだ。熨斗のしをつけてくれてやる、とでも言わんばかりに即決する。

 こうして火傷を負った娘は、いとも容易く女衒に売られた。


『いい買い物をした。にしても、人のこた言えねえが、お前の親も結構なクズだなぁ』


 人を物扱いし、せせら笑う弥太郎は好きになれそうもない。

 それでもあの家にいるよりは幾らかマシだと、逆らわずについていくのはもとより、両親との別れ際に涙も見せなかった。

 生まれ故郷を去るというのに感慨など欠片もなく。

 こうして娘は、紅葉くれはという名の娼婦になった。







 女衒に買われるというのは大抵の場合不幸な出来事だが、紅葉は己が身を儚まない。

 娼婦は蔑まれるものだと理解しているし、見知らぬ男に抱かれるのも不愉快極まりない。

 それでもここでは食事を与えてもらえるし、屋根も寝床もちゃんとある。

 なにより蓼虫の弥太は悪名とは裏腹に、仕事に関しては真面目だった。

 娼館へ売り飛ばす前に娼婦としての常識を覚えさせてやると、しばらくは自宅に住まわせ、客を選んで宛がう。意外にもそういった点は疎かにしない。

 最悪から悪いに変わった程度だが、正直なところ助かっている部分はあった。


「んが……」


 もっとも多少の感謝はあっても尊敬は出来ない。

 人が仕事を終えて帰ってきたというのに、こうやって居間で気持ちよさそうに眠り込んでいるのだから。

 おそらく昼間から酒を呑んで気持ちよくなり、昼寝してそのまま夜まで眠りこけているというところだろう。

 朝寝朝酒、昼寝に夜遊びが好きな、どこに出しても恥ずかしいダメ人間。

 だいたい弥太郎は四肢に欠損のある女や、死病持ちでさえ娼館に売りつける。紅葉は境遇が噛み合って前よりは良いと思えるだけで、この男は本質的にはやはり人でなしなのだ。


「………かぁ……おお? くれは、戻ったか」


 静かに入るつもりだったが、少し音を立ててしまった。

 それに反応して弥太郎は目を覚まし、のっそりと上体を起こす。ぷん、と酒の匂いのするあくびを一つ。いい御身分で、出かかった言葉は飲み込んだ。


「あぁ、もう夜か。ずいぶん遅かったが、上手くいったか?」

「気を失ってたんだよ」

「はは、あの御仁はしつけえからなぁ。だけども前金を嫌がらず払ってくれる。まったく、女の趣味と体型以外はよく出来たお人だよ」


 それはつまり、私を抱くなんて悪趣味だと言いたいのか。

 失神したと伝えても心配の言葉もなし。やはりこの男は好きになれそうもない。からかうような表情を見るに、今のセリフも自覚あってのもの。そもそも彼は嫌な性格をしているのだ。


「取り敢えず、問題ないならいいんだ。ほらよ」


 そういって無造作に紙幣を投げ渡す。

 百円券が二枚。男性の平均年収が二十万の時代、うどんが三十円程度で食べられるのだから、一回の食事代としてはそこそこの金額だ。もっとも十万百万を扱う女衒からすれば、はした金ではあるのだろうが。


「飯はしっかり食っとけよ。結局は人間、食って寝て出すのが一番の健康法だ」


 その言葉に裏はない。

 決して尊敬できる男ではないが、それでも弥太郎に関して二つほど認めている点がある。

 一つは、質問すれば大抵は面倒臭がらず答えてくれること。

 火傷を負ってから外に出なくなった紅葉は学がなく、できて読み書き程度。それでなくとも娼婦になりたて、戸惑う場面も多かった。

 しかし弥太郎は分からないことを聞けばちゃんと答えてくれるし、無知を嘲ったり、煩わしそうな態度も取らない。今日まで沢山の質問をしたが、一度だって馬鹿にはされなかった。


 もう一つ、食事は絶対に食べさせてくれる。

 以前仕事で失敗をして客を怒らせてしまったが、それに関して叱責はしても、罰として食事を抜くといった真似はしなかった。

 寧ろ、しっかり食べて休んだら次はちゃんとやれ、と言うくらいだ。


“つらかろうが悲しかろうが、人間は飯を食わなきゃならん。食わないと体だけじゃなく心が痩せ細る”


 というのが彼の基本思考らしい。

 まあ、その考えはありがたい。

 おかげで貧しい家で暮らしていた時とは違い、空腹を水で誤魔化すような真似はせずに済んでいる。


「明日も仕事は詰まってんだ。疲れてて粗相しました、なんて真似は勘弁しろよ。ああ、どうせ粗相なら、そういう趣味の客を引っ張ってくるか」


 前者の粗相は『失敗』の意、後者は『失禁』の意。

 類は友を呼ぶのか、弥太郎の回す客は悪趣味な輩が多い。女の失禁する姿に興奮するくらいは普通なのだろう。

 紅葉は冷めた目で弥太郎を睨め付ける。けれど気付きながらも無視をして、げらげらと癪に障る笑い声を上げるものだから、僅かばかりの感謝の念も掻き消えた。


「ああ、そうそう。明日から俺はちょいと東京を離れる。どんくらいで帰るかはわからんが」

「へえ、逃げていいって話かい?」

「まさか、ちゃんと監視役は置いていくさ。いない間の取り仕切りはその女に任せている」

「仕事を任せるなんて……ずいぶん信頼してるんだね」

「信頼っつーか、なんというか。まあ俺より真面目なヤツだ、ちゃんといい子にしとけよ」


 端から逃げられるとは思っていないし、逃げる場所もない。そこは素直に従っておく。

 ただ気になったのは弥太郎の動向。紅葉が東京に来てから、彼が遠出するのは初めてだった。

 なにかあるのか。そう視線で問い掛ければ、返ってきたのはいやらしい笑み。 


「なぁに、お前さんがものになりそうだから、ちょいと足を延ばして次を仕入れてくんだ」


 また新しい女をどこぞから買い叩くと、悪びれもせず語る。

 ああ、本当にこいつは嫌な男だ。嫌悪感に紅葉の表情が固くなった。


「あんた、いつか地獄に落ちるよ」

「そいつぁ結構。地獄の沙汰も金次第、血の池のほとりに別荘でも建てるか」


 面白くもない冗談でさらりと流す。

 結局何を言ってもこの男には響かない。蓼虫は今後もやり口も曲げる気はないようだった。


「さて、真面目な話したら腹が空いたな」


 話を終えて緩慢に立ち上がった弥太郎は、多少おぼつかない足取りで台所の方へ向かう。おおかた夜食に菓子でも、というのだろう。

 そもそも彼は食い意地が張っている。戦後十年まだまだ復興し切れていない地域もある時代に、三食しっかりお茶に夜食も忘れないのだ。

 それだけ稼いでいる証拠だし、その嗜好のおかげできっちり食事の面倒を見て貰えるのだから別段文句はない。ただあまりの健啖さにはほんの少し呆れもしてしまう。


「お酒飲んだ後にお菓子? よく食べれるね」

「俺ぁ酒好きだが甘いもんも好きだしな。お前さんもいるか?」

「あたしはいいよ」

「そうかい、んなら失礼してっと」


 台所に置いてあるご大層な木の箱は、以前に客から貰った京都の老舗和菓子屋の銘菓だ。

 カステラ生地で餡を包んだ菓子で、これがなかなかに美味い。気安く買いに行ける距離ではなく、ちょいとばかり高級な菓子なので、一気には出さず少しずつ大切に食べていた。


「って、うおっ!?」

「騒がしいね、どうしたの?」

「うわぁ、腐って虫がわいちまってる」


 しかし今回はそれが災いした。

 箱を開けた瞬間、つんとくる刺激臭。同時に独特の音を立てながら羽虫が幾匹も。

 夏の季節に生菓子をとっておいたものだから、腐って虫がわいたらしい。せっかく美味しかったのに、こうあってはもう食べられない。


「あぁ、やっちまった。これ、美味かったのに」

「まぁ夏だからね。生ものは足が速いさ」


 美味しいから大事に大事にとっておいた。

 いつの間にか時間が経って、大事な筈のお菓子は腐って、醜悪な虫がわいてしまった。

 食い意地の張った弥太郎からすれば致命的な失敗だ。楽しみにしていた菓子を食べられなくて、見るからに肩を落としている。


「落ち込みすぎ。あんた、ホント食い意地張ってるね」

「そこぁ認めるけどよ。あーあ、ついてねぇなぁ」


 大切にし過ぎたせいで腐らせて、虫まで湧いてしまった。

 いくら蓼虫だからってお仲間ヅラして家ん中まで入ってくんな、悪態つきつつ溜息交じり。結局簡単に食べられるものはなく、小腹は空いたままだ。

 真面目な話をしても、どうにもばっちりとは決めきれない。

 弥太郎のどこか間の抜けた振る舞いに、小さく。本当に小さくだが、紅葉は笑った。




 ◆




 ヤミ市があった頃、寿司はご禁制の品としてバカ高い値段を付けられていた。

 それが戦後十年。物流も少しずつ戻り、相変わらず値は張るものの、商店街で気兼ねなく寿司をつまむことができるくらいに復興は進んだ。

 食い物が旨いというのは有り難い話だ。元々食い意地の張っている弥太郎は、値段など気にもせず乱雑に寿司を口へ放り込む。

 敗戦国の住民とはいえ金さえあればそれなりの贅沢は出来る。新鮮な魚に程よいシャリ、ツンとくるワサビに、贅沢を許される優越感が隠し味。そりゃあ旨いというものである。


「どうした、マサ坊。食わねえのか?」

「あ、いや。寿司なんて、とんと食ってなくて、どうも」

「だったらせっかくのおごりだ、遠慮せず食いな」


 翌日のこと。約束通り、仕事の前に正義にも寿司を振る舞う。

 しかし貧乏暮らしが長い彼はどうやら気後れしているようで、折角のご馳走なのに今一つ手が伸びていない。

 好きに頼ませても遠慮するだろうと、端からおまかせで一人前注文しておいた。「食べないとゴミになるぜ?」と促せば、さすがにそれは忍びないのか、正義は遠慮がちながらようやく食べ始める。


「……旨い」

「そいつはなにより。やっぱ、いいモン食わなきゃいけえねよ。旨い飯は心を豊かにする」


 久しぶりの寿司だからか、ゆっくりと、一つ一つ噛み締めるように味わう。

 反対に弥太郎はがつがつという表現がしっくりくる食べ方だ。昨日食べ損ねた菓子の分まで、とでも言いたげな勢いである。

 こういう辺りが食い意地張っていると言われる所以だが改めるつもりはさらさらない。

 意地汚くて結構、気取ったところで一文の得にもなりゃしねえ。どうせなら好き勝手に食べた方が旨いに決まっているのだ。


「じゃあ、真面目な話といくか」


 たらふく食べて腹もひと心地、食後のお茶を啜り一息。ようやく落ち着いてからが本題。

 そもそもこの寿司は仕事前の景気づけ。たっぷりと栄養を取った後は真面目に働かねばならない。


「今回の仕事なんだが、前と同じく荷物持ちを頼みたいんだ。ちょいと長野くんだりまで足を運ぶことになったからな。一応、二日後を予定してる」

「分かった。それに合わせて準備をしておく」

「おう。給金は拘束時間が長くなるからな、六千円の三日、一万八千ってとこか。旅費や食事はこっちで受け持つ」


 金に汚いと言われる弥太郎だが、それだけに金勘定の類はかっちりしている。

 仕事を頼むならあらかじめ支払いも明確にしておくべき。金銭は後でごたごたになり易いのだから、これを疎かにするのは商人として下の下だ。


「ただの荷物持ちに破格じゃないか」

「面倒ごと厄介ごと基本全部任せるつもりでいるからよ。その分も給金のうちだと思ってくれや」


 人に恨まれるお仕事だ、時には危ない場面にも遭遇する。そこら辺のいざこざを回避する為にワケアリの女を買い叩いているという部分もあるが、人の心は測れないのが世の常というか。

 例えば、買い付けた娘に懸想していた男が殴り掛かってきたことも実際あった。

 そういった道理の通じない輩を押し付けるつもりでいるのだから、多少値段が高くても損をしたとは思わない。


「ただし、成功報酬だ。しっかり働きな」

「ああ。もともと選べる身分じゃない。与えられた仕事は責任もってあたらせてもらう」


 選べる身分じゃない、とこぼしてしまう辺り、やはり女衒の仕事に引っ掛かりは覚えるのだろう。

 けれど彼は表立ってそれを非難せず、頼まれれば手伝い、弥太郎自身に対しては寧ろ好意的ですらある。

 ちぐはぐに感じる振舞いは何故なのか。


「そんじゃ、頼まぁ。行く先は長野の伊之狭いのさ村。今回は、全部お膳立ては終わってるからな。行って帰ってくるだけのお仕事、そう肩肘張るようなもんでもねえさ」


 少しだけ気になりもしたが、戦後を生きる身ならば傷の一つや二つあって当たり前。どうせ他人事、問い詰めたところで一銭の得にもなりゃしねえ。

 ならば今は考えるだけ無駄かと、弥太郎は僅かな疑問を冷めたお茶で喉の奥に流し込む。渋みを増した茶のおかげで少しはわだかまりも誤魔化せた気がした。




 ◆




 夏の季節、木々の多いところに行けば、当然ながら騒がしい蝉の声も近付く。

 耳をつんざくとはまさにこのことで、風物詩とはいえ頭が痛い。

 今も強い日差しは降り注いで、あちらこちらと夏に責め立てられれば、歩くのもおっくうになってくる。

 

 しかしまだまだ目的地は遠い。

 弥太郎ら向かう先は『伊之狭村』といい、長野県の北西に位置する小さな農村である。

 二方向を山に囲まれたこの村は人口が少なく、田舎過ぎて戦時中も連合国軍による空襲の被害は殆ど出なかったくらいだ。

 とはいえ恵まれた土地とも言い難い。

 主産物は白菜等の農作物で、畑がある以外に目立つのは二階建ての療養所や村役場。田舎にしては立派な建物は多く、住宅や井戸、用水路などもきっちりと整備されている。

 それでも交通の便は悪く、大した仕事もなく、戦後若者は次々と故郷を離れ都会へ流れた。

 結果年老いた人々ばかりが残って、程なくして村は形態を維持できなくなるだろう。


「ここが伊之狭いのさ村かぁ」


 ざわりと木々が風に揺れた。

 枝の間を抜ける濃すぎる緑の香りが、夏の訪れを強く感じさせる。騒がしい蝉の声を聴きながら浴びる木漏れ日に目を細め、辺りを見回せばふと過る懐かしさ。

 山道を越えてようやく辿り着いた伊之狭村は、空襲を受けずに済んだおかげで昔ながらの景色を保っていて、初めて見るのにどこか郷愁を抱かせる風情がある。


「あれだな。とりあえず、山道なげぇ。暑いしセミはうるせえし、流石に疲れたよ」


 しかし訪れた弥太郎が辟易するくらいには伊之狭村の立地は悪い。

 途中までは車を使えたが、村へ行く為には獣道をかなりの距離歩かねばならなかった。これでは行商が来るのも一苦労。衰退は自然の流れと言えた。


「マサ坊は、やっぱ体力あんなぁ」

「弥太がなさすぎるだけだと思うが」

「そりゃ仕方ねえ。節制なんてほとほと縁がなくてよ」


 旅の荷物を全て背負っているのに、正義の方は息も乱していない。

 疲れていない訳ではないだろうが真面目な彼は文句の一つも言わず。やはり旅の供につけて正解だった。

 さて、と一呼吸。弥太郎は目に付いた農夫に声をかける。


「そこの兄さん。悪いが、東京から弥太郎とかいう男が来たって村長に伝えてくんな」

「は、はあぁ?」

「頼むぜ、それで通じるからよ」


 相手はよく分からないといった様子だったが、首を傾げながらもちゃんと従ってくれた。

 粗方のお膳立ては整っている。村長に話を通してもらえれば、それだけで今回の仕事は終わったも同然だ。

 あとは村長が来るのを待つばかり。暇潰しがてら適当に村の様子を眺める。


「見た目は、普通の村なんだな」

「いやいや。田舎にしちゃ、かなり立派だよ」


 太平洋戦争において敗戦し焼野原となった日本。都市部は随分と復興が進んできたが、地方はまだ手付かずのところも多い。

 その中で伊之狭村は空襲の被害がなかったせいもあるが、家屋や田畑も整えられており、少なくとも貧しいといった印象はなかった。


「そう、なのか?」


 しかし東京で暮らしているからか、正義は今一つぴんとこないようだ。

 弥太郎は肩を竦め、一つ一つと理由を挙げていく。


「まず田畑は荒れてない。おうちも痛みが少ない。井戸や用水路もきちんと整備されている。お、用水路んとこ見てみろよ。コオイムシが結構な数いる」

「コオイムシ?」

「カメムシとか、タガメの仲間だよ。水が綺麗じゃないとああも沢山は繁殖しない。つまりここの水は汚れていないってこった」


 腰をかがめた弥太郎は、用水路をしげしげと覗き込んでいる。水の流れの緩いところには小さな虫がいくらか泳いでいた。

 水生昆虫は、もちろん全てではないが、きれいな水を好む種類も多い。

 コオイムシがここまで繁殖しているのは、戦時中の空襲で水源が汚れなかった証拠だろう。


「な? 都市部とは比べ物にならねえが、田舎でここまで整ってりゃ十分だと俺は思うね」

「そう言われると、確かに。随分大きな建物もある」


 弥太郎の言に納得したようで、正義は改めて集落の様子を観察する。

 そうすれば視線は、二階建ての、集落でもひときわ大きい小奇麗な建物に辿り着く。

 白塗りの壁、落ち着いた佇まい。周囲には花壇が設置され、田舎の村には不似合いとさえ映る立派さだ。


「あぁ、ありゃ療養所だな」

「療養所?」

「おう。この村は山奥で空気もきれいだからな。長期療養の為に建てられたもんで、かつては華族のご令嬢さんが滞在してたこともあるって話だ」


 結核など治療法のない病に関しては、大気安静療法というものが一番だとされる。

 しっかり栄養を取り、山の綺麗で冷たい空気を吸い、後は安静にする。抗生物質がなかった時代、こういった民間療法が最善と信じられていた。

 伊之狭村の療養所も、長期療養が必要な患者を受け入れる為に建てられたものだ。物流の殆どない集落においては、外からの金を呼び込んでくれる数少ない資源でもあった。


「だからあんなに立派なのか」

「医療施設で、外からの患者のお相手が主だしな。金はかけてんだろ、やっぱり」


 二人して、しげしげと療養所を観察する。

 森に囲まれた集落、佇む白塗りの館。他がいかにもな田舎の家屋だけに、木造とはいえ療養所の近代的な外観は、場違いと感じてしまうくらいに目を引く。

  

「療養所は村で一番の富豪だっていう爺様が経営してたそうだ」


 そして弥太郎が言う通り、実際金はかかっている。

 療養所は伊之狭村でも一番の富豪が、私財を投入して造り上げたものである。

 

「これが人のいい性格だったらしく、外からの患者を受け入れては、得た金で村の維持に一役買っていたんだと」


 富豪自身が医師でもあり、彼は年老いた身でありながら経営に現場にと働いては、得た金を村の為に寄付し続けてきたらしい。

 弥太郎には今一つ理解できないが、金の使い方はその人次第。

 ともかくその富豪は、長らく伊之狭村に貢献してきた。住宅や用水路などの整備が行き届いているのも彼の援助のおかげだ。

 交通の便が悪く大した特産物もない村を戦時中も戦後も支えてきた。件の富豪はこの村にとって、なくてはならない中心人物だった。


「素晴らしい人物だったのだな」

「物好きの間違いだろ? まぁ、ド田舎の村がそれなりの豊かさを保てたのは、間違いなくそのお人のおかげではあったんだろうよ」 


 投げやりな物言いになったのは、長い山道に疲れていただけでもない。善人というのは、クズの女衒には理解できない範疇である。

 それでも口汚く罵ろうとまでは思わないし、その人のおかげで村が上手く回っていたというのは弥太郎も認めていた。


「しかし、随分詳しいな?」

「そりゃあ、前もって聞かせてもらってるからよ」

  

 初めて来たはずの村で勝手知ったるなんとやら。村の事情に詳しすぎる。

 とうとうと語る姿に正義は違和感を覚えたようだが、弥太郎の方はいたって気楽な様子。

 それも当然、なにせ前もって話は聞いている。お膳立ては整っていた。


「そもそも今回の件の発案はここの村長さんでな。“弥太郎さん、どうかおいで下さい”って池袋まで使いが来たんだ。そん時に粗方だが事情は把握してる」


 紅葉の時は、買える女を探しに埼玉くんだりまで出かけた。 

 しかし今回は逆。村の方の意向だと弥太郎は言う。

 もともと正義は荷物持ちとして付いてきているだけで、女衒の裏事情にまでは首を突っ込まない。

 その為わざわざ人身売買業者を呼び込むというのが珍しいのか、それともよくあることなのかは分からなかった。

 ただ村長が率先して住民を売りたがるという状況に、少しだけ。本当に少しだけだが、胸の奥にいやなものが差し込む。

 けれど表情には出さないようにして、必死で冷静に振る舞ってみせる。


「つまり、向こうから女を売りたいと?」

「そういうこった。話はだいたい済んでて、後は金払って商品を受け取るだけ。楽っちゃあ楽な仕事だよ」


“おたくの娘さん売って頂戴よ”、“なんだと、そんな真似できるか”。

 お決まりの遣り取りも今回は必要ない。

 それどころか相手の方から“どうぞどうぞ、持ってったってくださないな”。

 余計な前置きもなく、なんとも滑らか。実に健全な商談だ。

 問題は自ら女を差し出そうという売り手側の品性に健全さが足りてない点。後は女衒についてきた真面目な荷物持ちの心情くらいのものだろう。


「まあ俺にとっちゃ楽でも、傍には楽しい話ではねえわな。なあ、マサ坊?」

「む、ぅ」

「そう頑なに隠さんでもいいと思うんだが。正直言うと、気持ちは分からんでもないしな」


 隠した筈の胸中を笑いながら言い当てられて、正義は誤魔化せず微かに唸った。

 根っこが善良な彼には、買い叩く女衒にも売りつける村人にも引っ掛かる部分はある、といったところか。

 いい加減付き合いも長いのだ、本音を表に出さないことも含めて、その程度は弥太郎にも察せた。


「だが責めるのも酷ってなもんだ。善行積んだって腹は膨れねえし、玄関の見栄えがよかろうと台所事情はそれぞれ。そいつを踏まえずに人道やら倫理を振りかざすのは、ちょいと卑怯だろう」

 

 ただ正義にとっては胸糞悪い話だろうが、蓼虫の女衒にとってはいつもの仕事。のっぴきならない事情で売られてくる女など見慣れているし、見飽きている。

 だから村人を嫌悪はせず、売られる女性に対しても同情や憐憫はない、少なくともその色は浮かばない。

 であれば弥太郎の胸中にどのような感情があるかなど、別段取り立てて語るまでもないことだ。


「……確かに、そうだな。済まなかった」

「あ、いや、謝るこたねえよ。事情は踏まえてやれ、と俺は思う。だが今回に関しちゃ、あんま擁護もできねえしなぁ」


 お前さんはなーんも間違っちゃいねえ。

 正義は素直に頭を下げたが、弥太郎はすぐに前言をひるがえす。

 どういう意味か分からず視線で問い掛ければ、意地の悪いような、だけどどこか困ったような、表現し難い笑みが返ってきた。


「多分こっからの話は、お前さんが想像したより、もう一段階は胸糞悪いぜ?」


 肩を竦めながら吐きすてた言葉は、どことなく楽しそうにも聞こえる。ただしそれは皮肉げな色を帯びていた。

 弥太郎はちらりと横目で村の方を見る。その先には、ゆっくりと歩いてくる老翁の姿が。

 農村の住民にしてはそこそこ整った身なり。伊之狭村の村長、今回の商売相手だった。


「どうも、村長さん……で、あってますかね?」

「はい。私が、ここのまとめ役をやらせていただいとります、嘉六かろくと申します。ようこそおいで下さいました、弥太郎さん。ささ、どうぞこちらへ」

「ああ、こりゃどうも。疲れたしお茶となんか菓子でも出りゃあ有難いですがね。当然、こいつの分も」

「勿論用意しております」


 女衒相手に深々とお辞儀をして腰も低い。揉み手でもやりそうなくらいへりくだり具合に正義は目を白黒とさせた。

 住人を買い叩かれる側の村長が、毛嫌いされる筈の人身売買業者にへこへこしている。

 いくら自分が呼びつけたとはいえ、こうもへりくだるものなのか。

 自分が想像していた状況とは全く違い、どうにも思考が追い付かず、ただ戸惑うばかり。


「どうした、マサ坊。さっさと話しを付けて、神の娘のツラを拝みにいこうぜ」


 その反応も予想通りだとでも言いたげに、口の端を吊り上げる。

 呼びかけておきながら返答は待たず、弥太郎はさっさと歩いていき、正義も慌ててそれを追いかける。

 この後はもっと胸糞が悪い話になる、蓼虫の女衒はそう言った。

 だからなのか。足取りは山道を歩いていた時よりも重かった。




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