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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ


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【蓼虫】・2



 焼野原から自分の力で立ち上がった。

 それがの、なによりの誇りだった。


 水無瀬みなせ三千年みちとしは、戦後の時流に乗り成功を収めた一人である。

 1945年の終戦よりしばらく、まだ二十代前半だった彼は商売を始めた。

 といっても真っ当とは言い難い。

 戦後の復興がいまだ進まず物資の少ない時代だ。三千年が着手したのは人々の足元を見て、ぼったくりのような値段で日用品を売りつける、ヤミ市の後ろ暗い部分が顕著な商いである。

 それでも決して悪人ではない。

 もともと三千年は穏やかな割に正義感が強く、頑固なところのある男だ。

 にも拘らずヤミ市に出入りするのは、ひとえに困窮した家庭のため。父母を弟を支えていくためには、とにかく金が必要だった。


『家族の為だ、仕方ない。とにかく今は資金が必要だ』


 だから当座の資金を集める為に、アコギな商売をして、溜まったならすっぱりと手を引いた。

 そもそもヤミ市は国に問題視されており、三千年がそこで働き始めた頃には、既に様々な規制が行われていた。

 その後も復興と共に制度が整備され、1951年(昭和26年)には米以外の食品は全て自由販売、同年12月東京都内の常設露店は廃止となる。

 ここに露店で異常な高値の取引を行うヤミ市は、完全に禁止された。


 しかし三千年には商才があったのだろう。

 復興が進むにつれ、おそらくは数年のうちに、ヤミ市は姿を消す。

 商売を始めた時点で彼は既にこれを予見しており、だからこその暴利。足元を見て、弱みに付け込み。規制が訪れるよりも早く、店を構えられるほどに利益を上げた。

 店を構えたかったのではない。ただ、そうしなければ立ち行かなくなると、水無瀬三千年には最初から分かっていた。


 彼が目に付けたのは技術だ。

 日本は資源のない国。復興したところで外貨を得られる手段は少ない。侵略をしたうえでの敗戦国、観光資源として機能するのは最低でも二十年、世代が交代してからだろう。

 ならば観光関連は“四の矢”、資本の必要な金融は“三の矢”。今は地盤を固める時期だ。

 そこで三千年は1947年『水無瀬工務店』を立ち上げる。僅かな資本金、十名程度の社員。始まりは決して大きくな会社ではなかった。

 しかし復興が進むにつれテレビ・冷蔵庫・洗濯機などの家電製品の需要は高まる。時代に先んじた彼らは目論見通り大きな儲けを出し、水無瀬工務店は発展していく。

 そして戦後十年が経ち、三十を少し過ぎた程度の若さで、水無瀬三千年は人が羨む成功者となっていた。


 若く、持て余すほどの金を持ち、容姿だって悪くない。

 当然と言えば当然、女性にもそこそこ縁がある。その割に特定の深い関係がいないのは、彼自身の腰が引けているせいだろう。

 なにせ家電製品を手掛ける工務店の代表。今を時めくというやつで、寄ってくる女性も“三千年の今にときめいた”方々がほとんど。つまるところ、成功者たる彼の地位や金やらに惹かれて群がってきたのが見え見え過ぎて、どうにも魅力は感じられなかった。


 金持ちだからじゃなく、自分を好きになって欲しい。三十も過ぎて、子供っぽいとは自分でも思っている。だが生涯の伴侶なら、好き合って結ばれるべきだろう。

 そういう頑なな三千年には、現在恋人もなく。

 仕事は充実しているものの、艶っぽい話とは縁遠い。そんな毎日を送っていた。


 仕事は好きだし楽しい。

 父母や弟と同居の為、侘しいというわけでもない。ただ、ほんのちょっとだけ、独り身の寂しさが身に染みる夜もある。

 仕事帰り、一人帰り道を歩いていると尚更だ。

 家で「おかえりなさいませ」と迎えてくれる伴侶がいればいいのに。

 お相手はいないが、やはり愛妻というのは憧れるものがある。

 どこかにいい出会いでも転がっていないか。


「…………おや?」


 などと考えながら帰路を辿る。

 その途中、道端で蹲る人影……幼い娘を見つけた。

 暗がりでも目に飛び込んできたのは、真っ白の髪のせい。外国人か、と少し警戒をしながらも近づいていく。


「大丈夫ですか?」


 もし病気とかなら見捨ててはいけないと、覗き込んで様子を確かめる。

 綺麗な子だな。

 まず初めの感想がそれ。真っ白な少女は、幼いながらに驚くほど整った顔立ちをしている。

 年齢は十二、三くらいだろうか。どうやら体調が悪いのでなく、ただ眠っているだけのようだ。

 問題は幾度か揺すったが、全く起きてくれないこと。

 随分と疲れているのか。これは困った。警察に任せようか……と思ったが、この髪の色ではあまりよろしくない。

 敗戦した国だ。外国人への反感は強く、しかし状況から逆らえる筈もなく。だからより弱い子供に当たるような輩は、残念ながら存在している。


「よし」


 安易に警察を頼るのも憚られ、ならばと三千年は眠る少女を抱き上げる。

 そうして再び帰路に。

 道端に婦女子を放ってなど置けない。

 多少強引で考えなしだが、彼の行動は、確かに“正義感”を基にしていた。




 ◆




「先生。どうでしょう?」

「特に、問題はないかと。状態としては、眠っているだけですね」

「そうですかか、よかった」

「一晩様子を見てください。もしそれでも起きなかったら、また往診にまいりますので」


 やっていることだけを見れば、まんま誘拐犯だなぁ。

 いやいや、あくまで、この娘を心配して保護しただけだ。

 言い訳をしながら、三千年は道端で拾った真っ白な娘を自宅に運び、取り敢えず布団に寝かせる。

 幸いこれでも金は稼いでおり、最近建てたばかりの一軒家は父母に弟を住まわせても十分空き部屋はあった。

 一応近場の医院に往診を頼み、結果は特に問題なし。

 揺すっても起きなかったが、おそらく疲労から寝ているだけで休めば目も覚ますだろうとのこと。

 まずは一安心。とにかく今晩はうちで休んでもらって、話はそれからだ。


「この子、どこから来たんだろう……」

 

 三千年は寝息も立てず夢の中にいる少女の横顔をちらり盗み見る。

 やはり整った、可愛らしいよりも綺麗がしっくりくる娘だ。おそらくは日本人ではないのだろうが、どうして倒れていたのだろうか。

 何か事情があるのは間違いなく、ならばこれも縁だ。少しくらいは相談に乗ってあげないといけないだろう。

 その為には自分の頭も休めておかないと。

 そう考えれば、仕事の疲れと気疲れが結構溜まったようで、すぐに眠気が襲ってきた。

 私もそろそろ床につこうか。もちろん女の子と同じ部屋というのはよくない。かと言って夜中にこの娘が起きた時混乱しないよう、部屋の外で、だけど近くで寝ておこう。

 結局三千年は、廊下に布団を敷いて一夜を明かす羽目になった。

 正義感の強い彼にとって、それは当然の選択だった。






「……ん、朝かぁ」


 朝になれば自然と目が覚める。

 激務に慣れた三千年にとって、早寝早起きは癖の域にまで達していた。

毎日毎日忙しいが、別段文句はない。そもそも自分が水無瀬工務店の代表であり、下は必死に働いているのに上が尻で椅子磨きなど、理不尽すぎて示しがつかないだろう。 

 戦後をとにかく働いて、日本の復興に従事してきたと自負する彼には、勤労は当然のことだった。


「ああと、あの娘は……?」


 けれど今日の早起きには、少しだけ理由がある。

 昨夜の白い女の子の様子が気になって、いつもより更に早く起きてしまった。

 とりあえずちょっと確認しておこうと、部屋を覗き込む。我ながら多少よろしくない真似をしているとは思うが、心配する気持ちが先に立った。 


「あ……」


 扉の隙間から見れば、真っ白な娘は既に目覚めていたようで、布団の上で体を起こしていた。

 ただ、まだ頭の方が追い打ちていないのか、ぼんやりと何もない場所を眺めている。

 碧玉の瞳。やはり日本人ではなかったようだ。

 だとすれば、どうやって声をかければいいのか。悩んでいると、少し手に力が入ってしまい、扉の隙間が大きくなった。

 差し込む光に、少女もこちらの存在に気付く。

 しまった、覗き見がばれた。これ以上隠れていても無駄、三千年は居た堪れない気持ちで恐る恐る部屋に入っていく。


「ごめん、悪気があった訳じゃないんだけど……。ああ、昨日のこと覚えてる? 君ね、道で倒れてたんだよ。えっと、私は水無瀬三千年っていう。女の子を外で放置してたら危ないからね。こうやって、保護させてもらったんだ」


 バツが悪く、緊張も手伝って、ぎごちない笑顔で早口に捲し立てた。

 意識のない女の子を自宅に連れ込んだ、そう表現すれば問題しかない。

 だが、あくまでも正義感から出た行動。誰に恥じることのない、真っ当な行いだ。説明すればちゃんと理解してくれると、三千年は何とか弁明しようとする。


「ひぃ……っ!?」


 どうやら、失敗だったらしい。

 彼女は三千年を見た瞬間、怯えて小さな悲鳴を漏らした。

 



 ◆




「よう、紅葉。おはようさん」

「……あんた、なにしてんだい」

「なにって、朝飯作ってるようには見えねえかね?」


 りるがいなくなって一夜明けた。

 探し回っても見つからず、待っても帰っては来なかった。

 大枚はたいて買った女に逃げられて、しかし紅葉が起きてみれば、弥太郎は台所で朝食の準備に勤しんでいる。話しかけてもいつも通りの飄々とした態度を崩さず、調理の手を止めもしない。

 あまりにも普通過ぎて、もしかしたらと一応のこと問う。


「りるは?」

「戻ってきちゃいねえぞ。さ、準備できたから並べてくんな」

「う、うん」


 しかし状況はやはり変わらないようだ。

 なのに弥太郎はみそ汁の味見をしつつ、「うん、いい味だ」なんて満足気。りるがいなくてもまるで気にしていない様子に戸惑ってしまう。

 何故、そんな態度でいられるのか。

 そこに怒りではなく戸惑いを抱く程度には、彼に対して信を置いている。

 女衒を生業とする人でなしで、食い意地張ったクズには違いなく。それでも、りるを道具扱いして見捨てるヤツではないと、今なら思える。

 用意した朝食もちゃんと三人分、そういう男で。だからこそ、その平静さが奇妙と感じられた。

 

「さ、食おうぜ。筑前煮、朝から作った割には結構味も染みたと思うんだが」

「あぁ、いただくけど。……大丈夫?」

「ん、なにが?」


 並べられた朝食は、昨日と同じく中々の出来栄えだ。

 みそ汁はサツマイモ、筑前煮に、太刀魚の塩焼き。できたての湯気に香りも漂い食欲をそそられる。

 だが箸を付けるよりも先に、弥太郎の真意を確かめておきたい。


「りるのこと。心配じゃ、ないのかい?」

「紅葉もなかなか毒されてるというか。買われた女が人買いの下から逃げ出すのに、何の不思議があるのかって話だよな」

「え?」

「だからよ。りるの立場で考えりゃ、逃げるのが寧ろ普通で。それを怒りこそすれ心配するような女衒ってのもおかしかねえか?」


 言われてみればその通りだ。

 女衒に虐げられる娘が逃げ出すのは当然だし、逃げた女の無事を案じるような輩はそもそも人身売買になど手を染めない。

 いなくなったりるを弥太郎が心配している。紅葉は疑いなくそう判断したが、常識に当てはめれば、その考えは普通でなかった。


「……ほんとだ。あたし、随分毒されてるね」

「だろ? ついでに言や、お前さんみたいな身の上なら、『ちゃんと戻ってこられるか』よりも『無事に逃げられたか』を心配するもんさ」

「あぁ、まったくだよ。うちはさ、まともに食事も食べさせてもらえなかったから。正直あんたに世話してもらえるのが楽で、色々思い違いしてた」

 

 買い叩かれて娼婦となった身の上。傍から見れば憐れまれる女だが、少なくとも寝床はあって飢えもしない。

 知らぬ男に抱かれる嫌悪感はなかなか消えないが、仕事終わりには風呂を準備してもらえており、待遇は決して悪くなかった。

 つまり彼女にとって、ここでの生活は存外に居心地よくて。

だから、りるにとっても此処は帰る場所なのだと、当然のように勘違いしていた。


「でもさ、あたしは。あんたは人でなしだけど、多少はマシな手合いだと思ってる」

「まあ、そう言ってもらえんなら、世話した甲斐もありますよっ、と」

「あの子だって、嫌がって逃げたとは思えない。随分懐いてたし、あんただってちゃんと気を遣ってたのに」


 けれど、それはきっと、あながち外れてもいなかった筈だ。

 どこぞの集落から攫われてきた真っ白な娘。その経緯は殆ど知らないが、りるは紅葉よりもよっぽど、蓼虫の女衒に心を許していたように思う。

 だからこそ分からないのだ。なんで逃げ出したのか。

 此処以上に安全な場所なんて、あの娘にはないだろうに。


「分からんもんだぜ、人の心ってのは。うん、筑前煮うめぇ」


 そうやって訴えかけても、肝心の相手は朝食に舌鼓。はぐらかすようなことばかり言うものだから、流石にむっとしてしまう。

 その反応も予想されていたらしく、弥太郎はくつくつと笑っていた。


「悪い悪い、別にからかったつもりはねえんだ。お前さんの言う通り、ちゃんと心配はしてるさ」

「その割に、落ち着いてるじゃないか」

「そりゃあ、俺もそこそこ歳食ってる。涙やら鼻水やら流して慌てふためくなんて真似は、今更できやしねえなぁ」


 そう言った彼の胸中は察せない。

 娼婦が馴染んできたとはいえまだ十代の少女。そこまで人の心を汲み取れなかった。

 だけど、条理に合わなくとも、この男ならばちゃんと心配してくれると思っていた。 


「でも、りるのこと……」


 なのにそうは見えないから、不安を覚えたのかもしれない。

 どれだけ悪態をつこうと、なんだかんだ紅葉は、弥太郎に一定以上の信頼を置いていたのだ。


「あー、なんだ。買われておいて女衒の下から逃げるなんざどういう了見だ……たぁ思っちゃいねえよ」


 多分その不安を見抜いた。だから弥太郎は肩を竦め、問いを先回りして答えてくれる。

 優しい苦笑は気にしていないと示すため。それは勿論「りるが逃げたことには怒っていない」という意味、同時に紅葉の問いも不快とは思っていないという意味だ。


「りるは自分の意志で逃げた。が、そう決断させたのは俺の怠慢だ。だから怒りはしねし、心配もしてるが、大枚はたいた以上“嫌だから逃げます”“はい、そうですか”で終わらせてもやれねえ。ちゃんと連れ戻して、説教の一つもしなきゃな」


 こちらは金でりるを買ったのだから、逃げるのは契約違反だ。

 ただそういう状況まで追い込んだのは自分だから怒りはしない。

 しかし多少の同情はあれど、商品に逃げられてそのままは有り得ず、ちゃんと連れ戻すつもりでいる。

その時は特に罰則は与えず、説教だけで済ませよう。

 それが今回の件に対する“蓼虫の弥太”の態度だという。

 

「じゃあ?」

「逃げたのが自分の意志だろうが、そうでなかろうが探して連れ戻す。そんときゃお説教はしますが怒りやせんぜ、ってこった」

「……そっ、か」

「さ、取り敢えずお前も食え。人間、物を食わねえと体だけじゃなく心が痩せ細る。どんな状況でも、まずは飯を食わにゃな」

「うん。なら、いただくよ」


 やはり、りるのことをしっかり考えてくれているらしい。それを、素直に良かったと思える。

 紅葉は小さく温かな息を吐いた。この男なら、決して悪いようにはしない筈だ。


「あぁと、そうだ。紅葉、仕事はしばらく休みでいいぜ。というか、留守番しててくれ」

「え? そりゃあ構わないけど、いいのかい?」

「逃げたヤツが、逃げなかったヤツより優先されるなんてあっちゃならねぇよ。りるがいない間は、お前さんも楽しな」


 そして、彼はいつだって、商人の一分というものを忘れようとはしない。

 普段はちゃらんぽらんなくせして、妙なところでマジメというか律儀というか。

 こうやって非常時でも気にかけてもらえ。なにより言い難いところを先回りして答え、負担をかけないよう配慮してくれる辺り、娼婦にあるまじき厚遇を受けていると思う。


「あたしってさ、意外と、甘やかされてるんだね」

「……それ、紗子も昔言ってた。俺ぁ甘やかしてるつもりないんだがなぁ」


 どうやら本人は無意識らしい。

 心の機微に聡いくせして、自分には全く無頓着。きょとんとしてよく分かっていない様子の弥太郎に、紅葉は込み上げる笑いを止められなかった。



 ◆




「りるが? ……いや、済まない。見てはいない。」


 改めてりるの捜索をしようと、まずは昨日会えなかった正義に尋ねる。

 今日の日雇い仕事は複数の店の廃品集めだったらしく、ちょうど花座の通りで捉まえられたのが幸いだった。

 しかし残念ながら空振り。あの娘が頼れそうなところは、ほぼ回ってしまったことになる。


「そっか、悪いな。仕事の邪魔してよ」

「構わない。それより、手伝おう」

「そこまではいいさ。てか、お前さん仕事中だろう?」

「午後からは取りやめにしてもらえばいい」

「おい、何言ってんだ無職」


 誠実な正義有るまじき発言である。

 思わず乱雑に突っ込んでしまったが、眼を見るにどうやら本気らしい。

 しかし、気持ちは有難いが、ただでさえ定職に就いてない、カツカツの貧乏暮らし。

 その人柄からある程度日雇いは回してもらえているが、培った信頼を放り投げるような真似は、彼の今後を考えるとよろしくない。


「だが、手は多いに越したことはない」

「そりゃそうなんだが……やっぱダメだ。途中で仕事放りだすような輩、次からは使ってもらえなくなるぞ」

「そうかも、しれないが。弥太にもりるにも世話になり過ぎた。ここらで馬鹿になってでも借りを返しておかないと、これからが暮らしにくくなる」


 幽霊兵士の一件で負い目があるのは間違いなく、ただ正義のことだ。

 大方は純粋にりるを心配し、弥太郎の負担を軽くしたいという、混じり気のない善意だろう。

 だからといって、それに甘えるつもりは欠片もなかった。


「んなもん気にせんでもいいさ。だいたいよ、りるは契約機反して逃げたんだ。そいつの為にマサ坊が割を食うのは違うだろ」

「……一番割を食っているのは、弥太だと思うが?」

「そこはあれだ。義理と人情と責任と、あとは、ちょっとした感傷さね」


 微妙にずれた返答に、正義は問いを重ねはしなかった。

 これでもそこそこに付き合いは長い。

 こういう言い方をする時、弥太郎の心は既に決まっていて、それを他に説明する気はない。そのくらいは知っていた。


「だが、本当にいいのか」

「ああ。ただ、お前さんの生活に支障がない程度には、頼るかもしれねえ」

「分かった。その時は、全力で当たらせてもらう」

「いやいや、もうちっと肩の力抜けって」


 ぐっと眼差しも強く、きっぱりと言い切る。

 生来のまっすぐさに幾らかの恩義が重なって、今の正義は少しばかり弥太郎に対して入れ込み過ぎているような。

 嬉しいんだかそうでないんだか、微妙な気分だった。

 

 ともかく、捜索は周囲の負担にならぬよう。その方針を変えるつもりはない。

 結果、手遅れの状況になったとしても、逃げだしたのがりるの意志ならば受け入れらねばならないだろう。

 その覚悟を以って弥太郎は花座を回っていたが、意外にも事態は簡単に動く。


 りるの居所が分かった。

 そう紗子が伝えに来たのは、翌日のことだった。



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