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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ


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【蓼虫】・1




 生まれ故郷についてはあまり思い出したくない。 

 地方の、頭にクソが付くほど田舎の、貧しい農村。仕事なんて農作業くらいしかなく、学校も無いから子供達も家の手伝いが普通だった。

 父親は早くに死んだ。

 代わりに母親が畑仕事をしていて、その手伝いをよくしたし、少しでも負担を減らそうと代わりに家のことも率先してやった。

 男なのにメシをちゃんと作れるのはそのおかげだ。


『弥太郎は、本当に優しい、いい子ねえ』


 頭を撫でてくれる母が好きだった。

 でも大人になってから時折思い出すのは、そういう触れ合いよりも、汗水垂らしてクワを振るう姿。

 疲れているだろうに、懸命に働く。土に汚れた横顔が、今も目に焼き付いている。


『ごめんな、母ちゃん。今日も葉っぱの汁もんだけど』

『いいのよ、弥太郎。今は兵隊さんが頑張ってくれているんだから。私たちも我慢しなきゃ』


 戦争が激化する中、日本全土が困窮していた。

 都市には爆撃を受けたところもあるらしい。

 ただ田舎の村は空襲の対象にはあまりならず、この村は一応安全ではあった。

 それでも、助かったとは思えなかった。

 兵隊の食事を賄う為、育てた作物は殆ど持って行かれてしまう。

 結果、村に残るのは僅かな食糧だけ。お腹を満たす為には芋の蔓だとか、野菜の皮だとか。そこらに生えている名前も分からない野草の類まで食べなければいけなかった。

 それでも文句の櫃とも言わず、母は御国の為にと働いた。

 兵隊さんの、みんなのご飯を作らなきゃ。

 その笑顔が好きだったけれど、同時に痛々しくもあった。


『すみません、もう勘弁してください。これ以上持って行かれたら、俺達の生活が』

『あぁん? 戦地にもいかず内地でぬくぬくと暮らす臆病者が、飯まで食らおうなんざいい御身分だな!? 必死に戦っている兵士たちに申し訳ないと思わんのか!?』


 一度取り立てにきた役人へ願い出たことがある。

 もう少しだけ作物を残してくれないかと。

 返答は拳で。殴り飛ばされて、踏み付けられて、唾を吐きかけられた。

 他はともかく、この村では徴兵された男はいなかった。農作業をする者がいなくなると困るからだろう。

 なにはなくても、食べ物は必要。だから残らされて。必死になって作物を育てて。

 だというのに、戦いもしない臆病者と罵られる。


 なんだこれ。俺らは、なんなんだ。


 痛い。殴られたところよりも心が。 

 あんまりにも惨め過ぎて、涙がこぼれるのを止められない。


『ちくしょう…ちくしょう……』


 後から知る。

 本当は、田舎の農村というのは、もっと食べ物が余る筈で。

 取り立てにきた役人の私腹を肥やす為、規定よりも多い作物を持って行かれていたのだと。

 つまりは散々働いていたのは全部無意味。

 ただただ搾取されるだけの存在でしかなかった。


 けれど当時はそれを知らず。

 母は必死に働いた。

 御国の為に兵隊さんの為に。

 日本が戦勝を掴めるように、働いて働いて。

 どれだけ疲れていても、お腹を空かせていても働いて。

 とにかく働いて。

 糸が切れたように母は倒れた。


『母ちゃん…ごめん、俺……』

『謝らないで、弥太郎。私こそ、あなたをを守ってあげられない、弱い母ちゃんでごめんね』


 床に伏せる母の手を握り締める。

 ささくれた、ひび割れた、細すぎる枯れ木の手。

 まだ老いたというような歳ではない。単に食べるものがなくて、痩せて衰えただけ。

 でもどうもしてやれない。横たわる母に、粥を作ってやる余裕すら家にはなかった。


『ねえ、弥太郎。あなたは、とても優しい子。その優しさを失くさないでね』

『か、母ちゃん?』

『優しいあなたには、きっとこれからの日々は辛いものになると思うけど。どうかそのままのあなたで。そして、正しいことを迷いなく正しいと言える子であってほしい』

『……なに言ってんだよ。大丈夫だって、ちょっと休めば、すぐ元気になるから』

『ふふ、そうだねぇ……』


 嘘に嘘を重ねて、本当から目を逸らして。

 すぐ元気になるなんて、ある筈がない。

 指にはもう力がなく、次第にまぶたは重く、ゆっくりと母は、目を瞑って。


『なあ、母ちゃん。元気になる、ちゃんと元気になるって。だから、目を開けてくれよ。大丈夫だって、大丈夫、だから。お願い、だから、いかないでくれよぉ……っ!』


 そのままもう、動かなくなった。





 なあ、誰か教えてくれないか。

 優しいって、どれだけの価値がある?

 死んでいく母に、なにもしてやれない男の優しさになんの意味が。

 

 握り締めた掌は、そんな歳でもないのに細く枯れ木のようで。

 

 だから頼む、教えてくれよ。

 正しくなきゃいけないのか。 

 踏み躙られて、奪われても、それでも正しい人間でいなけりゃ駄目なのか。


 俺は嫌だ。

 もう芋の蔓も、名前も分からん草も食いたくねえ。

 すきっ腹を濁った水で誤魔化す真似なんざしたくねえ。

 ……母親の今際に、粥の一杯も作ってやれねぇ暮らしはごめんなんだ。


 優しいだけ正しいだけで、搾取される側に甘んじるのは、いつかまた母ちゃんを見捨てるってことじゃねえか。


 だから心に決めた。

 正しさとか、優しさとか、そんなものどうでもいい。

 悪辣だの外道など知るか。他人を利用して、道徳なんてかなぐり捨てても、いい暮らしがしたい。

 たんまり金を稼いで、はち切れるくらい飯を食って。

 俺は、弱者を踏み付けて生きていくのだと。


 そうしてしばらくの後、彼は村を出た。

 貧しい故郷を恨み、何もしてやれなかった自信を嫌悪し。

 母の遺言も振り切っての出奔だった。




 ◆




 そうして戦後十年、弥太郎は悪辣の女衒となった。

 東京は豊島に一軒家を構え、朝っぱらから酒を飲み、食べたいだけ食べて。

 忙しく働いていらっしゃる日本国民の皆々様方を尻目に、女を攫って売り飛ばした金で遊んで暮らしている。

 それは多分あの頃に願った通りの自分で。

 だから日々はそれなりに心地良く、随分と楽なものになった。


「あれ、珍しい。今日はあんたが台所かい?」

「おう、紅葉。なんか、そんな気分でな」

「へぇ、いいことでもあった?」

「いんや、どっちかってーと夢見は悪かったかね」


 ただ時折嫌な夢を見て、早く目覚めてしまうこともある。

 そういう時は誤魔化すように色々と動く。朝食作りもその一環だ。

 片眼が使えなくなった為、指を切らないよう慎重に。しばらく経てば慣れてきて、もとももと手癖でやっていたところがあるので、特に調理工程には問題もない。

 今朝は名前も知らない雑草の汁物ではなく、豆腐とねぎの味噌汁。母ちゃんにも飲ませてやりたかったな、なんて考えてしまう程度には感傷的になっていた。


「みそ汁に、イワシの生姜煮。だし巻き卵、ホウレンソウのごま汚し……朝から随分気合が入ってるじゃないか」

「せっかくだから自分が食いたいもん作った。悪いな、並べるの手伝ってもらえるか」


 声をかけてきた少女は紅葉という。

 顔の半面が火傷で爛れてはいるが、これで娼婦としては中々弁えており、馴染みの客も出来た。そろそろ娼館に売ってもいいが、なんだかんだ延び延びになって、まだ弥太郎の自宅で面倒を見る形になっている。

 まあ案外と関係は良好で、娼婦として切羽詰まっている訳でもない。折を見て身の振り方に関しては詰めればいいかと弥太郎は気楽に構えていた。


「うん、分かった。……男やもめにウジがわく、っていうけれど。あんたは料理が上手だよね。んー、いい匂い」

「だろ? 今回の生姜煮は中々の出来だ。米にも酒にも絶対合うぜ」

「へぇ、そいつは楽しみだね」


 弥太郎は食い意地の張った男で、その分作る料理にも手は抜かない。

 そういう男が自信たっぷりに言うのだから味はかなり期待できるだろう。

 紅葉も元々貧しい家庭の生まれだから、食事をしっかりとれるというのはそれだけで有難いと考える。その上味も良いのなら、こいつは嬉しいと機嫌も上向きだ。


「くくっ。しかし、ウジね」

「どうしたんだい、いきなり笑って」

「“男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲く”、たぁ言うが。ほんとにウジのわいたヤツを知っててよ」

「……本当に? そんな汚いの、そいつ?」

「いやいや、それが寧ろキレイすぎてなぁ。マジメで誠実なやつさ」


 だからこそ、後悔ウジムシはわいたのだが。

 事情などまるで知らない紅葉は微妙な顔で小首を傾げ、そんな噛み合わない会話を弥太郎は楽しむ。

 もちろん喋りながらも手は止まらず、後片付けは粗方済み、食卓に皿も並んで朝食の準備が整った。


「さて、我ながら完璧な食卓だぜ。紅葉、りるを起こしてきてくんな」


 やはり食事はみんな揃ってでないといけない。

 まだ起きてこないねぼすけは紅葉に任せ、自分は座ろうとして、しかし意外な答えが返ってくる。


「あの子なら、いなかったけど。もう起きてきてたんじゃないの?」

「は?」

「だから、あたしが起きた時にはもう布団の中には居なかったよ。あんたは普通にしてるし、とっくに起きてて、今は席を外してるだけだと思ってたんだけど……」


 いや、今朝はまだりるとは顔を合わせていない。

 早起きして台所で料理を作っていたが、こちらには誰も来ていなかった筈だ。

 だが同じ部屋で寝ている紅葉は、起きた時には既にいなかったという。

 それはつまり。


「もしかして、出てった?」


 おそらくは紅葉の呟いた通り。

 娼婦見習いとなった神の娘は、どうやら逃げ出したらしい。




 花に惑いて虫を食い【蓼虫】




「大将っ!」

「な、なんだ? 朝から大声出して」

「りるだ、りるのヤツ来なかったか!?」 

「はぁ? いや、来てねえけど」


 朝早く、花座横丁の居酒屋『こまい』に挨拶もせず飛び込む。

 店主もその妻である小舞こまいも目を丸くしていたが、それを気遣う余裕はない。

 あの後、家の中をくまなく探したが、りるは見つからなかった。 

 部屋に荒らされた形跡はなく、そもそも靴もない。やはり自らの意志で出て行ったようだ。

 だからまずはあの娘のお気に入りである『こまい』を訪ねたのだが、こちらには来ていない。

 なら他はどこだ。りるが行きそうな場所。花座に来てまだ日が浅い、そんなに多くはないと思うのだが。


「どうした、蓼虫。随分慌ててるが」

「あいつ、出て行きやがったんだ。ちくしょうが」

「ああ、そりゃあ慌てもするか。女衒が商品に逃げられたなんざ、眼も当てられねえ」

「え? あ、ああ、そうさ! こちとら安くない金払ってるのによ」


 一瞬、店主の言葉に戸惑ったのは何故だろう。

 だが今はいい、早く追わないと。

 高い金を払って仕入れたのに、売り飛ばす前に逃げられたのでは大赤字だ。

 追う理由なんてはっきりしているのだから、なんの躊躇いもなく、大手を振って追うべきだろう。


「しかし、当然っちゃ当然だけどな。蓼虫、お前普段から普通に出歩き認めてんだろ? そりゃあいつかは逃げるさ。むしろ今迄誰も逃げなかった方が不思議だ」

「ああ、まったくだ。正直油断してた」


“蓼虫の弥太”はワケアリばかりを取り扱う。

 仕入れてくる大半は、そもそも逃げる場所なんてない女ばかりだ。自由に出歩くのを認めるのは、どこにも逃げられないと知っているから。りるも、その類の筈だった。

 なのに実際はこういう状況。まったくもって、油断したとしか言いようがない。


「りる、というのは。以前も一緒に居た白い娘さんですか?」

「おお、そうだ。奥さんも、心当たりないか?」

「いいえ、申し訳ありませんが」


 一応程度の面識がある小舞にも確認しるも、やはり行方は分からず。

 ならば次だと弥太郎はすぐに動き始める。


「悪い、大将。今日はこれで。もしあれだったら、ちょいとりるのこと気にしてやってくんねえか?」

「ああ、ダメもとだが、客にも聞いとく」

「頼んだ! っ、とと」

「おい、大丈夫か……って、もういっちまいやがった」


 急に左目が見えなくなったせいで、ところどころ細かな距離感が掴めていない。

 椅子に蹴躓けつまずきそうになって、しかし止まらず勢いのままに店を出て行った。

 なんとも慌ただしく、夫婦二人顔をそろえてぽかんとしている。

 

「もっと斜に構えた方だと思っていたのですが」

「んなことはないが。俺も、あんな蓼虫を見んのは初めてだよ」


 蓼虫と揶揄される悪辣の女衒。

 それなりに付き合いは長く、妻の件でも世話になっているから、噂される程タチの悪いクズではないと知っている。

 しかし、ああまで余裕のない姿は初めてで、店主としても他生の困惑はあった。




 ◆




 りるが花座横丁に来てから縁深い場所といえば、居酒屋『こまい』か娼館のナカゴ屋。

 食い物屋なら結構行ったが、色々なものを食べさせたかったから、常連と呼べるほど通った店はない。

 後は、頼るとしたら<力>について知っている正義くらいか。

 こう考えてみると、思い当たる場所があまりない。

 とりあえず『こまい』は訪ねたから次はナカゴ屋へ。

 その途中も走って辺りをきょろきょろ見回して、けれどそんな雑な探し方で当然見つからず。普段の不摂生から体力もなく、結局疲れて道端で立ち止まる。


「くそ、こらぁ油断よりも怠慢だな」


 肺に溜まった熱を吐き出してから、弥太郎は苛立って軽く舌打ちをした。

 娼婦見習いとして手元に置いた。実際の仕事をさせるより、まずは人の群れの中で生きる術を学ばせる方が先だと考えた。

 不満を抱かせないよう接してきたつもりだが、にも拘らず逃げられ、行った先も見当がつかない。

 娼婦への配慮を疎かにして、内心を理解できないまま自由にさせていた。

“蓼虫の弥太”などと呼ばれて木にでも登ったのか、調子こいて怠けて商品を取り逃がすなんぞ完全な失態だ。

 逃がしたままにしてはおけない。弥太郎は再び足を動かし、今度こそナカゴ屋へと向かう。


「あら、弥太郎さん。どうしたのですか?」


 横丁から少し外れた、一軒家を改造した小さな娼館。

 出迎えたのはナカゴ屋でも人気の娼婦、紗子だった。

 優れた容姿に、淑やかな立ち振る舞い。なるほど客の入れ込みも納得だが、昔は彼女も弥太郎の下で暮らしていた。

 あの頃も外出に制限を付けず基本は自由。そもそも、逃げるとは思っていなかった。

 同じように、りるも逃げないと踏んでいた。つまるところは読み違えの取り逃がし。まったくもって、情けのないことである。


「……なにか、ありましたか?」


 長い娼婦生活で培われたのか、紗子も心の機微には聡い。

 何も言わずとも弥太郎の焦りを察し、表情は真剣なものへと変わる。


「ああ。りるのヤツがいなくなった。どっかで見てねえか?」

「りるさんが……いえ、申し訳ありません」

「そっか」


 ここも駄目、となると本当に分からなくなる。

 どうすればいいか。思索に耽り黙り込む弥太郎へ、紗子はごくごく自然に、純粋な問いをぶつけた。


「りるさんは、それほど高値で仕入れたのですか?」

「あん? ……いや、むしろ安く買い叩いてるな」

「では、そこまで慌てる必要もないのでは」

「おいおい、冷てえ言い方じゃねえか」

「茶化さないでくださいな。分かっているでしょうに」


 悪辣を是とする“蓼虫の弥太郎”が、見習い娼婦を一人逃したくらいで何故そうも慌てるのか。別に面倒をかけずとも見捨てればいいじゃないか。

 その程度で寒くなる懐具合でもない。高値で仕入れたならともかく、買い叩いたなら尚更に。

 女衒としての貴方は、もっと冷静で理知的だろう。

 言外の意味はちゃんと察している。紗子はつまり、『そんなに慌てて探す程、りるに執心しているのか』と聞いている。


「お前さんの言う通りだな。女衒としてなら、別に逃がしたってそこまででけえ損でもねえよ。だが、面倒見るって約束しちまったからなぁ」


 誤魔化したってすぐにばれる。なら素直にと、弥太郎は本音をそのまま零した。

 蓼虫の情けない答えに紗子は何を思ったろう。僅かに逡巡し、彼女は小さな笑みを落とす。


「分かりました。あまり表立って聞き込んで“蓼虫の女衒が女を逃がした”と噂になっても困ります。それとなく、信の置ける方々に探りを入れてみますね」

「ほんと、出来た女だよ、お前さんは」


 こちらの意を察し、当然のように自ら助力を申し出て、弥太郎の立場にも配慮してくれる。

 いつかの小汚ない泥棒が、いい女になったものだ。

 こんな状況でも紗子の成長が微笑ましくて、微かに頬が緩む。それをすぐさま引き締めて、次へ行こうと弥太郎は踵を返した。


「それじゃ、頼まあ」

「はい。あまり期待されても困りますが、出来得る限りは」

「ありがとよ」


 丁寧に頭を下げるのは、染み付いた娼婦の所作だ。

 簡単に礼を言い、走り出そうと一歩を踏み出し、その瞬間狙い澄ましたように言葉を渡された。


「なあ、弥太郎さん。もし私が逃げても、同じように探してくれた?」


 それは、まるであの頃のような。

 一年にも満たない奇妙な共同生活を思い起こさせる、懐かしい話し方だった。

 おそらくは、呆気にとられた姿でも眺めようとしたのだろう。しかし弥太郎には一切の動揺もない


「探したさ。そこは誤魔化さねえ。お前さんは、俺にとっちゃ特別だからな」


 返答は即座に。

 嘘は僅かも混じらない。正真正銘、心の底から、疑いようのないくらい本気の本音だ。


「俺は、ずっと思ってたんだ。もしも、運命というヤツが本当に存在するとしたら。俺の運命は、やっぱ女が握ってるんだろうなって」


 事実として、彼の転機には常に女性の姿があった。

 もしも運命が本当に存在するのならば。

 弥太郎にとってのそれを変えた女性が四人いる。


「母親が死んで、東京に出てきた。“花”を売り飛ばして、女衒としての在り方を打ち立てた」


 故郷の農村で暮らしていた頃、何も出来ず死なせてしまった母。

 この身に呪いをかけた、初めて売り飛ばした娘。

 どちらも弥太郎の生き方に大きな影響を与えた女性だ。


「そんで、お前さんと一緒に暮らしたから、今の俺が在って」


 紗子もまた、その一人。

 彼女との暮らしがなければ、今のように見習い娼婦の面倒を見ようなんざ考えもしなかった。

 重ね合ったカゲロウの慕情は間違いなく今の弥太郎を形作り。


「最期に……俺を終わらせるのがりるなんだよ、多分な」


 そして、最期の女。

 かつての呪詛を肯定したりるこそが、この命を終わらせるのだろう。

 抽象的すぎる独白。寂しげな、世捨て人のような微笑。

 いつもの飄々とした弥太郎とはまるで違う。はたと瞬きすればそのうちに消えてしまいそうなくらい、今の彼は希薄だ。


「なら、なぜあの子を探すのですか?」


 風景へ溶ける彼の袖口を掴むように紗子は問い掛ける。

 そういえば、虫篭の集落でも正義から「なぜ」と聞かれた。

 何故、りるに肩入れをするのか。悪辣の女衒がどうしてと。

 けれど、その理由なら、ずっと変わっていない。


「あの子が、借金取りに見えたからさ」


 きっと神の娘は、俺が借りていたものを取り上げに来たのだろう。

 弥太郎は嘘みたいに晴れやかな笑みでそう言った。








 それから日が暮れるまで辺りを探したものの、結局りるは見つからなかった。

 実年齢はともかく、あの幼い容姿だ。子供と間違われ警察の厄介になっているかと岩本を頼ったがそちらも空振り。

 なにを考えて逃げ出したのかは分からない。

 しかし今の生活が嫌になったのなら、とっくのとうに池袋を離れているのか。

 そしてもう、戻る気も、ないのだろうか。







 暗がりを、ふらりさ迷う。

 白い髪、白い肌。碧玉の瞳をした幼い容貌の娘。

 人形のように丹精な面立ちとかつてならば評せた。

 けれど今は、とてもではないが人形などと呼べない。

 俯き歩くその表情には僅かながらの疲労と、一抹の寂しさが滲んで。だからそれが一人ぼっちの少女だと分かる。


 弥太郎の家を逃げ出してからなにも食べていない。

 ずいぶん遠くまで来たし、足が棒のようだ。

 少しだけ、少しだけ休もうか。

 りるは立ち止まり、よろよろと道の端へ、崩れるようにちょこんと座り込む。


 花座横丁を離れて、東京の夜を改めて眺める。

 花街のネオンの眩しさとは違うけれど、十分に眩しい。

 眩しすぎて、眼を逸らしてしまいたくなるくらいだ。


“虫は光に引き寄せられる”

“走光性と呼ばれる、光刺激に対する反応”


 軟禁されていた頃は、勉学どころか娯楽さえ与えられなかった。

 なのに知らなかった筈の知識を当然のごとく持ち合わせる。

 その時点で彼女は、確かに化生かみのむすめなのだろう。


「ごめん、なさ、い……」


 だから逃げ出した。

 本当に逃げたかったのは、弥太郎の下ではなく自分自身。

 どうしようもない、どうにもならない、そんな小娘が煩わしく思えた。


 ああ、つかれ、たな。


 何も食べてないから? 歩いてきたから? それとも、もっと他のなにかに。

 分からない、分からなくていい。

 りるは蹲って顔を隠して、なにも見ようとはせず。 

 そうして、そのまま、すとんと眠りに落ちた。







「……おや?」


 だから、近付く男性の姿に気付かなかった。







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