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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ


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【ウジムシの挽歌】・5




 正義まさよしという名前は父が付けた。

 由来は字のごとく、「己の正義せいぎを貫ける男であるように」

 残念ながら青年となった彼は青線に出入りする立派な無職。父の望んだ生き方は出来なかったけれど。


 それでも昔は、そう在りたいと願っていた筈だった。

 裕福な家に生まれて戦時中でも飢えず、周囲に引け目を感じていた。

 そのせいで上手く馴染めず、隣に住む“兄さん”をよく慕った。 

 穏やかで優しくて、なにより自分よりも他の誰かを当たり前のように優先する。

 召集令状を受けても『御国の為に、皆を守る為に』と笑顔で戦地へ向かえる。そういう人を兄と呼んだ。

 だからだろう、ごく自然に正義は考える。


“いずれは俺も、御国の為に。皆を守る為に戦地に行くのだ”と。


 幼いながらに整然とした良識を学んだ彼は、誰かの為に命を懸けることになんの疑いも抱かなかった。

 にも関わらず銃をとらなかったのは、偏にその年齢が理由である。

 兵役法に規定される徴兵検査は二十歳より、志願兵も十七歳からしか受け付けていない。

 どのような志を掲げようと、所詮は子供でしかなく。

 つまり正義は、「こうしたいああしたい」と心の中で喚き立てるだけの、無力な少年に過ぎなかった。


 じくじくと胸がうずく。 

 ひどく傲慢で、他を見下した在り方だと思う。

 それでも。

 差し当たっての生活に不自由がない正義にとっては、空襲より貧困より、『なにもできない自分』の方が辛かったのだ。


 鬱屈とした日々を幾つも重ね、至る太平洋戦争末期。

 少年の心を置き去りに戦況は逼迫していく。

 大日本帝国は次第に追い詰められ、本土決戦が危ぶまれる中、近付く連合国軍に対抗するため様々な措置が講じられた。

 国民義勇隊の結成。根こそぎ動員。

 そして徴兵検査における年齢制限の引き下げもその一つである。

 これにより徴兵の下限は十五歳となり、健康な男子ならば軍に志願することを認められた。

 もはや年齢など関係ない。国民は一億玉砕の精神を以って戦い、勝利を掴み取れとのお達しだ。


 当然喜べるものではない。そこまでしなければならない程、日本は苦境に立たされている。

 戦地へ行った若者は帰らず、物資は滞り、今度は年端もいかぬ子供さえも戦いへと駆り出す。

 国民は敗戦を強く意識し、だというのに御国の為にと節制を奉仕を強いられ、“死にに行け”と命じられる現状を嘆いた。

 しかし正義は下された命令を喜んだ。


“ああ、嬉しい。ようやく、俺も、兄さんのように戦えるのだ”


 御国の為に、想う心にきっと嘘はなく。

 皆を守りたい、それは掛け値のない本心で。

 けれど、たぶん正義は、致命的になにかを間違えていた。


 そうして間もなく彼は軍に志願し、海軍航空隊に籍を置くこととなる。

 止める者は、誰もいなかった。




 ◆




 つまるところ、藤吉の言う通りだった。


 正義は幽霊兵士の噂を聞き、その正体に当たりを付けていた。

“兄さん”について弥太郎は何も知らないが、そこは別に重要ではない。

 問題は噂と幽霊兵士と“兄さん”が、正義の中で結びついたこと。


『いいや。疎ましく思っているのは、本当は正義さんの方じゃないのかな』

『平和を憎む軍人幽霊の正体に見当がつくのはつまり、そういうことだろう?』


 もしも「敗戦の屈辱も忘れ安穏と生きる国民に失望した幽霊兵士は、彼ら彼女らに憎しみを抱き軍刀で斬り殺す」という噂を聞いて、“兄さん”がそうするかもしれないと判断したのなら。

 それは即ち、良識ある人がそういう行動に出る思う程に。

 正義にとっても、戦後の世の中が醜く見えているに他ならない。




 ぐじゅる。




「おいおい、取り敢えず頭ぁあげてくれ」


 すすり泣き、額を床にこすりつけて、ただ謝罪を繰り返す。

 正義の態度に弥太郎は困惑のし通しである。

 

「申し訳、ありません、でした」

「いや、だからな? 謝られるようなこたねえって。ガキだってのに志願兵として、頑張ったんだろ? むしろ立派だよ」


 戦時中兵役逃れをしている弥太郎からすれば、尚更に思う。

 幼いながら御国の為に戦おうとしたその心意気は、美徳とは感じないし正直欠片も理解できないが、非難されるようなものでもないだろう。

 例え、その末路が無残な敗戦だとしても。

 そいつは考えなしに喧嘩吹っ掛けたお偉いさん方が悪いのであって、正義には責任なんざこれっぽっちもない筈だ。


「がんばって、なんて。違う…俺は。俺は、戦って、いない、のです……っ!」


 けれどそうではないのだと。

 体の芯から、心の奥底から嗚咽を絞り出す。


「御国の為に、皆の為にと、俺は海軍に志願しました。“兄さん”のように、戦えるのだと。それが嬉しくて。でも」


 でも、かつて正義は十五歳の少年だった。

 その事実を心から疎んでいた。

 いた、ではなく。きっと、今も。

 だって───


「でも、俺は、戦場に出ることもなく! ただ海軍の所属として無駄メシを食らい! 安全なところで、戦いもせず終戦の日を迎えましたっ!」


 ───1945年、ようやく正義は十五歳になった。

 志願兵として海軍に入って、僅か数か月で終戦。

 結局彼が戦場へ赴くことはなかったのだ。


「貴方達に、それだけの無理を強いておきながらっ! 食って寝て、戦いもせず、おめおめと生き恥を晒しっ! そんな俺が、どうして立派だなんて」


 弥太郎は、おそらく他の国民たちも、戦争に苦しんだ。

 本当は、そんな彼ら彼女らの為になりたかった。

 戦いを望んだのではない。死にたかったのでも、殺したかった訳でもない。

 ただ“兄さん”のように、正しい生き方がしたかったのだ。

 なのに、皆の為にとほざきながら、その実なんの苦労もなく戦後まで生き残ってしまった。

 それが辛い。

 なにもしなかった、なにも出来なかった自分がたまらなく惨めで、胸がじくじくと疼く。


「おい、今から俺ぁひでえこと言うぞ」

 

 その嘆きに溜息を吐き、正義の肩をがっしりと掴んで、弥太郎は目の前の駄々っ子をしかりつける。


「マサ坊、お前さん馬鹿か? 自惚れんな。ガキが戦地に行ったところで何が出来た。どうせ死体が一つ増えただけだろうぜ」

「分かってる。俺が、戦いに参加したところでどうにもならない。誰も守れず、命を無駄に散らしただけだ」

「なら」




 ぐじゅる




「それでも、苦しいんです……っ」


 正義は、多少融通の利かないところはあるが、決して愚かではない。

 彼はちゃんと理解している。あの頃、どんなに頑張ったところで日本は連合軍に勝てなかった。

 資源、技術、規模。どれをとっても劣っており、敗戦は当然の帰結に過ぎない。

 そう自身に言い聞かせても後悔ばかりが増えていく。


「だって、貴方が奪われていた時、俺はそれを知りもせず食べていた。目の前の食べ物は、誰かが食べられなかったものだなんて、考えもしなかった」


 子供の頃はただ食べていた。

 でも終戦を迎え、大人になり、貧しい戦後を生きて初めて理解する。

 どこかから勝手にわいてくる訳でもあるまいに。自分が今まで食べていた分、誰かにしわ寄せが行っていたのだと。

 奪われる者がいて、奪う者がいる。

 農民だった弥太郎は前者で、志願し軍属となった正義は後者。

 仕方のないことだ。兵隊さんは優先される、それが普通じゃないか。

 頭では分かっていても、割り切るなんて、できなくて。


「……そんな男が、皆の為にと嘯いて。色んなものを踏み躙って。それを仕方なかったのだと、どうして居直れるっ!?」


 皆を守りたかった、正しく生きたかった。

 なのに結局は、そうと気付かぬまま搾取する側に立っていた。

 たまたま自分で手を下す機会がなかっただけで、他から奪った飯でお腹を満たしていた事実に変わりはない。

 少なくとも、正義にはそう思えてしまった。


 それでも御国の為に戦えれば、まだ自分を許せたかもしれない。

 だけど戦えなかった。

 そうして迎えた終戦。

 人々は疲れ果て、街は焦土となり、多くの命が散ったのに。

 生きる価値のない。他から搾取し腹を満たし、安全な場所で口先だけの正義せいぎを振りかざす、そんな忌むべき男だけが残った。


「ちゃんと戦いたかった! それで散るなら本望だった! でも、なにより。俺は…俺はただ、胸を張れる生き方がしたかったのに……っ!」


 そして今。

 いつか掲げた正しさに、どうしようもないくらい追い詰められて。

 後から後からわいてくる後悔ウジムシに侵された正義は、ごめんなさい許してくださいと、見当違いの贖罪を乞うている。


「あぁ……なんか、全部繋がったわ」


 その叫びが、弥太郎の中で妙なくらいすとんと落ちた。


「俺ぁずっと思ってたんだ。マサ坊みたく誠実なヤツが、なんで花街に流れてくんのかなって。表に出りゃマトモな職にだってつけるだろうにってよ」


 今迄は正義という男がよく分からなかった。

 まじめで誠実で、良識のある。割に真っ当な職には就かない、その日暮らしの無職。

 女衒仕事を嫌悪しながら、頼めば何も言わず手伝って。

 しかしそういう男の心境を、理解はしてはやれないが、ほんの僅かながら触れられたと思う。


「普通に、幸せに生きるのが嫌だったんだな。踏み躙ったものに紛れて生きるテメエが、お前さんには許せなかった」


 だから定職には就かず、頼まれればどんな仕事でもやった。

 貧乏暮らしで食うものにも困って。日雇いの“あぶれ”だと蔑まれるぐらいがちょうどよかった。

 なにに謝ればいいのか、誰に許しを請えばいいのかも分からない。

 幸せになりたいなんて望めなくて。

 誰よりも価値のない人間でいるしか、正義には出来なかったのだ。


「俺への手伝いも、そういうことか?」

「……女を売るのは悪いことだと思っている。でも弥太を責められなかった。奪ってきた者が、女衒に身を墜とすくらい苦しんだ人間を、責められる筈が、ない」

 

 別にマサ坊のせいで女衒になった訳じゃねえのに、そんなもんまで背負わんでも。

 言おうとして、やめた。指摘したところで意味はない。飽きるくらいに自分を責めて、ねじ曲がった心だ。今更正論をぶつけたところで、響きはしないだろう。

 そうでなければ、

 



 ぐじゅる。




 幽霊兵士は現れなかった筈だ。


「来ま、す」


 りるの一言に、ぐじゅるぐじゅると、不愉快な音は近くなった。


「にい、さん……」


 玄関は閉じていたのに、床から室内にわく人影。

 軍服を纏い、軍刀を携えた幽霊兵士。

 正義にはそれが“兄さん”に見えていた。

 正しさを胸に生きたあの人が、与えられた平和を貪るだけの戦後に絶望して凶行へ及んだと。

 だから最後には。

 正しく生きられなかった弟分を、斬り殺すのだと思っていた。


「いいや、違えよ。結局、幽霊兵士はマサ坊の知り合いなんかじゃなかった訳だ」


 けれどそれは正義の勘違いだった。

“兄さん”ではない。そもそも、幽霊兵士なんていなかった。


「ウジムシ、です。正義さんの、胸にわいた。人の形を作れてしまうくらい、深く、大きな。無数の、後悔ウジムシ


 りるの淡々とした言葉が全てを物語っている。

 花街をさ迷う幽霊兵士は、正義の生み出してしまった、後悔の念そのものだ。


「一応聞いとくけど、りるさんや。あれ、食える?」

「食べれは、します。たぶん、おいしい、です。でも、食べ終える前に、斬られ、ます」

「だろうなぁ」


 外から入れないようしっかりと玄関を封じたのが災いした。

 逃げ場はなく、神の娘も状況を打破する力はない。

 肝心の正義はと言えば。


「にい、さんは」

「おい、マサ坊?」

「兄さんは…俺がどうにかしなくては……」


 先程の話を聞いていないのか、耳に入っても理解できていないのか。

 ゆらり立ち上がり、鉄パイプを構え、幽霊兵士を兄と呼びながらも対峙する。 

 自身の後悔の具現を突き付けられ、かたかたと小刻みに震えるくらいに怯えて、しかし逃げはせず弥太郎らをかばうように一歩前へ。

 こんな時まで真面目で誠実で、それが少し悲しい。

 その正しさに潰されようとしているくせして、未だに抱えていくつもりらしい。


「すみません、俺は」


 恐怖は怪異だからでも軍刀を向けられているからでもない。

 本当に怖いのは、無様な己を憧れた人に見られること。

 なのに立ち向かう。


「うあ、あぁっ!」


 立ち向かって、苦悶の滲む叫び声と共に、鉄パイプを振るう。

 ぐちゃりと潰れる頭。

 多分こうやって幾夜を重ねた。夜毎に幽霊兵士の───兄さんを気が遠くなる程に殺してきた。

 きっと、止めたかったから。

 憧れた人の凶行を止めたいと思ったから。

 だが無駄だ。あれの本質は後悔ウジムシ。何度倒したところで、後から後からわいて出て、すぐ元の形に戻ってしまう。


 そうして返す刀。

 幽霊兵士は無防備な正義に刃を、向けなかった。

 動けない彼の横をするりと通り抜け、狙うのは弥太郎達だ。


「りる、っぶねぇ!?」


 放たれた一刀。

 咄嗟に弥太郎はりるを突き飛ばし、自分もなんとか白刃を避けようとして。

 しかし遅かった。

 ひゅう、と風を切る音は本物の刀にしか思えない。ならば斬られた結果も準ずるものになるだろう。

 逃げられず、悲鳴を上げる暇さえなく。幽霊兵士の軍刀が、ちょうど左目の辺りを切り裂いた。


「弥太郎、さん?」


 りるは、その様を間近で見ていた。

 突き飛ばしてくれたおかげで助かったが、代わりに弥太郎が凶刃の下に。

 けれど理解が追い付かないようで、ぽかんと座り込んだままだ。

 動いたのは正義の方。

 叫び声も、先程までの怯えもない。純粋な怒りに背中を押されて、ほとんど無意識に幽霊兵士の頭を叩き潰す。

 それでも、やはり無意味。再び潰れた部分が集まって元へ戻っていく。

 結局はその繰り返し。何度倒したところで同じこと。胸に巣食うウジムシからは逃げられない。


「ってぇ、なぁ」


 緊迫する空気の中で場違いなくらい間延びした声。

 弥太郎は左目を押さえたまま、ふらふらと覚束ないながらに立ち上がった。

 痛い、体が重い。できりゃ、寝てたい。

 けどそうもいかないのが渡世の義理というヤツで。

 もうちっと踏ん張ろうかねと、左目は抑えたまま右手で握り拳を作り、緩慢に対峙する二者へと近付いて。

 思いっ切り、正義の頬をぶん殴った。


「……カッコつけて殴ったけど、手がすげえ痛え」


 ただ吹っ飛ぶどころか倒れもしない。僅かに体が揺れただけ。

 当然と言えば当然か。別に腕力自慢ではなく、そもそも正義の方が体格もいい。

 おまけに喧嘩慣れしていないものだから、むしろ痛んだのはこちらの手。

 もっとも、それで十分だ。少なくとも殴ったおかげで少しは落ち着いたように見える。

 多少の驚いてはいるものの、これなら話を聞いてもらえるだろう。


「や、弥太?」

「ちっとは落ち着いたか?」

「なにを。今はそんな場合では」

「そんな場合さ。いいから聞けよ、マサ坊」


 幽霊兵士は動かない。

 先程までは再生に然程の時間も要さなかった。けれど、今は遅々として進まない。

 つまりそういうこと。

 こいつをいくら倒しても意味がない。

 本当に倒さないといけないのは、幽霊兵士ではなく正義の方だ。


「俺ぁよ。故郷の農村で散々搾取されてきた。母ちゃんも死んで、今際の際に粥の一杯も作ってやれない自分が嫌で、今度は搾取する側に回ってやろうって思った」


 もちろん全ての後悔を取り除いてやれるなどと自惚れてはいない。

 ただ、ちゃんと向き合おうと昔話なんぞをしてみたが、結果として追い詰める形になってしまった。

 であれば、その重しの分は取り除いてやらねばなるまい。


「けどよ、周りを見回してみな。日本国民の皆様方は毎日毎夜マジメに働いてござるぜ」


 声音は柔らかく、まるで子供を嗜めるように、弥太郎はゆっくりと話しかける。


「戦争で辛かったのはみんな一緒、だがほとんどの奴らはまっとうな仕事で復興に従事しようとした。にも関わず俺は、自分が楽したくて女衒仕事を選んだ。だったら境遇なんか関係ねえ。そもそも俺が、悪辣に痛める良心を持ち合わせていないクズってだけの話さ」


 そういう男でなければ、花を売り飛ばしたりはしなかった。

 弥太郎は元々がクズで、ちょっとした切っ掛けでそいつが露見しただけ。境遇がどうあれ、テメエのクズさは誰のせいでもない。


「お前さんは、戦地にもいかず無駄メシ食らって生き残ったのが辛いと言う。知らない間に搾取する側に立っていたと、奪われた奴らに責任感じるのも……まあ、分からんでもないさ。そこら辺は、俺が何言ったところで、納得できるもんじゃないわな」


 お前は悪くない、悔やまないでもいいのだと、口にするのは簡単だ。

 けれどそれでは届かない。 

 正しい生き方を望んでいたのにそう在れなかった。

 その苦悩が如何ほどか。分からんでもないと言ってはみても、きっと本当の意味では理解し切れていない。

 理解し切れていないから、弥太郎は無遠慮なまでに自分の意見を押し付ける。


「なるほど、確かに搾取する側で、そのせいで誰かが苦しんだんだろう。多くを踏み躙ったのも真実かもしれねえ。だが、勘違いはしちゃいけねえよ。奪われたから奪おうなんて考えるヤツぁ、どう生きようがどっかで蹴躓く。そんで立ち上がれずグダグダしてんのまで抱え込むこたねえ」


 正義を苦しめる正しさは、彼の中では真実。

 それを否定はしない。かつて十五歳だった少年は、きっと多くを踏み躙ってきた。

 だとしても、弥太郎が女衒に堕ちたのは彼自身の弱さだ。ならば己が在り方を悔やもうと、余計なものにまで責任を感じる必要はない。

 

「どんなにお前がダメな奴でも。俺の弱さまでは、お前のせいじゃねぇさ」


 ぽんぽん、とまるで子供にするような優しさで何度か頭を撫でる。

 いい歳こいてそんな扱いをされるとは思っていなかったのだろう。正義は戸惑い、どうすればいいのか分からないといった顔だ。

 

「ったく、謝られても困るっての。そりゃあお天道様に顔向けできねえ仕事してるが、俺ぁ別に自分を卑下してはいねえよ。この街の風情だって結構気に入ってんだ」

「え、あ……」

「マサ坊はどうだ。正しくないから見えた景色は、そんなに価値がなかったか?」


 その一言に色々なものが溢れる。

 出征せずに迎えた戦後。

 焦土となった街並みを見て、戦えなかった自身を嫌悪した。

 正しい生き方が出来なかった。

 知らず他人を踏み躙ってきたくせして普通に暮らしていくなど、どうしても認められなくて。 

 流れ着いた池袋で、定職にも就かず、ただ無為に日々を過ごす。

 そうやって朽ちていくのが似合いだと思った。


『俺ぁ、蓼虫の弥太っていう、くそったれた女衒だ。もし機会があったら、こっちの仕事も手伝ってほしいんだが』


 なのに、お節介なヤツもいて。

 女衒として戦後を生きる男は、わざわざ仕事を回して、腹を減らしていれば食事も奢ってくれた。

 非合法の花街で生きるのだ。女衒となった彼にもなにか事情があるのだろう。

 そう思えば踏み込んだことは聞けず。しかしどうしてか相手はよく気遣ってくれて、お返しにとこちらもよく手伝った。

 

 誰かに許してほしくて、色々なものに背を向け。

 選んだ非合法の花街での暮らしは、想像するよりも穏やかに流れて。


 ああ、そうだ。

 正しい生き方は出来なかった。

 憧れた“兄さん”みたくはなれなかったけれど。

 それでも掃き溜めのような街で、なんとか生きてこられた。

 下品で、ごちゃごちゃした、活気だけはある。

 マサ坊だとか子供扱いしてくる男に振り回される。

 そういう日々が、本当は、嫌ではなかった。


「そんな、ことは、ない。正しい生き方とは程遠くても。誰に分かってもらえなくても、俺は」


 だから余計に苦しかった。

 掲げた正しさを貫き通せず、知らず多くを踏み躙った男が、どうして安穏としていられるのか。

 今を認めれば認めるほど、ふとした瞬間に後悔ウジムシはわいて。

 幽霊兵士が姿を現したのは、きっとそういうこと。

“兄さん”は、惰弱な己を裁きに来たのだろう。


「俺には……ここでの暮らしが、悪くないと思えたんだ」


 だけど、悪くないと。

 正しくないからこそ見えた景色を美しいと、そうと口にした瞬間、胸の奥のなにかが瓦解する。

 同時に、幽霊兵士もまた、人の形を保てなくなっていく。

 慰めの言葉程度で全てを帳消しには出来ず、今もこれからも、きっと後悔は尽きない。


「でも、そう思うことを。“兄さん”は、許してくれるだろうか」

「さぁ? 俺ぁそいつ知らねーし。まぁマサ坊が兄ちゃんって慕うなら、たぶん底抜けの善人だろ。ごめんなさいで許してくれるんじゃねぇか?」


 しかし適当過ぎる返答に、重しが一つ減る感覚を知る。

 それで終わり。

 花街を騒がせた幽霊は完全に崩れ、床に広がる大量の蛆。

 突如として消え失せた怪異に驚き、弥太郎も正義も何も言わずただ見詰めるばかり。

 その中で、りるは淑やかに歩き、かがんで蛆の一匹を拾い上げる。


「甘く、優しい。歳月に、ねじ曲がった、想いの欠片」


 ぷちゅり。

 りるは蛆の口に放り込んで、ゆっくりと咀嚼する。

 噛み砕けば漏れる汁の甘さに、ふうわりと微笑みが浮かんだ。


「ようやく、兄離れが、できました、ね」


 だから、幽霊兵士は消えた。

 締め括る文句としてはそれで十分すぎる。

 少女の的確過ぎる指摘に思わず弥太郎は吹き出し、正義は目をまん丸くして、遅れて小さく笑った。

 ホコリ被った空き家、床には見えない蛆が散らばり。

 けれど三人は和やかに笑い合い。



 ここに、十年の間ずっと続いていた、正義の戦争は終わったのだ。




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