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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ


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【ウジムシの挽歌】・4




 大日本帝国憲法 第二十条

『日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス』


【徴兵制度】

 兵役法を根拠とする。

 17歳から40歳の男子に兵役の義務を定め、満20歳に達した者は徴兵検査を受検しなければならない(志願兵は17歳より可)。




 ◆




「ったく。ほんと、融通利かねえヤツだな、おい」


 ナカゴ屋を離れた後、正義が住む花座近くのボロアパートに足を運んだ。


“最近、幽霊兵士の噂のせいで警察が動いている”

“鉄パイプ持って深夜徘徊なんざ、しょっぴかれるぞ”

“事態が落ち着くまで様子を見てはどうか”


 まあ、ありきたりな説得だ。

 残念ながら正義は『済まない。だが、俺は……』と言葉を濁し、本心も聞けぬままに、ほとんど無理矢理追い返されてしまった。

 よっぽどか、幽霊兵士に因縁があるらしい。

 それにしたって、もう少しくらいこちらの都合を考えてくれても罰は当たるまいに。弥太郎はまたも花座横丁をうろつきながら、不満そうにぶちぶち文句を垂れ流していた。


「てか、また付き合ってもらってるが、いいのか?」

「は、い。私も、気になり、ますので」

「そう言ってくれりゃ俺としちゃ助かるけどよ」


 再びの夜は、呼吸し辛いくらいの熱気で満ちていて、けれどどことなく空寒い。

 それでなくとも連日は疲れるだろうに、傍らには昨日から引き続き、りるの姿もあった。

 正直、幽霊の件に関しては彼女の目に期待しているところがあるので、世辞でもなんでもなく付いてきてくれるのは有難い。

 ただ容姿が容姿だけに、夜更かしさせるのは申し訳ないような。そう思いつつも何も言わないのは、彼女の心遣いへの感謝であり、なによりそこそこ切羽詰まっているからだろう。


「では。まずは、幽霊、探しを?」

「まあな。運がよけりゃ途中でマサ坊にも会えるだろ」


 正義とは、できれば昼のうちに話をつけておきたかったが、そうそう上手くはいかず。

 ならば幽霊兵士を追えば何処かでぶちあたるかもと、まったくもって行き当たりばったりの考えである。

 とはいえ、丸きりの的外れでもないと思う。

 普段ならもう少しじっくりコトを進めるが、今は時間が限られている。

 不良警官がしゃしゃり出てこないうちに。有り体に言えば正義が余計な厄介を背負わぬよう、速やかに事件を終息させたい。


「……多分、あいつは、憑りつかれてんだろうし」


 舌の上で転がした言葉は、小さすぎてりるにはきっと聞こえなかった。

 零れた微かな響きに気温はいくらか下がり、けれどすぐさま、べったりとした生温い風が塗りつぶしていく。

 夏の夜に内心を隠したまま、弥太郎は横丁をぶらつく。傍目にはそぞろ歩きとしか見えないがそれでいい。意気込んで探すよりも、花街をそっと泳ぐ方があやかしとすれ違うには似合いと思えた。


「幽霊に、出会えた、として。それで、解決、できるもの、でしょう、か?」


 夜をふらふらと、しばらく経ち、思い出したようにりるが言う。

 相変わらず感情の色が薄い表情で、的確に痛いところを突いてくる。

 

「ははっ、俺も分かんねえ。流石に幽霊退治なんざ経験してないしな。どっかにあやかしを一瞬で倒すような御仁がいてくれりゃ有難いんだが、そうも都合のいい話は転がっちゃいねえよ」


 生憎と弥太郎は、ごくごく普通の人身売買業者。

 怪異を打倒する力なんぞ持ち合わせておらず、悩みを一発で解決してやれるような器量もない。

 幽霊兵士の噂と、正義の不審な行動。そのどちらもの解決を語ったはいいが、そもそも彼には具体的な方策が見えていなかった。


「だが、これでもマサ坊のこた友人だと思ってる。なら最低限の義理は果たさんと」

「義理。です、か?」

「おう。幽霊を祓うなんてできねえし、悩みも解消してやれねえ。だが“落としどころ”を探す手伝いくらいはしてやらにゃ、って話さね」


 しかし友人と呼んだ以上は、友人としての義理ってもんがある筈だ。

 そこを違えるような見っとも無い真似はしたくない。くだらない感傷と言われればそれまでだが、義理人情を解さぬくだらない人間になるよりは余程マシだろう。


「よく、分かり、ません」

「別に難しいことは言ってねえけどな。幽霊自体をどうこうするんじゃなく、それに拘るマサ坊をどうにか諦めさせようってだけだ。そうすりゃ幽霊兵士なんざ、花街にまた一つ不思議が増えました……で済むだろ?」


 こちらの目的は、あくまで“正義を警察沙汰から遠ざける”の一点。

 本当は幽霊など一応の報告さえできれば適当で構わない。

 だが一番の目的を為すには、まず幽霊が如何なるものであるかを知り、正義との因縁を踏まえねばならない。

 だから弥太郎にとって、幽霊兵士の調査と正義の件は等号で結ばれる。

 夜の街を徘徊し、どちらと先に遭遇するとして、大した違いはないのだ。


「いえ、そうでは、なく。あなたが、そこまで。背負い込む、必要は、ありますか?」


 けれど分からないのは別のこと。

 怪異に首を突っ込むには、友人が理由では足らないと。

 見捨てたところで誰に責められる訳でもないだろうに、何故そこまでするのか。それが心底分からないのだと、りるは呟きにほんの僅かな寂しさを滲ませる。


「いんや、必要はねえな。そんでも、社会の決め事からあぶれた奴が、てめえの決め事から食み出ちゃいけねえよ」


 対する弥太郎の反応は実にあっけらかんとしていた。

 実際、基本的には事なかれ主義の男。余計な荷物は背負いたくないが本音だ。

 それでも世間様の道徳には反しても、自分の道理に背くのは見っとも無いと思う。

 話としては実に単純なのだが、今一つりるには理解してもらえていない様子だ。


「花街の住人としちゃ、道徳よりも義理の方を重んじたいね」

「やっぱり、分からない、です」

「人の中で生きてりゃ、義理と人情の重さもいつかは分かるさ。醜態晒しまくってる身だから、あんま偉そうには言えねえけどな。……っ、と。まあ、そういうのは置いとこうぜ」


 まあ仕方ないかと適当なところで話を打ち切り、二度三度りるの頭を乱雑に撫で、弥太郎は改めて花座横丁を見回す。

 花を売り飛ばした男だ、あまり偉そうに説教できる身分でもない。

 それを意識すれば自然と言葉はなくなる。

 りるも語らず、二人黙すれば夜の暗さは微かに重さを増したような気がした。




 ◆




 昼間、自宅のボロアパートに弥太が訪ねてきた。

 歳は離れているが友人と呼んでも差し支えはないだろう。

 まだ十代だった頃から色々と世話を焼いてくれる。女衒でありながら面倒見のいい、ありがたくも変わった男だ。


『よう、マサ坊。幽霊兵士って知ってるか?』


 面倒見がいいから、わざわざ訪ねてきたのだろう。

 幽霊兵士の噂、警察の動き。厄介ごとに巻き込まれないよう忠告をしてくれた。

 正体を追っているのは自分も同じだから、協力しないかとも。 

 それに感謝しつつも、頷けはせず。殆ど無理矢理追い出した。


 だってそうだろう。

 もしも本当に、幽霊兵士の正体が“兄さん”だったなら。

 どうして弥太を……他の人を頼るなど、そんな恥知らずな真似ができるのか。 


 だから日付が変わり夜の深くなる頃合、再び花座横丁へ足を踏み入れた。

 この件は一人で終わらせなければならない。

 そうしなければ、俺は。




 ◆




 寝静まる、には程遠い。うっすらとした喧噪を遠く聞きながら、夜の深まる花街を歩く。

 ネオンの灯りを避けるように路地へ踏み入り、薄暗さが増せば、怪異が跋扈するに相応しい風情も漂う。

 元がごちゃごちゃした一帯だからか、路地裏を進むのは、なんとなく山を踏み分ける感覚に似ている。


 物音が響く。


 不意の気配に驚かされるのも、山道で出会う獣を思わせた。

 早々に当たりが引けたか。

 正義も相変わらず深夜徘徊中。鉄パイプ片手にあまり注意も払わないせいで、昨夜も物音を立てていた。

 もう少し気を付けろと言いたくなるが、今はありがたい。

 ちゃんと聞いてくれるかは分からないが、昼の続きでもしようかと無造作に路地を進む。 

 状況が昨日と同じだった。そのせいでいくらか安堵していた。

 角を曲がれば、やはり昨日と同じ顔があるのだと疑わなかった。


「っ……!?」


 だから、そもそもは“そいつ”を探していた筈なのに、頭のてっぺんから爪先までが一気に強張った。

 見知った相手がいる、そんなお気楽な予想はいとも容易く覆される。

 背筋を走る冷たさに、季節さえも忘れてしまう。


 ぐじゅる、と耳障りな音を聞く。


 ゆらり揺れる影。

 顔は包帯で隠れ、軍服を纏い、手には軍刀が。

 曰く、“近頃、夜の花座には軍服を纏った幽霊が現われる”。

 噂に語られるそのままの、幽霊兵士の姿があった。


「あ……」


 一歩退き曲がり角に隠れ、何か言おうとしたりるの口を塞ぐ。

 そのまま細っこい体を引き寄せ、音を立てないよう静かに慎重に覗き込む。

 流れた汗、やけに喉が乾く。夏の夜のせい、或いは他に理由があった?。

 それでも恐怖よりも緊張が勝るのは、幽霊兵士の噂を知っていたから。

 いけ好かない不良警官は言っていた。

 今迄、幽霊兵士は誰も殺していない。それどころか、怪我一つ負わせた例さえもない。

 遭遇した者達は皆『チガウ』と言われ、襲われなかった。だいたい走るのが遅く、追われても簡単に逃げられるらしい。

 であれば恐れる必要はない。せっかく会えたのだから様子を観察し、

 

 ぐじゅ。 


 ようと顔を出したところで、幽霊兵士はこちらを向いた。

 視線が交錯した、のだろうか。目には光が宿っておらず、本当にこちらを見ているのかも分からない。

 ただ、こちらを認識したのだけは間違いなく。

 ヤツは湿った不快な音を立てながら、ただ一言発する。




『見ツケタ』




 弥太郎の動きは早かった。

 緊張は裏返って恐怖となり、それを蹴り飛ばす勢いで回れ右。まだ状況がよく理解できていないりるを横抱きに、一目散に逃げ出す。

 なんでだ、『チガウ』と言われ襲われない筈。なのに、なんで。

 混乱しながらも足は止まらない。とにかく、今は逃げなくては。


「おいこら噂ぜんぶ嘘じゃねえかっ!?」


 ぐじゅる、ぐじゅる。

 背後から迫る気配が。

 追ってきても遅い、という話はどこへ行ったのか。りるを抱えているとはいえ、不愉快な音は次第に近づいてくる。


「ちくしょう、なんで俺だけ!? こちとら誰それに恨まれる覚えなんざ……いっぱいあるけども!」

「こういう、だっこ。初めて、です」

「緊張感ねぇなぁ!?」


 焦る弥太郎とは裏腹に、相変わらず表情の変化には乏しいものの、りるは呑気に横抱きを喜んでいた。

 この状況でなんなのその余裕? 少しばかり問い詰めたかったが生憎とそんな余裕もない。噛み合わない会話を置き去りにひたすら走る。

 叫び声をあげたのに、周囲の反応が全くない。

 いくら夜とはいえ、何事かと一人二人様子を見に来たっていいだろうに。いや、そうならないことも含めて怪異なのか。

 分からない。ただ、湿った音はすぐそこまで。


「く、そ……っ!」


 逃げ、切れない。

 安全な調査の筈が、何故こうなった。やっぱ怪異に不用意なちょっかいをかけるべきじゃなかった。

 なんて考えても後悔は先に立たないもので。

 生温い風に乗って届いた腐臭。ああ、ちくしょう。もう、逃げても。

 足を止めないまま、弥太郎は不意に後ろを振り返った、そして見た。 

 夏の夜。星の天幕。高々と掲げられた刃は月よりも青白く冴えわたり、振り下される瞬間を今か今かと待ちわびている。

 つまり彼の命運はここに尽き、


「おぉっ!」


 軍刀が無慈悲にこの身を裂くと、そう覚悟するより早く、幽霊兵士の頭がぐちゃりと潰れた。


「へっ、は?」

「弥太、こっちに!」


 致死の一撃は届かなかった。

 突如として現れた正義が鉄パイプで幽霊兵士を殴り付けたのだ。

 いきなりすぎて弥太郎は混乱したまま。いったい、なにが。疑問符を浮かべるばかりで動けずにいた。

 それに焦れたのか、正義は腕を掴み無理矢理に引っ張っていこうとする。

 体勢を崩し、たたらを踏み、転びそうになってようやく意識が戻った。


「お、おい、マサ坊。お前……」

「いいから早くっ!」


 けれど正義の気迫に圧され、引き摺られるように走り出す。

 確かに問答をしている暇はなく、とにかく早く逃げなければならない。

 鉄パイプで頭部を叩き潰された筈の幽霊兵士は、倒れるどころか一歩一歩と動き始めていた。

 こいつぁ、マジもんの怪異だ。

 ぞわりと粟立つ肌を無視して、りるを抱えたまま、前を進む背中についていく。

 路地を抜け、花座の大通りの方へ。ようやっ帰れるかと思いきや、正義は急に足を止めた。

 どうした、なんて問う必要もない。

 視界の先には、軍服を纏い、軍刀を携えた兵士の姿が。


「おいおい、逃がさねえってか?」

「弥太」

「おう」


 言葉少なく、幽霊兵士に気付かれないよう再びその場を離れる。

 正義に動揺はない。となると、似たような経験を既にしているのか。

 実際彼は迷いも躊躇いもなく、再び路地を戻りしばらくすると、一軒のボロ屋へと辿り着く。

 どうやらここが目的の場所らしい。

 引き戸を開けて踏み入れば、随分長い間掃除していない為、途端埃っぽい匂いが鼻にくる。鍵も壊れており、代わりにつっかえ棒で玄関を開かないよう固定。とりあえずは、これで一安心といったところだ。


「ここは?」

「以前見つけた空き家だ。幽霊兵士を追っていると、時折花座から出られなくなった。そういう時、夜を明かすのに使わせてもらっている」

「そらぁまた、怪異らしいこって」


 化け物に負われて逃げられない、外にも出られない、というのはいかにもな話だ。

 だが正義の口ぶりなら以前もここで幽霊兵士をやりすごしている。ならば、ようやく腰を落ち着けられるというもの。

 人一人を抱えたまま走り詰めというのはかなり疲れた。りるを丁寧に降ろし、弥太郎はうっすら埃を被った床にどかりと座り込む。


「あー、しんど。よう、お前さんは大丈夫か?」

「は、い」

「そいつぁなによりだ。てか、悪かったな。今回の件は俺の見通しが甘かった」


 そして小さく頭を下げる。

 今回の件、りるは完全に巻き込まれた形で、流石に申し訳なくなってしまう。

 噂で語られる幽霊兵士は、然程危なくない怪異だという。少なくとも弥太郎が聞いたところではそうなっていた。

 それがふたを開けてみればどうだ。こちらを斬り殺そうと追ってきやがる。

 夜の探索の前段階で情報を多く集めていればこの事態は避けられたかもしれない。いくら時間がないとはいえ、もっと慎重に動くべきだった。りるを連れているのだから尚更に。


「いえ、弥太郎さんが、いれば。安全だと、思って、いました、から」

「ははっ。嬉しい言い方してくれるじゃねえか」


 けれど相変わらず、女衒に対して無条件の信頼を傾けてくれる。

 この娘のこういうところは気恥ずかしく、どうも慣れない。ただ今はいい具合に緊張がほぐれて、正直有り難かった。


「マサ坊も、助かったよ」

「いや、迷惑をかけた」

「なに言ってんだ。迷惑かけたのはこっちだろうに」


 なにより、多少想定とは違う状況だが、こうやって正義と話す機会を得られた。

 僥倖、というヤツだ。幽霊兵士の正体とか、どうして一人で背負おうとするのかとか。聞きたいことが沢山あった。


「まあ、なんつーか。幽霊兵士の正体、知ってるのか?」

「いや。どうして、だ?」

「気になるさ。だってよ、あの野郎言ってたぜ。俺に対して、『見ツケタ』ってよ。女衒やってりゃ恨まれる記憶なんざ山ほどだけどよ、なんで恨まれてるかくらいは知りてえじゃねえか」

「に……幽霊兵士が、お前を?」


 その驚きは、決して取り繕ったものではなかった。

 弥太郎が狙われたのは、正義をして予想外だったのだろう。それが逆に、正体を把握していることの証左となる。

 本当に、嘘の吐けない青年だ。

 普段通りの生真面目さが面白くて、思わず小さく笑ってしまった。


「なんだ、いきなり笑って」

「いやいや、マサ坊がマサ坊で安心したんだよ。しかしまあ、幽霊に狙われるってのは、なかなかない経験だよ。あんましたくはなかったけどなぁ」


 問うても、気楽な調子で笑っても、明確な答えは返ってこない。

 隣に座る正義はただ黙って俯いている。代わりと言ってはなんだが、反応を見せたのりるの方だった。


「女衒、というのは。そんなに、恨まれる、のですか?」

「そらぁ、なぁ。大事な娘さん攫ってくんだ、親からしちゃ死んじまえよテメエってなもんさ。りるの親父さんも、今頃は墓の下で呪い殺そうってな勢いじゃねえか?」

「それは、困り、ます。ちゃんと、言い聞かせて、おきます、ね」

「ははっ、助かるよ」


 ほとんど人と関わりを持っていなかった娘が、冗談まで言えるようになった。

 少しずつ彼女は成長している。どうにかコオイムシ代理の役目は果たせているようで、なんとなく嬉しくもなる。


「だがまぁ、さっきも言ったが、女衒ってのは恨まれて当然みたいなとこはあるからな。幽霊に殺されても仕方ないのかもなぁ」


 ボロ家の埃臭い部屋で、和やかに話す二人。

 今の言葉も、多少の本音は混じったが、あくまでも茶化した物言い。話の流れでぽろりと零れた悪趣味な冗談の域を出ない。

 しかし何が琴線に触れて、そこで正義はようやく口を開いた。


「なら、なんで、女衒になったんだ?」


 問いというにはあまりに感情が乗らな過ぎて、まるで単なる独白のようだ。

 それでも目はまっすぐこちらへ向けられている。

 恨まれると分かっていながら何故女衒に?

 考えてみれば付き合いはそれなり長いのに、こうやって正義が過去を聞こうとするのは初めてだ。

 たぶん、そのくらいに彼は追い詰められているのだ。


「俺ぁ、元々は田舎の農村の生まれでよ。うちの村からは、あんま徴兵はされなかったんだ。メシの作り手がいなくちゃあ困るっのがあったのかもな」


 だから弥太郎は嘘も誤魔化しもなく、本当だけを語ろうと思った。


「だが助かったとは思えなかった。なんせ働いても働いても、お国の為だなんだと作物は根こそぎ持って行かれちまう。食べ物作ってんのに腹空かせて、そりゃあ辛かったさ」


 もともと弥太郎は玉ノ井のストリップ劇場で裏方をしていたが、それ以前は故郷の農村で畑仕事の毎日を送っていた。

 伊之狭村のような特色のない、本当に農作業しかない村。

 父親が早くに亡くなったこともあり、母と二人働き詰めの暮らし。しかも戦時中だ、兵隊さんの為にと育てた作物は次から次へと持って行かれる。

 強奪としか呼べぬ役人の所業は、戦況が悪化するに従ってどんどんひどくなっていった。


「そんなに持ってかれちゃこっちの生活がままならねぇ。そう言ったら役人は俺を殴り付けてよ。“内地でぬくぬくしている癖に、飯まで食らおうとはいい御身分だ”ってな」


 そんな生活が嫌だった。

 毎日毎日働いて、その成果を奪われて。

 誰からも感謝されず搾取されるだけ。若かりし頃の弥太郎には、それが悔しくてたまらなかった。


「はは、なんだそれ。お前らが食うモン作る為に残らされてんのに、臆病者扱いだぜ? あんまりにも情けなくって、一晩中泣いたよ」


 国民はすべからく国家の為に奉仕し、苦難を越え、戦勝を掴み取らねばならぬ。

 進め一億火の玉だ。

 くそったれが。よくぞ、そんな戯言を吐けたものだ。


「進め一億火の玉? ふざけんな、俺たちゃぁ、火を燃やす為にくべられた薪に過ぎなかった。それで暖を取ってる奴らは、燃える火に感謝をしても、下で灰になる薪にゃ目もくれねぇ」

「だから、女衒に?」

「ああ、そうさ。間違ってるなんて言ってくれんなよ?

“どんな理由があっても悪いことは悪いことだ”“不幸は非道の言い訳にならない”。

 成程、正論だ。だがよ、それを言う奴らは俺らが作ったもんを奪って腹満たしてんだ。腹いっぱい飯食って、訳知り顔で見下して……それが道理ってもんなら、俺は正しくなんてなりたくねえ」


 そうだ、だから女衒になった。

 散々搾取されてきたから、搾取する側に回ってでもまともな暮らしがしたかった。

 その選択を間違いとは思わない。

 だってそうだろう。お国の為に働いてきた結果が敗戦なら、真面目にやってきた今迄こそが間違っていた証拠ではないか。


「俺は、もう嫌だ。芋の蔓も、名前も分からん草も食いたくねえ。すきっ腹を濁った水で誤魔化す真似なんざしたくねえ。……母親の今際に、粥の一杯も作ってやれねぇ暮らしはごめんなんだ」


 そういう生活の果てに、母は過労で死んだ。

 最後に粥すら食べさせてやれなかった自分を弥太郎は嫌悪し、貧しい故郷を恨み、しばらくして彼は村を出た。

 その後は玉ノ井の娼館街に流れ、性風俗業について学び、戦後は女衒に身を墜とすこととなる。


 悪辣な人身売買業者でありながら買い付けた女を決して飢えさせない。

 食い意地が張っていて、金にも汚い、ゲスな男。

“蓼虫の弥太”を形作った、くだらない過去の一つである。


「悪い、ちっと熱が入り過ぎちまったか」


 脳裏に過った昔のせいで少し興奮したのか、つい長々と語ってしまったようだ。

 照れくささから頬を掻きつつ深呼吸をすれば、それなりに気持ちも落ち着いた。

 そうなると周りが見えてきて、弥太郎は固まった。

 本当に、比喩ではなく、興奮して周りが見えていなかったらしい。

 

「申し訳、ありませんでした……っ!」


 気付けば正義は土下座して、床に額をこすりつけていた。


「お、おい、なにやってんだよ、マサ坊」

「すみません。すみ、ません……!」

「だから、別にお前さんが悪いわけじゃ」


 いきなり謝罪されても、意味が分からず困惑してしまう。

 けれど正義はひたすらに謝り続ける。おそらくたったいま語った過去のせいなのだろうが、いったいなにが彼をそうさせるのか弥太郎にはまるで理解できなかった。


「ですが、俺は、なにも、できず。戦わねば、ならなかったのに」

「戦わねばって、そもそもお前俺より年下だろうが。戦時中、徴兵さえされてねえんじゃ」


 正義の年齢からすると、終戦当時は十五歳前後。

 とすれば徴兵検査にも引っ掛からず、戦地には行かず暮らせていた筈だ。

 なのに戦うと言われても。

 とそこまで考えて、もしかしたらと思い当たる可能性を弥太郎は口にする。


「お前、志願兵か?」


 太平洋戦争末期、悪化する戦況に従って志願兵の年齢は引き下げられた。

 確か終戦間際なら、十五歳でも志願兵になれたような。

 その指摘は正しかったらしい。

 正義は泣きながら、肩を震わせつつも小さく頷いて。



 ぐじゅる、と不愉快な湿った音を聞いた。





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