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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ
21/37

【ウジムシの挽歌】・1



【ウジムシ】

 蛆虫うじむし、あるいは単にうじ

 一般にはハエの幼虫をいい、腐った肉や糞便などに大量発生する。 

 生きた人間の傷口にもわくが、その手の蛆は腐肉しか食べないので、壊死した組織を除去し清潔にしてくれるという利点がある。

 他にもウジは魚釣りのエサなどに利用でき、珍味として食用されたりもする。


 ウジが“わく”と表現されるように、かつては腐敗物から自然にわき出てくるのだと信じられていた。

 また、ウジムシには『価値が低いもの』という意味があり、罵倒の文句としても使われる。




 ◆




 東京は池袋、花座横丁の夜は長い。

 非合法の青線地帯。朝方まで空いている店屋が多く、道端では娼婦が客を誘い、間抜け面した男達がネオンに群がりそわそわと。

 ただ、そういう街にも物静かな瞬間がある。

 夜と朝の間に鎮座する薄暗闇。丑三つ時を通り過ぎて藍色が深くなる頃合には、抜け落ちたように人の姿が少なくなり、喧噪も遠く感じられる。


「はは、少ぉしばかり飲み過ぎたぁかなぁ」


 ちょうどそういう時間帯に出歩いていたのは、慣れない娼婦遊びをして帰りに一杯ひっかけてきた、ごくごく普通の男性だった。

 日々忙しく働いているのだから、偶には羽目を外しても罰は当たるまい。

 その程度の気楽さで女を買った。

 残念なことに懐具合から一晩中とはいかなかったが、数時間とはいえ気兼ねなく楽しみ酒もしっかり味わって、中々いい息抜きになった。

 後は妻にばれないよう緩んだ顔を引き締めれば完璧だ。

 などと考えつつ千鳥足で帰路を辿り、しかし視界には行く手を遮るように人影が。


「んん……?」


 酒の入ったぼんやりとした頭が僅かながらに冷めて覚める。

 男は目をこすって改めて前方を凝視した。

 最初は酔ったせいで見間違えたかと思ったが、“そいつ”は奇妙なくらい体を小刻みに震わせ、なにやら頼りない立ち姿でこちらの行く手を阻んでいる。


 うじゅる……。

 僅かな身じろぎと共に漏れたのは声?

 水音と何かがこすれ合うような不可解な音が。


 異様だった。

 なんとなく背筋の痒くなる音だけでなく、そいつの出で立ちがそもそもおかしい。

 戦後十年も経つというのに、軍服を纏い、顔を包帯で隠し、手には軍刀を携える。

 田舎と違い東京の復興は進み、今ではこんな軍人くずれは珍しくなった。

 虚ろな、戦争の匂いを未だ漂わせる輩などは特に。


 ぶちゃり。

 踏み込むと共に、なにかが潰れたような響き。軍人は、ひどく不安定な歩みで近付いてくる。


 それを男は見ていた。

 見ていた、だけだった。

 足が動かない理由は恐怖よりも現実感のなさ。

 こんなもの、酔ったせいで見ている幻覚だ。そう信じ込みたかった。

 けれど迫る怖気は誤魔化せない。逃げたくて、出来なくて、膝から力が抜けて無様に尻もちをつく。

 鼻を突く腐臭。気付けば、怪しげな軍人は吐息がかかるほどの距離にあった。


「あ、あ、あ……」


 そこまで来てようやく自覚する。

 殺される。

 命の危険などつい十年前までは毎日感じていた筈なのに、生温い平和に浸り切った心が、目の前の死に怯えている。

 叫び声も上げられない。

 そうして、そいつは。

 軍刀の柄に手をかけ。







 夏も終わりに近付き、夜風に秋の幽愁が混じる頃。

 池袋には一つの噂が流れていた。

 曰く、夜の花座には───






 花に惑いて虫を食い【ウジムシの挽歌】






「ところでよ。なんで俺は蓼虫のと顔を引っ付き合わせてアイスなんぞ食ってんだ?」

「そりゃあ岩本の旦那が声をかけてきたからでしょうに」


 秋の端っこが見え始め、ようやく気温も落ち着いてきたとはいえ、まだまだ日中は暑い。

 だからって、「喫茶店でアイスでも食べながら体を冷やそう」なんて考えたのが間違いだった。

 入り口ではたと嫌なヤツと鉢合わせ。中は結構な込み具合で、自然と相席になってしまった。

 タチの悪い輩だが、この岩本という男は警官。

 話しかけられれば無視は出来ず、結局流れのままに、おっさん二人が喫茶店で甘いものを食べつつお喋りという。

 これもう下手な怪談よりもよっぽど怪奇なんじゃねえかな。

 ぎこちない表情の弥太郎は、冷たい甘さを味わいつつ、そんなことを考えていた。


「ま、いいが。で、件の不審者の話だが」

「あぁ、“幽霊兵士”、ですかい?」


 ただ幸いなのかそうでないのか、話題は向こうが持ち込んできたから、気まずい沈黙は味合わずに済んだ。

 夏も終わりが近付き、穏やかな風が肌を撫ぜるようになった。

 怪談話をするにはちょいと時季外れだが、池袋は花座横丁界隈では、一つの噂がまことしやかに囁かれていた。

 なんでも『近頃、夜の花座には軍服を纏った幽霊が現われる』のだという。

“幽霊兵士”とは大日本帝国の栄光のため戦地に赴き、しかし無残に戦死した青年の怨霊。

 戦後十年経ち、敗戦の屈辱も忘れ安穏と生きる国民に失望した幽霊兵士は、彼ら彼女らに憎しみを抱き軍刀で斬り殺すという話だ。


「なんだ、蓼虫の。お前も知ってんのか」

「そりゃ、俺も花座に出入りする業者ですから。むしろ岩本の旦那からそんな話が出てくる方が不思議といいますか」


 そんな噂話を振ってきたのは岩本いわもとという警官である。

 もっとも枕に“不良”とつく為、お世辞にもマジメとは言い難い。

 なにせ昼間から青線地帯である池袋に入り浸っている上に、立場にかさ着て賄賂を強要するような輩だ。

 こうやって話してはいるが、弥太郎としては可能な限りお近づきになりたくない相手だった。


「仕事だよ。おかげで回りが騒がしくてかなわねぇ」

「仕事って、警察の方でなにかあったんで?」

「もう何件も、うざったくなるくれえ警察こっちに通報が入ってやがる。軍服姿の不審者に襲われたってな」

「はぁ。花街で幽霊に出会って通報するなんざ、野暮というかなんというか」


 怪奇譚なんぞ花街では珍しくもない。

 軍人の幽霊が現われたと聞いても、弥太郎にしたら「そんなこともあらぁな」程度の感想だ。

 驚きの具合で言えば警官っぽい真似をしている岩本の方が相当である。勿論、面倒はごめんなので余計なことは言わないが。


「てか、警官が動くような話になってるんですか? 被害者が出たり」

「いいや、今んとこは死者はなしだな。逃げようと走って転んで骨折った馬鹿はいるが。ただ不審者がいて、そいつが戦場帰りなら、上としちゃあんまほっとけもしねえんだと」


 せっかく復興が進み、敗戦の記憶も薄れてきた。

 だというのに戦地から帰ってきた軍人が事件を起こすというのは、警察としてもあまり嬉しくないといったところか。


「それに、よ。もしかしたら今後は人死にも出るかもなぁ?」


 そんな内実は昼間から娼婦を買うような不良警官には関係ないらしい。

 不謹慎にもニヤニヤと笑いながら岩本は鼻を鳴らす。


「襲われた奴らは全員言われたらしい。『チガウ』ってよ」


 今迄の目撃者が殺されなかったのが『チガウ』からだとすれば。

 求める誰かを見つけた時、幽霊兵士がとる行動は想像に難くない。

 逆に言えば心当たりのないこちらとしては安全だともいえるが、なんにせよ危ない御仁が徘徊しているのも事実。

 どうあれ、お上が動いてくれるのならそれに越したことはない。一介の庶民としては幽霊にしろ本物の不審者にしろ、早く解決していただけるのを待つばかりである。


「ってことだ、蓼虫の。調べとけ」

「は?」


 そう思っていたのに、岩本は無造作で投げやりに言い渡す。

 目を白黒させる弥太郎に対し、『巡りの悪い』とでも言いたげな、あからさまに面倒臭そうな顔だ。


「だから、お前も花座の業者だろうが。幽霊兵士の話を集めとけってんだ」

「いや、そら岩本の旦那の仕事じゃ」

「あぁ?」

「………………はい。不審者の話、同業の皆様に聞き込んでおきます」

「おう、ちゃんと文書にまとめとけよ。女衒ならそういうのは片手間だろ?」


 やらなかったらテメェの方から“しょっぴく”ぞ。

 うすら笑いと見下す目つきにその奥の言葉を察する。

 この野郎、最初から仕事押し付ける気で話し掛けやがったのか。

 賄賂の強要だけでなく、いい様に使われる。血管ブチ切れそうなくらい腹立たしいが、こちとら青線の女衒。違法を見逃してもらっている立場としては噛みつくこともできない。

 結局、弥太郎は岩本の提案を受け入れるしかなかった。







 すすめ一億火の玉だ。

 欲しがりません勝つまでは。

 足らぬ足らぬは工夫が足らぬ。

 お前は日本人か、その姿で。


 軍服姿の幽霊なんて話を聞いてしまったからか。少し昔、戦時中のことを思い出してしまった。

 あの頃は食うものもなく、人心は荒んで、色んな標語が飛び交っていた。

 こちとら喧嘩を吹っ掛けた側、間違っても被害者面はできないが、諦め悪く「まだ日本は勝てる」などとほざくお偉方の意地に巻き込まれた犠牲者ではある。

“御国の為に”と色々無理を強いられた。

 できりゃあもうあんな惨めな生活は嫌だなぁ、と弥太郎はかつてを振り返る。

 女衒という職に良心の呵責を覚えないのは、若かりし頃の反動だったのかもしれない。


「つーわけで紅葉。しばらく晩のお客はとらねえから、夜歩きは勘弁してくれ。勿論りるもな」


 微かな感傷が過るも無理矢理に追い出し、頭を切り替える。

 昔はともかく今や彼も一端の商人で、娼婦見習いを二人も預かる身。自宅の居間でくつろぐ紅葉達に、“幽霊兵士”について一応のこと注意を喚起しておかねばならない。


「軍服姿の不審者……お客からも聞いたけれど、なんというか、今更って感じが」

「まぁそろそろ夏も終わる。怪談話にゃ多少時季外れ、確かに今更だわな」

「え?」


 しかし交わす言葉は微妙にズレる。

 紅葉は『戦後十年も経って軍服姿の不審者なんて今更遅くはないか』と言い、弥太郎は『幽霊なのに夏の盛りを遅れて出てくるなんて今更だろう』とおどける。

 彼の物言いは幽霊を当然としていて、金に汚い現実主義の男だと思っていた分、余計に奇妙と感じられた。


「これ、危ないヤツがうろついてるから気を付けろ、って話じゃないのかい?」

「そうだぞ。不審者か幽霊かは分からんが、用心に越したこたぁない」

「……もしかして、幽霊信じてる?」


 いい歳の大人が、とまでは言わないが。

 若干遠慮がちに聞いてみれば、弥太郎は穏やかに目を細め、けれどどことなく楽しそうに語ってみせる。


「花街には時折、不思議な客が訪れるもんさ。成仏し切れなかった男が、夜の喧騒に誘われて紛れ込むことだってあるだろうよ」


 まるで街灯に群がる蛾のようだ。

 薄暗がりを淡く照らすピンクのネオンには、善きにつけ悪しきにつけ、わさわさと色んなものがたかってくる。

 ならばそこに幽霊だとか鬼とか、魍魎の類が混じっていたとて、たまさかと驚くようなことでもない。

 その全てを受け入れてこその花街。宵闇にあやかしとすれ違って戸惑うなど、綾がないというものだ。


「ま、その正体が何であれ、わざわざ危うきに近寄ってくれんなって話だな。お前さんらにはそこそこ金かけてんだ、死んだらそれも無駄になる」


 話のとりまとめは乱雑だったが、金どうこうも含めて、そちらの方が納得しやすかったらしく紅葉達は素直に頷く。

 刀を持った輩が夜な夜な歩き回っているから、外へ出る時は気を付けてね。

 そこだけ把握していてくれれば構わないので、弥太郎としても問題はない。


「さて、小難しいのはここで終わり。紅葉、しばらくは昼間の客だけだが、しっかり稼いでくれよ?」

「分かってるさ。今日のお客は……駅前の、いつもの安ホテルだったよね?」

「おう、時間忘れんなよ。俺も出かけるんで、りるは留守番……いや、ちょいと付き合ってもらえねえか?」

「私、ですか? 分かり、ました」


 りるは最初から従順だし、ここのところ紅葉も特に反抗はしてこない。

 後者の心変わりには、きっとテントウムシの一件が関わっている。そう思えば多少複雑ではあるが、人間関係が円滑なのはいいことだ。

 そういやそろそろ、りるのお初の客も考えなきゃいけねえなぁ。

 考えながらも「もう少し後でもいいかな?」なんて思ってしまうのは、なんだかんだ今の状況を気に入っているからだろう。

 夏も終わりが近付き、風が涼やかさを帯びる頃合。

 季節ほどに爽やかとは言えないが、三人の奇妙な暮らしは、それなりに心地良いものだった。




 ◆




 居酒屋『こまい』は花座横丁の最初期からある、夜に開いて朝閉める典型的な花街の店屋だ。

 もともとは店主が一人で回していたのだが、最近になって逃げた嫁さんが戻ってきたらしく、傍目には夫婦仲良く切り盛りしている。

 夕方頃はちょうど開店前の準備。紅葉を駅前のホテルに送った後、その頃合いを見計らって、弥太郎らはこまいを訪ねた。


「あら、あなた達は……」

「おや、奥さん。大将はいるかい?」

「中におりますが」

「おお、そうか。悪いがちょっと話があるんで、入らしてもらっても?」

「え、ええ、どうぞ」


 件の奥方、小舞こまいとは多少の縁があった。

 ただ決して良い縁ではなく、複雑な心境なのか彼女の対応はどうもぎこちない。

 まあ蜂女に愛想よくされてもそれはそれで困ると、対して気にせず暖簾をくぐる。


「よう、邪魔するぜ」

「ん、弥太か」

「……って、なんでマサ坊がいんだ?」


 店内ではいつも通り、小忙しく店主が夜の料理の下拵えをしているのだが、そこに珍しい顔も一つ。

 何故か正義まさよしが店でがちゃがちゃ荷物を運んでいた。


「おう、蓼虫に嬢ちゃん。まだ店は開いてねえぞ」

「ああ、ちょいと今日は用事があってな。てか、どうしたよ、これ」

「これ? ああ、正義か。今日は酒屋の方の手伝いらしく、うちにも持ってきてくれたんだよ」


 正義は無精髭を生やした無職の青年で、日雇い仕事をこなして、どうにかこうにか食いつないでいる。

 今回は酒の配達。話を聞けば『酒屋の店主がぎっくり腰で倒れたから代わりに』ということらしい。

 外はまだまだ暑いし、中身の入った酒瓶はかなり重く配達は重労働だ。その分実入りは良く、体力のある正義には割のいい仕事のようだ


「はぁ、精が出るねぇ」

「マジメさ加減ならお前だって似たようなもんだろ」

「いやいや、俺は精出す女を仕入れんのが仕事なもんで……でなく。マサ坊のこた置いといて、大将に聞きたいんだが」

「あん?」


 まあその辺りの事情も今はどうでもよく、本来の目的は店主の方。

 嫌なヤツから押し付けられた案件だが、ちゃんとこなさなければ何を言われるか。

 面倒臭く腹立たしく、しかし悲しいかな。叩けば埃の出る身では逆らうこともできず、結局こうして真面目に“お仕事”である。


「あーと、その前に、オレンジジュース一瓶」

「まだ開店前だから勝手にとりな。金は勿論もらうが」

「分かってるって。コップも借りんぜ」


 勝手知ったる他人の店、冷えたオレンジジュースを一瓶とコップを一つ。

 暑い中を連れ回した上、話が終わるまでしばらくは待っていてもらうことになる。

 さすがにそれは可哀相だ。喉も乾いているだろうし、適当な椅子に座せて「これ飲んで待っててくれ」とジュースを渡せば、りるはこくりと子供みたいな幼い仕草で頷いた。


「……“蓼虫の弥太”が、ねぇ」

「なんだよ大将」

「まるでオヤジみてぇだな、ってよ」

「何度も言うが、りるは二十歳だっつーの。こんなでかい子供持った覚えはありやせん」


 それが傍から見ると親子にでも見えたらしく、店主はにやにやと笑っている。

 しかし照れて慌てる純粋さはとっくの昔に落っことしたし、からかわれるような真似をしている自覚はあるので適当に流す。

 相変わらずの飄々とした振る舞いのまま、弥太郎はカウンター席に腰を落ち着け、これでようやく本題だ。


「大将、“幽霊兵士”の話、知ってるかい?」


 曰く、夜の花座には軍服を纏った幽霊が現われる夜の花座には幽霊兵士が出る。

“幽霊兵士”は大日本帝国の栄光のため戦地に赴き、しかし無残に戦死した青年の怨霊。

 戦後十年経ち、敗戦の屈辱も忘れ安穏と生きる国民に失望した幽霊兵士は、彼ら彼女らに憎しみを抱き軍刀で斬り殺すという。


「幽霊兵士って、軍服姿で軍刀持った怨霊が夜な夜な、ってやつか?」

「そう、それそれ」

「確かお客さんの間で話題になってたな……」


『こまい』は一晩中店を開いていて、お客のよく集まる人気の居酒屋だ。

 こういうところなら面白い話でも聞けるかと足を延ばしてみたが、どうやら当たりらしい。


「なんだ、探偵の真似事か?」

「どっちかって言うと警官の、かね。岩本の旦那に押し付けられちまってよ」

「ははぁ、お前も厄介なのに目を付けられたな。っと、幽霊の話だっけか? 俺も聞いただけなんで詳しいことは言えないが」

 

 そう前置きしてから、店主は客から仕入れた話を聞かせてくれた。

 軍服姿で軍刀を携えた幽霊。

 歩くたびに奇妙な音がする。

 襲われて殺された者はいない。

 誰かを探しているようで『チガウ』と言ってどこかへ消えた。

  

「奇妙な音……そいつぁ岩本の旦那は言ってなかったな」

「なんかが潰れるような、ぐちゃぐちゃとか、水音? 聞いた本人も何の音かよく分からなかったそうだが」

「他には、なんかあるか?」

「刀の持ち方から左利きだ、ってのと。走るのが遅いから簡単に逃げられるらしい。そのせいで中には『試しに見に行ってみよう』なんて言い出すのもいたよ」

「あらら、花街の客が無粋だねぇ」


 ネオンに照らされた夜道を歩けば、知らずあやかしとすれ違う。

 それも花街の風情だと思うのだが、そういう楽しみ方をしてくれるお客はなかなかおられない。

 多少寂しさを感じつつも、弥太郎の現状を考えれば、安全なら『試しに見に行ってみよう』という発案自体は悪くない。

 百聞は一見に如かずともいう。できれば百聞は面倒なので一見で済ませたいところである。

 

「あんがとよ、大将」

「おお、役に立ったか?」

「おう、“簡単に逃げられる”ってところが特に。とりあえず俺も見物して、まずは幽霊か不審者か見極めてみるよ。幽霊だったら手を引く理由になるしな」


 お互い花街の住人、幽霊である可能性は排除しない。

 しかし襲われないというのなら不審者よりも余程安全。正体を見極めれば仕事は果たしたと言えるだろうし、早速今夜視回ってみるとしよう。


「すみません、受領証をお願いします」


 そう決めたところで正義が店主へ声をかける。

 届けるだけでなく倉庫に酒瓶を運んでいたから時間がかかったのか、こちらが会話していたので気を遣ったのか。

 ともかくちょうどいい区切りになったし、「助かった、ありがとよ」と一言店主に告げてから弥太郎は席を立つ。


「おーい、りる。待たせたな」

「い、え」


 呼ばれて残ったジュースを一気飲みしてしまう辺り、本当にこの娘は幼く見える。

 苦笑しつつ、さて用事も終わったと二人は店を離れた。

 これで後は夜になるのを待つばかり。

 隣でとてとて歩いている神の娘を見ると、幽霊兵士なる輩とも、割り合いすぐに出会えるような気がした。

 





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